2章『思考』

 そろそろテスト期間ということで、木曜日の放課後、水野は制作をせず、家にすぐ帰ることにした。いつもより早い時間帯で帰ると、周りがいつもと違う。普段帰るときには居ない学生達や少なく感じる交通量、そして空の色。感じる空気や雰囲気の違いが、水野を不思議な気分にさせた。明るい空の下で、いつもより活気のある外で、水野は今にも叫びたかった。


 なぜ、と言われても説明できない。なぜか分からないがここにあるすべての生命の状態が、全く知らない星のもののように思えてきて、それが不思議だった。


 そんな事を考えていたら、気づかぬうちに家についていた。帰ってから何かしようと思っていたが、忘れてしまった。そんなことでは、テストの結果も知れたものじゃないか。ああ、そうだ。テスト勉強をしようと思っていたんだ。


 一連の帰ってからの流れを終わらせ、部屋に入ると安心した。今日も問題ない一日であった。いや、問題はあった。和泉が今日も休んだ。これで3日連続だ。どうかしている、何故それだけのことを問題だと思ってしまっているのか。部屋の中の匂いはいつもとおんなじで、だがその時ふと、この匂いはどんな匂いと呼ぶのだろうと思った。一人になると、こんなことを考え出す。今一人の自分が、他の人から見られた時、それは自然なことなのか、と。つまり、自分が今やっている行動は何も問題ない行為なのかということだった。それは結局答えのない考えなので、どうしようもないと思って、すぐ他のことを考え出す。


 テストが終わると、クラスで美術館に行く事になっている。そこへ行って、何を見ようか。和泉は、どんな事を考えながらその並べられた絵たちを見るのだろうか。


 水野はベッドに座り込み、妄想した。美術館で、自分が絵画を見ている隣で和泉が鑑賞している。真剣に鑑賞している和泉を見て、なんとなくその絵画を見つめる。何を思っているのか。考えは止まることなく、正直に思い続ける。そこで見ていた絵画は恐らく、後でまた調べ、再度鑑賞することになるだろう。それは果たして和泉が見た絵と同じなのか。


 ベッドに座っていた体は、段々と深く沈み、寝るような体勢になった。寝るつもりはなかったが、少し目を閉じているといつの間にか寝てしまっていた。


 再び目を覚ますときには、もう夜で、ご飯を食べてまたすぐ寝た。目を覚ますと朝で、時間が吹き飛んだみたいだった。そういえば、テスト勉強してないな。


 今日も和泉の席は空席で、俺はいつも以上に授業に身が入らなかった。いや、金曜日なのも相まっていただろう。クラス内の空気が安堵の成分で満ちていた。たとえ窓を開け、換気したとしても吐く息といっしょにお気楽な気分が漏れ出て、教室内を安堵の成分で満たすだろう。


 その日は、いつもより暑くて俺達の体力をじわじわと削った。昼休みが終わり、五限目の体育では男子皆が真上にある太陽を呪った。


「昨日は少し寒いくらいだったのになぁ」と神田がこぼした。仲間内で一人、既に制服を半袖にしていたやつがいた。そいつは、いつもより皆からの当たりが強かった。


 憎しみと暑さを込めて、ボールを投げる。バレーボールは、燃料が切れたかのような挙動をして宙を舞う。屋外でやるキャッチボールは、地獄でやる唯一の娯楽みたいだった。美術科に、体育やらせんなよ。とはよく思うが、美術科の中でも運動ができるやつは何人か居るので、口には出せなかった。ただ、俺と同じ様に運動が苦手な友達とは無言の抱擁をした。暑苦しい。


 暑くて疲れて、その後の授業は覚えていない。ただ、テスト範囲のことについて語っていたような気がするので、後で誰かに聞こう。そうこうしている内に一日が終わり、ようやく下校の時間になった。忘れないうちに勉強用の教科書などをバッグに詰め、教室をあとにした。


 帰って、特にやることがなかったので絵を描くことにした。何を描こうか。そうだな、暑い夏の風景でも描こうか。


 窓を開け、最低限部屋の空気の流れを良くし、机に向かった。机上では、紙とシャーペン。ベタベタする練りゴム、煌々と手元を照らす机のライト。それらが、今から描くものににらめっこする体制で、配置についた。手を動かし始めると、まるで今までの疲労が嘘だったかのように眼の前の世界に、没頭した。ああ、楽しいな。


 絵は、大体の構成と影は出来たが色は塗れていない。色か、描きたくないなぁ。娯楽で書いている絵に、拘りたくはない。だが色を付けてしまうと、中途半端だと気になってしょうがない。そうなるくらいなら、これで完成としたいが、どうだろう?果たして美術科がそれで良いのだろうか。いや、良いか別に。家でも美術科の意識である必要はない。それに俺は今、暇つぶしで絵を描いている。しかし暇つぶしとはいえ、世界の創造に妥協するのは、そもそも創造とは?最近、妙に創作に対しエセ理論を脳内で展開しだすが、果たしてそれは本当に美術の役に立つのだろうか。


 激しく脳を揺らすのは、いつも絵や漫画や映画などの、創作のことだった。心身ともに圧倒され、創作者としての格の違いを見せつけられ、それでも脳内に残るのはその感情だけであった。


 いつか俺にも、描けるだろうか。そんなもの。


 休日が始まり、俺もようやく休むことができる。土曜日、目が覚めたらもう昼時だった。熟睡しすぎて、体が痛い。頭もジンジンする。何故か休日はよく体調が悪くなる。


 今日は何をしようか。既に、テストのことは頭からとっくになくなっていて、それでいて思い出してもすぐに見て見ぬフリをした。今日は天気が良く、頭から爪先迄まぶしい日光が照らした。一階に降りると、家族は猫だけであった。そういえば、昨日の夜なにか言ってたな。どこへ行ったのだろうか。そう思うも本心では興味がないので、パンでも焼くことにした。


 休日はいつもそうだ。始まる前は待ち遠しく、いざ来てみれば、なんてこと無い。そんな一日を過ごす羽目になってしまう。そこが、俺の欠点か。はたまた休日はその様になる為のものなのか。


 パンを食べながら、昨日書いた絵のことを考える。結局色は塗った。そこかしこに。気づけば、俺は色を塗らなければ落ち着かない体になってしまった。以前は別にそんなことはなく、只々色を塗る絵と塗らない絵があった。それらに明確な違いはなく、塗るか塗らないかという種類の差であった。だが今となっては、塗る塗らないという事自体あり得ず、『色を塗る』という行為が絵を描く原動力になっていた。自分でも恐ろしい。俺は明確に意識していたのだ、あの日の言葉。あの日の和泉の言葉を。


 そうしているうちに休日は終わり、平日がやってくる。テストもある。あ、そういえばテストなら和泉来るだろう。はぁ、やっとなんで休んでたのか問い詰められるな。


 一週間の始まりというのにポツポツと雨が降り、気分の悪そうな空が学校への旅路を見守っていた。


「あんた、傘さして行きなさいよ」と母親が言ってきた。なぜ親というのはわかりきった答えをわざわざ伝えてくるのだろうか。それ程馬鹿だと思っているのだろうか。


 しかしそれとなく窓の外を見ると、嫌な雨の降り方をしていた。今にも止みそうだが、ポツポツと降り続けている。こんな雨が一番困る。天気が悪いことは差し引いても、もう少し地の上の住民のことを気遣ってくれても良いじゃないか。これだから天の上に住む住民は、地上のことをゴミ捨て場だとでも思っているんじゃないか。朝食のパンを齧りかじり…皿の上に落ちたパン屑が目に映る。雨がパン屑だとしたら、それらの恩恵を受ける我々はくずかごじゃないか。生物には生物の、住むべき場所がある。俺等の生きる場所はゴミ捨て場で、その中に住まう溝鼠たちはゴミを食らって生きている。ゴミを食らう塵が、ゴミの中で住まう。まるで喜劇のようだ。


 家を出た先に水溜りができていて、それに落ちる雨粒が降っている雨の強さを反映している。それを見て、傘を取り出した。濡れたくはないので、なるべく早く行きたいが早く行ってもどうせ濡れる。それならいっそ歩いていこうか、と思ったが今日は少し遅めに起きたのでそんな余裕はないと気づき、急いで学校へ向かった。


 学校へ向う途中の用水路では、不透明な色の水が溢れんばかりに流れていた。溢れたら、休める。そう思うが用水路の水は、溢れる寸前の辺りで止まっていた。ざあざあ流れるそれを観て、もし俺が小さくなって、小人になってあそこに入ればたちまち流されてしまうだろう。溺死というのは想像できない怖さがある。昔から海が嫌いであまり水場に縁がなかったので、リアルな溺死の恐怖を用意に想像できないでいた。苦しいとは言うが、実際に溺死してみないと分からんじゃないか。飲み物が気管支に入り、溺れそうになったことはあるが、それの苦しみのまま死んでいくなら、たしかに辛いのかもしれない。想像できる恐怖は想像できない恐怖より遥かに恐ろしい。なぜなら人は想像の範疇はんちゅうで物事を考え、想像できないものは理解できないからだ。しかしそれでは限界がある。想像とは今まで経験してきた物事から世界を解釈する行為である。経験からしか学べないようでは、創作者として1歩や2歩、遅れを取る。


 想像ではなく「創造」しなければならない。そうしなければ世界を創作する時、脳内範疇の思考が制限されてしまうのだ。物事は形を持って初めて意味をなし、形を持つことで存在できる。存在する想像を創作する者を、芸術家というのだ。


 その日和泉は、学校に来ていた。さすがにテスト期間中は来るか…。そう思い、話しかけようとするも何を話せばよいか分からず、かと言って何故今まで学校に来なかったのだと問い詰めずにはいられない。


 しょうがないからあっちから話すまで無視しようか。そう考え黙っていると、和泉がこちらにやってきた。


「おはよう水野君」


「おはよう。和泉」


「ごめんね。ずっと学校来てなくて、ちょっと調子がすぐれなくて」


「いや別に気にしてねえよ」嘘だ。が心配してたとバカ正直に言ってもそれはそれで気持ち悪い。


「そう、僕が居ない間どうだった?」それは、どういう意味なんだろうか。


「どうだったって、何がだよ?別に事件も何もおきてねえよ」


「そうじゃなくて、絵のことだよ。僕が居ない間もちゃんと制作を進めてた?」超能力者か、こいつ。俺が和泉が居ない間、ろくに制作に手がつかなかったことをなんで知ってる。


「まあ、おう。ぼちぼちだな」


「そっか。お互いテスト頑張ろうね」


 そう言って席に戻っていった和泉は、優しく失望するような顔をしていた。俺は、自分を恨んだ。何故もっと絵を描かなかった。何故俺は、和泉が居ない間和泉が居ないことばかり気にしていた。他人を心配できるのは、他人に心配されない人間だけだ。強い人間が弱い人間を助けるのが、この世界のルールだ。俺は弱い人間だ。


 テストは頭に入らなかった。意味のない文字列がまるで意味のない問題の形をしていた。そこには唯文字があるだけであった。


 テストが終わり、帰る時間になると和泉は、どこかへ向かった。後をついていくと、あいつは素描室に向かった。授業の素描を進めるためか。中に入ると、和泉と他に数名デッサンをしていた。おれも始めようとすると、後ろから神田と松本まつもとがついてきていた。


「えぇテスト期間中でもやんのか」と松本。


「まっ、俺も進めていなかったしな」と神田。


 二人は俺の方へ来て準備を始めた。


「なんで来たんだ」そう俺が二人に聞くと。


「暇だから」という答えが帰ってきた。俺はそれに素直に嬉しがった。


 和泉は俺と同じモチーフを描く班で、松本は別。神田は俺と同じ班だった。少し離れたところで、松本は描き始め、昼くらいに帰るかとこぼしていた。そうか、俺もそのくらいに帰るかな。そう考えていると、眼の前のモチーフ。その奥の泉がこちらを見ていた。その目は、俺に「そんな早く帰るの?」と問いかけてきていた。俺は、目で返事を返した。


「まさか」と。


 デッサンは楽しい。が、授業でやると楽しくない。何故か、それは姿勢だと思う。授業だと、大人数で教師に見守られながら素描することになる。だが放課後など、好きな時間に好きな姿勢でやることで、集中できる。別に授業を否定する訳では無いが、それに対する向き合い方というもので集中の度合いが推し量れる。デッサンの場合目で見て、手で描く。割合は9:1。その9を、自分の意志で集中して行う。それが放課後ならできる。


 しかしそれを、いつ何時でも出来るやつがいる。眼の前のやつだ。和泉は、9で見て1で描くし、1で見て9を描く。それを目の前でやってのける。すごい奴だ。正直いかれてる。もし文であいつの凄さと言うものを表現するなら、どうだろう。書くならば、絵を描くために生まれてきた物体、というだろうか。


 紙とイーゼルとモチーフの奥の彼は天から授かった目と頭と手と足を行使した。紙面に走らせて作る描画は切り取った現実のようだった。時々トイレに向かうフリをしてあいつのデッサンを見た。自分の描くデッサンが幼児の描いたもののように思えた。


 和泉が描くモチーフの、木箱や林檎や布が全て、彼の体で遮られた光を必死に反射しようとしていたがそれは叶わない。


 ぼちぼち進めていると、松本と神田が帰ることにした時間になった。こちらをちらっと見て、そそくさと帰った。俺はそれをなんとか茶化したくなって「もう帰るのか」と言った。そして後悔する。口に出してみるとこんなにださい。赤くなった顔を隠すように、デッサンに向き合った。


 もうしばらくして、俺が流石に帰るかな、と思っていると和泉が「ちょっと休憩しようか」とこちらに向かって言った。腹が鳴る。少しの沈黙。俺が笑い和泉も笑う。


 帰った時には夕方で、親は心配していた。ドアを開けてただいまを言うとき、左手の時計は5時20分を表していた。


 疲れ果て、ベッドに倒れると自分でも驚くぐらいよく眠れた。死んでるみたいに。そら豆のベッドで死んで、天国へ行きたい。小さい頃の夢で、今も願っている。俺は一刻も早く天国に行きたいんだ。そう思いながら、眠った。


 夜の静寂が、うるさいくらいの時間に起きた。静かすぎて煩い、部屋を照らす照明が煩い、顔を歪める寝すぎた感、そいつ等皆煩い。嫌な気分ではないが、とにかく不機嫌だった。そんなときこそ、絵を。そう思うも朝から何も食べてないことに気づき、下へ向かった。皆寝てるだろうと思ったので、足音には気を使った。


 下で食べるご飯は味がしなかった。白米の他におかずがない。ふりかけもない。何か残してるだろうと思ったが、テーブルには何も無い。そして探すのが面倒くさいので、ひたすら白米を口に入れた。


 虚無。俺が今食べているのは、虚無だ。必死にかき集めているご飯、箸が追うのは俺の見ていた夢なのだ。必死に考える。此処ここから先の状況を。初めて学校の行事などで、家以外で寝たときのような、自分以外の身近な人間が居ない、あの時の感覚に似ている。


 今日一日の体験を、必死に思い起こす。まだ睡眠状態から完全に抜けきっていない、脳を揺らす。頭の中で時系列を遡ると、今日の失態が頭に浮かぶ。


「ああ、ああ、ああ」声にもならない声が出る。俺は後悔している。今日起こした行動全てに。端から端まで、全て小賢しい。おれは、俺はなんであの時「もう帰るのか」なんて言ったんだ。それをずっと、夢を眺めている間ずっと、頭によぎった。しかし、あの時は何故かちょっと、茶化してみたかったんだ。世の思考すべて煮詰めてもこんなに恥ずかしい言葉は出ないだろう。「もう帰るのか」?気持ち悪い。自分なんて、和泉が居ない間の制作をまともにこなしていなかったじゃないか。そんな奴が腹をすかした人間に対し、「もう帰るのか」?


 頭の周りの空白は、夜通し俺を攻め続ける。咀嚼そしゃくしていた米は、脱力して喉に滑り込む。夜はいつもこうだ。朝になると、「何でもないな」と思う事をいつまでも悩み続ける。それが恥ずかしいし、今も恥ずかしい。自分の後悔も、後悔する事象も、後悔するであろうことを実行した自分もすべて恨む。


 いつか、謝ろう。なんでもない事で夜を開かせるようになったら、謝ろう。「高校の時さあ」なんてくだらない文言から始めよう。そうするまで今日の罪は完全に消えない。何晩も悩んで、これは消えないんだと再確認して、眠る。そんな後悔は指では数え切れない。


 不意に窓を見た。どうでもいいことを考えた。


 窓の外は夜の闇で染まっていた。こんな色で絵を描きたいと強くそう思った。

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