一人酒の至福

kou

一人酒の至福

 夜の通勤電車内は静寂に包まれていた。

 座席には疲れた表情のサラリーマンやOLが座り、スマートフォンや本を手に取っている。車内の照明が柔らかく、窓の外には都会の夜景が流れている。

 橋本拓海は、その中で立っていた。

 地方の会社に勤めているしがないサラリーマンだ。

 32歳の独身、アパート暮らし。

 営業の仕事をしていて、毎日遅くまで働いているためか目の下のクマが目立つようになっていた。今日も疲労感を全身に滲ませながら、吊り革に掴まって立っている。

(早く帰って寝たい……)

 そんなことを考えながら帰りの電車に揺られるのが日課になっていた。

 しかし、今日は普段と違っていた。

 それは明日から連休が始まるからだった。

 3日も休みがあると思うと心が軽くなる気がした。

 しかも、健康診断も終わり禁酒生活からも解放されて自由の身になれるのだ。

 下車駅に到着し、ホームに出ると風が肌を撫でた。

 ふと空を見上げると月が出ていた。満月ではないが綺麗な円形で輝いている。

 そして、その横には輝く星々が見えた。

 いつもは街灯や建物の明かりのせいであまり見えない星空だったが、明日は雲もなく快晴だと天気予報が言っていたので、その為だろう。そんなことを思いながら改札を出ると、駅前にあるコンビニに立ち寄って6缶パックのビールと、つまみにさきイカを購入した。

(よし、帰ろう!)

 意気揚々と六畳一間の狭い部屋に帰ってきた拓海はスーツを脱ぎ、ネクタイをむしる様に外して、ランニングシャツとトランクス姿になった。初夏を迎えた男の部屋着スタイルだ。

 時計を見ると22時を過ぎていた。

 誰にも気兼ねしない自分だけの時間がやってきたことに安堵する。

 明日から連休ということで、同僚と上司から飲みに誘われていたが、仕事が終わった後でも上司と顔を突き合わせ、仕事の話ばかり聞かされるのは嫌だったので全て断っていた。

 せっかく酒が飲めるのに、堅苦しく自分を開放できない飲み会に参加するなら、家で宅飲みをして、ゆっくりしていたかったからだ。

 仕事を終えて疲れ果てた体は休息を求めていた。

 いつもならシャワー、飯という流れだが、買ってきたばかりのビールを開けることにした。

 ステイオンタブを起こすと、プシュッという小気味よい音と共に蓋を空けた缶を口に当て一気に流し込む。ゴクゴクと音を立てて喉を通過する感覚と共に爽快感が全身を駆け巡った。

 空きっ腹に染み渡る感覚が堪らない。

 アルコールが体の隅々にしみ渡り、週の疲れを一掃してくれそうだ。

 あっという間に1本目のビールを飲み干してしまった。

「ぷはーっ! うまい!!」

 仕事で疲労しきった体に、健康診断前ということで一週間も我慢したアルコールが入ったことで思わず声が出てしまった。喉、食道、胃袋に順番に流れたビールが余韻を残していくのが分かるようだった。

 ビールを飲むのが我慢できなくて缶のまま飲んでしまったが、ビールを美味しく味わうにはグラスに注ぐことだ。

 日本のビールは抜ける量も計算して炭酸ガスを多めに入れている。その為、缶や瓶から直飲みすると苦みが強すぎるのだ。グラスに注いで飲む方が、炭酸ガスの量も適切になり、苦みが少なくマイルドな喉越しになる。

 拓海は冷蔵庫で予め冷やしておいたグラスを取り出す。グラスに少し高めの位置からビールを注ぐ。白い泡が堆積すると、グラスを斜めに持ち泡の下をくぐらせるようにビールを注ぐ。

 淡い金色をした液体の上に、白く細かな泡の粒が浮かぶ美しい光景ができあがる。プクプクと炭酸が弾けていく音が耳に心地よい。

 騒がしい店内では、この音を感じることはできないだろう。静かな空間だからこそ味わえる贅沢な瞬間だ。

 グラスに口をつけて傾けると、きめ細やかなクリーミーな泡と一緒に冷えたビールが流れ込んでくる。

 口の中で弾ける炭酸の刺激と麦芽の香りが鼻を抜けていった。

 喉の奥を通ると、ホップの苦味を感じつつも爽やかな香りが抜けていく。舌の上をピリッとした刺激が走る。

 それが心地良い。

 冷えたビールならではのキレのある味わいが広がり、鼻の奥に香りが抜けていくのが分かる。

 拓海は思わず目を瞑り、その美味しさに浸ってしまう。

 二口目はグッと一気に飲み干す。口の中に広がる清涼感と程良い苦味がたまらない。仕事の疲れも相まって、最高に美味いと感じることができた。

 ビールを口にしながら、さきイカの袋を破いて口に運ぶ。イカの塩味と噛みごたえ、ビールの苦味と喉の潤いが絶妙に調和する。

 ダベりは必要ない。

 一人でいるからこそ、この味わいを存分に楽しめるのだった。

 拓海は喉を鳴らしながらビールを飲む。

 一気に2缶目を空にする勢いで飲んだ為、胃袋が炭酸で膨れ上がる。嘔吐にも似た勢いでゲップが出た。周囲に人が居れば女性でなくとも男性でも不快にさせる行為だが、一人だから誰に文句も言われない。

 一人の自由さと酔いが重なり、今まで溜め込んでいた疲れが吹き飛んでいく。

 禁酒生活を経て、アルコールの喉越しの良さに改めて気づかされる。適度に冷えた缶ビールを手に、空きっ腹を満たすイカのおつまみ。

 些細な日常の幸せを味わえる、それが一人酒の醍醐味なのだった。

 次第にビールが進むと、拓海の中に柔らかな酔いが満ちてきた。頬は上気し、豊齢線も浮き出し始める。

 窓の外を見ると、先程見た美しい月が、頂点に達している。

「月が、きれいだ」

 拓海は思わず独り言を漏らしてしまうほど心地よい気分だった。

 これから先の人生に、どんな試練が待っているかは分からない。

 でも、今この瞬間は、心地よい酔いに心が満たされている。

 拓海は、そんな小さな至福の時間に浸っていた。

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