たからもの
増田朋美
たからもの
5月になって、だいぶ過ごしやすい一日になってきたなと思われる日であった。そうなると、いろんなことがやりやすくなって、一日を楽しむのがまた変わってくるかなと思われる季節になってきたような気がする。
しかし、その日も、水穂さんがご飯を口にしても咳き込んで吐き出してしまうことを繰り返し、今日はたまたま来てくれた今西由紀子が、水穂さん大丈夫?と言って、背中をさすってあげていた。それを目撃したブッチャーこと須藤聰が、大変呆れた顔で、
「水穂さん、いい加減にご飯を食べてくださいよ。俺達、水穂さんがご飯を食べないでいい迷惑を被ってるんですよ!」
と、言うのであった。由紀子は、
「水穂さんにそんなこと言わないであげてよ。苦しいんだから。」
と言ったのであるが、それと同時に、用事から戻ってきた、製鉄所を管理しているジョチさんこと曾我正輝さんが、
「由紀子さんみたいに、心が美しい方は、そう思ってあげられるんでしょうけど、こう毎日のように、咳き込んで、ご飯を食べないで生活しているのでは、ほんとに困りますよ。」
と困った顔で言った。
「私のことを、そのように言わなくて結構です。それより、水穂さんをお医者さんに見せるとか、そっちをしてあげてください。」
由紀子はそう訴えたが、
「ああ、無理ですね。どうせ、銘仙のきもの着てるやつは、お断りだって、医療関係者から、追い出されるのが落ちです。由紀子さんだって何回も経験してるじゃないですか。それ以上のことを、水穂さんに捺せたくありません。」
と、ブッチャーはすぐに言った。それと同時に、水穂さんの口元から吐き出すものの本体がぐわっと姿を現した。本体は、朱肉のように真っ赤で、魚のような生臭いものだった。つまるところ、鮮血であった。由紀子は、急いで、水穂さんの口元を、タオルで拭いてあげたが、それでも布団を汚すことは避けられなかった。
「あーあ、またですか。布団代がたまらないですねえ。ほんと、俺達どうしたら良いんだろう。」
ブッチャーが言うと、ジョチさんも、
「そうですねえ。由紀子さんがお仕事が休みのときは、こうしてきてくれるんですけど、それ以外のときに誰かやってくれる人を、探しているんですけどね。求人サイトにも載せているんですけど、一軒も応募してきたことがありません。それに、来てくれたとしても、3日持てば上出来。みんな水穂さんに、音を上げてやめてしまうんですよね。」
と、大きなため息をついた。
「本来であれば、治療可能なんですけどねえ。銘仙のきもの着てるからと言って、医療関係者から断られるのを繰り返されたせいで、こうなってしまいました。まあ、ねえ。同和問題は、日本の歴史が関わってくるものですからね。それを変えることはできないし。俺達ができることはほとんど無いわけですよ。」
ブッチャーが、事実をその通りに述べた。確かにその通りなのだ。水穂さんが、銘仙の着物を着ているせいで、救急病院に連れて行こうにも、受け入れてもらえず帰るしかなかったこともある。それは、由紀子も知っている。だけど、水穂さんをなんとかしてあげたい気持ちを由紀子は持っていた。
「仕方ありません。いずれにしても水穂さんは一人では何もできないものですから、誰か代理で世話をしてくれる女中さんを探すしか無いわけですね。まあ、無理なことだとは思うんですけどね。」
ジョチさんも、やれやれという顔をした。由紀子は、水穂さんに枕元においてある水のみをとって、それを、水穂さんに飲ませたのであった。中身は、漢方医の柳沢裕美先生が用意してくれた漢方薬である。と言っても、抗生物質のような協力な薬品ではないし、ただ、症状を和らげて眠らせるだけの薬で、水穂さんは、薬を飲むと倒れるように眠ってしまったのだった。
「まあとりあえず、柳沢先生が、こちらに来てくれて、薬を出してくれるのだから、水穂さんはまだ良いほうだと思うことにしましょう。銘仙の着物を着ている人は、医療を受けられるどころか、食事さえも不自由な人も多いのですから。」
ジョチさんは、そう思うしか無いという顔をして、水穂さんを見た。ブッチャーも、そうですねと、話をあわせた。由紀子だけは、二人の話にどうしても受け入れることができなかった。なんで、水穂さんは、現在の医学であれば十分に治療可能な病気なのに、こうして苦しまなければならないのだろうか?ジョチさんたちは、求人サイトに女中さんを募集する投稿を開始している。男性というのは、こうやって、すぐにホイホイと動けるものである。だけど、女性である自分は、そういうわけではないと思う。それがやっぱり、男女の違いということだと思った。
「おーい!みんな元気?」
いつの間にか、製鉄所の玄関先からそんな声が聞こえてきた。ちなみに製鉄所というのは、ジョチさんが管理している福祉施設の施設名で、鉄を作るところという意味ではない。製鉄所は、居場所の無い女性たちに、勉強や仕事をする部屋を貸し出している福祉施設であり、中には水穂さんのように、間借りをしている人もいる。そういう人たちの食事は、昔は調理係を雇っていたようであるが、現在は利用者が持ち寄るか、杉ちゃんが担当することになっている。
「相変わらず元気ですね。杉ちゃん、ずいぶん遅かったけど、買い物だけでそんなにかかるもんなんですか?」
ブッチャーが呆れた声で杉ちゃんに言うと、車椅子を動かしながら、杉ちゃんは製鉄所の部屋の中に入ってきた。
「おう。実は、見つかったんだよ。ここの手伝いをしてくれる女中さんがな。良いよ、入れ!」
杉ちゃんがでかい声でそう言うと、一人の女性が部屋に入ってきた。一見すると、特に事情はなさそうな、普通の女性であったが、
「なんでも、働くところが見つからなくて、それで大変らしいからな。それなら、製鉄所で働いたらって言って、連れてきたんだ。名前はえーと、何だっけ?」
杉ちゃんに言われて女性は、一つお辞儀をし、
「初めまして。私、平畑朋子と申します。年は、50歳。どんな仕事でも引き受けますから、よろしくお願いします。」
と、自己紹介した。
「平畑朋子?なんだか聞いたことがある名前ですね。」
とジョチさんが思わず言うが、
「まあ細かいことは気にしないでだな。どうせ水穂さんの世話をしてくれる人材はいなかったわけだし、それなら彼女にやってもらえればそれでいいだろ。じゃあ、早速だが、水穂さんの枕元の整理とか、そういうものを頼むぜ。」
と、杉ちゃんはでかい声で言った。
「そうですが、平畑朋子という名前は、聞いたことあるよ。なんか新聞かなんかに出ていませんでしたか?なにか事情があるのなら、一度お話したほうが良いと思いますがね。」
ブッチャーもそういうのであるが、杉ちゃんはとにかく眠っている間に、やってしまってくれと言った。平畑さんはわかりましたと言って、水穂さんの枕元を片付け始めた。まず吐いた鮮血をタオルで拭き取り、アルコールで消毒して、水のみの中身もきれいに洗った。由紀子は、それを見て手際の良さに驚いた。
「ずいぶん、慣れてらっしゃるんですね。介護の仕事でもされていたんですか?」
由紀子は思わず聞いてしまう。
「ええ、ちょっと講座を受けたことがありまして。」
と平畑さんはそう答えるのであるが、
「講座ってどこで受けたんですか?」
と由紀子は聞いてしまった。杉ちゃんが、まあ良いじゃないかと、由紀子に言うのであるが、でも、由紀子にしてみれば、自分の役割を、この女性に奪われた気がして、きかずにはいられなかった。
「まあ、富士市の講座といいますか、そういう公的機関の講座です。介護実習とか、そういう物がありまして。」
平畑さんはそう言うが、それと同時に、由紀子のスマートフォンがなった。なんでも富士市からのお知らせで、富士市民であれば誰でもこのメールを受信しなければならないことになっていた。由紀子はそれを開いてみると、それには富士市で開講している講座のお知らせであった。だけど、その中に介護や医療にまつわる講座は何もなかった。
「富士市の講座って、そのような講座は、どこにもないわよ!」
由紀子は思わず言ってしまった。
「おかしいなあ。今の時代、深刻な介護士不足で、介護の講座とかよく行われているって聞いたことあったけど?」
杉ちゃんがそういうのであるが、
「一体どういうことなんですか?だって富士市では、そのようなものは行われていないようですよ。それに介護実習はどこで行われているのかしら?もし開催のお知らせがあるのなら、メールでお知らせしてくれるはずだわ。」
と、由紀子は、平畑さんに詰め寄った。
「本当は違うんでしょう。他のところで介護実習を受けてきたんじゃありませんか?それはどこですか?私、隠したり隠されたりするのは一番キライなんです。」
由紀子がそう言うと平畑さんはもう観念したと思ったのだろうか、ハイと小さな声で言って、
「刑務所です。」
と言った。ジョチさんがすぐに、
「あなたやっぱり!」
と、言うと、
「ごめんなさい。刑期を終えて出所したばかりなんです。仕事を探しても働くところがなくて、杉ちゃんという人にあって、だったらここで働いてくれと頼まれて、一緒に来たんです!」
と、平畑さんは言った。
「そうなんですね。あなたの名前を聞いて事件のことを思い出しました。あなたは確か、娘さんを殺害した容疑で逮捕されて、刑務所にいかれたのでしたよね。それにしても、意外にあなたが刑務所にいた時間は短かったですね。それはどうしてなのでしょうか?なにかあったのですか?」
ジョチさんが急いでそう言うと、
「ええ、模範囚だったので早く出所が認められました。」
と、彼女は言った。
「ああ、そうなんですか。それなら、娘さんを殺害したというのは事実だったのでしょうか?テレビのニュースでもよく報道されていましたねえ。あなたは、確か、娘さんがひどい精神疾患にかかったせいで、もう治る可能性は無いと思い込み、彼女を殺害したとおっしゃっていたそうじゃありませんか。それは、本当にそうだったんですか?」
ジョチさんが平畑さんに言うと、由紀子は思わず
「あの、平畑さんを許してやってくれませんか?」
と言う言葉が出た。自分でも意外だった。なんで自分の口からこんな言葉が出るんだろう。
「ええ。だって、したことは確かに悪いことかもしれないけど、そのときはそうするしかできなかったのでしょうから。もう、刑期を終えて出所したんです。許してやってください。」
「由紀子さん、水穂さんとおんなじこと言ってる。」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「なんか恋をして、相手にそっくりになっちまったようだな。」
「でも、許すってことは、大事なことだと思うんです。きっと、あたしたちがすることは、何でも完全にできるわけ無いと思うし、時には間違いをすることもあるでしょう。だからそれを、もういいんだって、許してあげることも大事なのではないでしょうか。」
「へえ、由紀子さんがそういうこと言うとはね。それは僕も賛成。だったら、ここで働かせてあげようぜ。あと、部屋の掃除とか、ご飯の支度も手伝ってくれるとありがたいな。僕、車椅子だから、どうしてもできないことはあるからな。まあそれは、由紀子さんの言葉を借りれば、何でも完璧にできるわけじゃないってことよな。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。他の人達も、どうしてそういうことを言えるのかよくわからなかったけど、とりあえず苦笑いをして、平畑朋子さんに続きをやってくれるように言った。平畑さんはわかりましたと言って、続きを開始してくれた。
とりあえず、水穂さんの枕元は血で汚れた部分を除けば、きれいになった。あと数分で水穂さんは目が覚めると杉ちゃんは言った。そうしたらどうするのかと平畑さんが聞くと、涼さんが鍼をしにやってくると杉ちゃんは答えた。杉ちゃんの言い方は、肝心なことをちゃんと言うのはいいのだけれど、余分なことを省略してしまうので、理解しにくいところもあった。平畑さんはそれ以上、杉ちゃんには聞かないで、手際よく、縁側の掃除をはじめてしまった。
それと同時に、製鉄所の玄関の引き戸が開いた。製鉄所にはインターフォンがないので口でご挨拶をしなければならない。それが、成長への第一歩と捉えられているので、インターフォンを押すという習慣は存在しないようなのだ。
「こんにちは、古川です。」
「あ、涼さんだ!」
杉ちゃんはでかい声で言った。ジョチさんはすぐにどうぞお入りくださいと言った。同時に玄関に設置されている柱時計が二回なった。
「玄関の扉から時計まで、、、九歩。」
と言っている声がしたので、涼さんは視力が無いことがわかる。だけど誰も手助けすることなく、白い杖を持って、涼さんは、周りを探りながら、部屋へ入ってきた。それと同時に水穂さんが目を覚まして、すぐに布団から起きて、涼さんに深々と座礼をする。それも多分、涼さんには見えてないと思うけど、
「いえ大丈夫です。そんな極端な挨拶をしないでも。それより水穂さん、鍼をうちますから、横になってくれませんか?」
と涼さんは言うのだった。それではおじゃま虫は消えますねとブッチャーとジョチさんは、部屋を出ていった。由紀子は水穂さんが心配で部屋に残った。平畑さんはそれに構わず雑巾がけを続けていた。涼さんは水穂さんの近くに座って道具箱を開けた。そして水穂さんの体を消毒して、手早く鍼を刺した。別に注射針のように痛い鍼ではなかった。水穂さんの体はげっそり痩せていて、やはり何日もご飯を食べていないことがわかった。鍼のお陰で水穂さんが食欲を取り戻してくれるかは不詳だが、杉ちゃんたちは、少なくとも、血流が良くなって、生きる意欲も湧いてくるのではないかと言っていた。
涼さんは、鍼を抜いて鍼を道具箱の中へ戻した。それと同時に、水穂さんは着物を着直して、どうもありがとうございましたといった。涼さんは、いいえ大丈夫ですよと優しく言ってくれた。それと同時に、杉ちゃんが涼さんにお茶を持ってきてくれた。
「どうもすみませんねえ。毎月定期的に来てくださって嬉しいよ。他にも、鍼をしている患者さんはいっぱいいるんでしょ?」
杉ちゃんはお菓子を食べながらでかい声で言った。
「ええまあ、でも最近は、カウンセリングといいますか、傾聴のしごともしているのでそちらの方を頼まれることが多いです。」
涼さんはお茶を飲みながら答える。
「傾聴ですか?」
と由紀子は涼さんに言った。
「ええ、人のお話を聞かせていただいて、ちょっとアドバイスもさせていただいたり。深刻な悩みを抱えている方や、日頃のストレスを解消したい方から、十人十色ですが、いろんな話を聞かせていただいています。」
涼さんが答えると、
「そうなんですね。涼さん、鍼の仕事以外に、そういう資格とかとったんですか?」
と、由紀子は聞いてみた。
「ええ、まあ。盲学校の高等部を出たあと、鍼の専門学校を出ましたが、その時に、心理療術師という資格を取らせて頂いたんですよ。そのほうが、より、患者さんの話に近づけるのではないかと思いましてね。ただ鍼を刺すだけでは、患者さんを助けるということに近づけないかなと思ったんですよ。」
と涼さんはそういうのであった。
「そうですか。偉いですねえ。そうやって、自分の可能性を少しでも広げようとしてるなんて。」
由紀子はそういったのであるが、涼さんは盲人らしく表情を変えないで、
「ええ。まあ確かに目が見えないので、色々制限があるというのは確かなんでしょうが、でも、それだけでは行けないじゃないですか。できるだけできることは多いほうがいいのではないかと思うんです。盲人だからといって、できないと決めつけてしまうのは一番悪いですよね。」
というのだった。
「そうか、できないと決めつけちゃいけないか。なんかすごいね。僕も歩けないけど、なんかできることあるかなあ。」
「杉ちゃんは和裁ができるんだからいいじゃないのかしら?」
杉ちゃんと由紀子はそう話していると、不意に水穂さんが、
「どうしたんです?なんで泣くのですか?」
と聞いた。それで初めて、みな女性が泣いているのに気がついた。泣いているのは、平畑朋子さんだった。
「人が感動的な話をしているのに泣かれちゃ困る。なんで泣いているのか、理由を話してくれ。」
杉ちゃんという人は、理由がはっきりするまで話を止めない癖があった。だから、それのせいで被害を被ることもあるが、それが帰って好転換することもある。
「だって私、娘が死にたいって言ったとき、もうこの子は、そうするしか無いのではないかと思ってしまったんです。刑務所にいたときもそれは間違いじゃないって思ってました。娘は、変なことも平気で言うようになり、幻聴が聞こえてくると言ったりして、それではもうダメだ、これ以上生かしてもても可能性は無いと私は思ってしまったんです。だから、娘を手に掛けるしかなかったんですよ。だけど、それじゃ行けないんですよね。本当は、涼さんが言ったとおり、まだできることを探してあげるべきだったんです。娘はまだ、宝物がいっぱい残されていたかもしれないのです。」
平畑朋子さんは涙をこぼして泣き始めてしまった。
「そんなこと、ここでしないでどっか他のところでしてくれないかな?」
杉ちゃんがそう言うが、由紀子は杉ちゃんに、
「ちょっとだけ泣かせてあげてもいいのではないですか?今この人は、真実と言うか、本当のことを知ったんだと思いますから。」
と、言ったのであった。みんな由紀子さんがそんな発言するとは珍しいという感じの顔をしたが、
「そうですね。それではちょっとだけ。」
と、水穂さんが静かに言ったため、それ以上のことは何も言わなかった。
外は新緑が美しい季節だった。まさしく、緑がきれいという言葉がふさわしい季節だった。それはきっと長くは続かないと思うけど、でも、良い季節であることに間違いはなかった。
たからもの 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます