横スクロール令嬢

quiet

本編



 公爵令嬢・レイージョは王宮の廊下で考えていた。

 もしかして自分は、ゲームの世界に転生しているのではないかと。


 理由はふたつある。

 ひとつは、前世の記憶があるから。前世ネームは朝壁舞。Web小説とマンガアプリを駆使して西洋貴族風王宮恋愛ものを読み漁る一介のOL(Oil Launcher)(石油射出者。宇宙に向けて石油を搭載したロケットを発射するボタンを押しまくる職業のこと)だった。それがなんか気付いたら今だ。これは怪しい。


 もうひとつは、




■■■■■■■■■■■■■■■■■

■               ■

■    令嬢クエスト     ■

■ ~私が婚約破棄されるまで~ ■

■               ■

■■■■■■■■■■■■■■■■■




 さっきからこれがずっと視界に表示されているから。

 もっと早く気付けばよかった。


「くそっ、何でもかんでも『令嬢』とか『婚約破棄』ってつければいいと思いやがって……」


 もう五回だ。


 今、レイージョは王宮の廊下から王宮のなんか踊ったりするところに行こうとしている。意識が覚醒したのがついさっきであることを踏まえれば、おそらくそのなんか踊ったりするところで婚約破棄が行われるはずである。


 その道中で、すでにレイージョは五回命を落としている。

 図にすると、こんな感じの廊下だからだ。




令                    扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



 おそらく、とレイージョは思っている。

 ここは横スクロールゲームの世界なのではないだろうか?


 そう考えれば、折角ゲームの世界に転生したのにやたらに操作性がシンプルなことにも、クリアまで異様に短そうなゲームタイトルが視界にチラついていることにも納得がいく。


 落とし穴に落ちてから目を覚ましたときは「死に戻りものか……」と思ったが、横スクロールゲームだと考えるとなおさら辻褄が合う。


 そして、ゲーム性さえわかればクリアも目前だ。


「今度こそやってやる……さあ、ゲームを始めるがいい!」





START!!!!!!!!!!!!!




令               矢←―  扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「ふん、早速矢が飛んできたか……」


 レイージョはすでにこの矢を何度も見ている。

 しかし、別にそのことによって「なんで王宮の廊下で矢が飛んでくるんだろう」という疑問を解消できたわけではない。だから彼女は思っている。なんで王宮の廊下で矢が飛んでくるんだろう。


 しかし、そんなことは人生とは何の関係もないのだ!


「うおおおおお!!!!」



―――→令   矢←―          扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「舐めるなよ!!!!!」


      令

    ↗   矢←―     矢←―  扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「どおりゃああああああ!!!!」


       ↘

     矢← 令   矢←―      扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「よっしゃあ!!! ついに着地した!!!!」


 しかし二の矢が続いていることにすぐさまレイージョは気付く!

 ここから初見ゾーンだ!


「うおおおお!!!!!」



        令

        ↑

      矢←|―    矢←―    扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「ふう……」


        |

        ↓

    矢←― 令   矢←―      扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「うおおおお!!!!!」


        令

        ↑

      矢←|―    矢←―    扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「ふう……」


        |

        ↓

    矢←― 令  矢←―       扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



 レイージョは次々に飛来する矢に対処しながら前進することを諦め、一旦勇ましい声を上げてジャンプしては降りてチルすることを繰り返し、現状を維持することにした。


 人生とはこういうものだ。次々と新たなる苦難と脅威が現れ、人は凄まじい気合を入れながら跳躍を繰り返すことでしか、現状維持すらままならないのである。


「はっ、ほっ、ふっ……」


 しかし、継続は力なりという言葉もある。

 繰り返すうちに、レイージョはこの動作に慣れてきた。


「ふんっ、はっ、ふんっ……」


 叫ぶ声は要らなくなった。気合もまた、同じく。

 すると彼女の頭の中に訪れるひとつの考えがある。



 ―――この場所から動くのが、怖い。



「ふっ……はっ……」


 本当にこの先に、これらの苦難に報いるだけの何かが待っているのだろうか?


 停滞していれば、確かに体力はなくなり事態は悪化していくだろう。

 しかし、その悪化というのは『想像の付く範囲』で起こるものだ。


 今、彼女の思考を支配しようとしているのは『未知への恐怖』だ。


 もしかすると、この先に待つのはさらなる苦難かもしれない。それであればまだいい。あるいは失望かもしれない。この場にいれば、少なくとも夢を見続けることはできる。この先に何か素晴らしいものが待っているのではないか。そうやって想像に浸ることはできる。


 時に人は、目的地に到達することよりもむしろ、その途上に自らがあることにこそ安らぎを覚える。


 その安らぎから抜け出して前に進む方法は、たったひとつ。

 かけがえのない勇気を出すこと――――




→マ

→グ

→マ   矢← 令  矢←――      扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄




「うわああああマグマが後ろから迫ってきてるううう!!!!!!」


 よく考えたらもうひとつある。

 安らぎの後方から横スクゲーみたいにマグマが迫ってきて、その場に留まることがどうやっても不可能になるパターンだ。



 →マ

 →グ        令

 →マ  矢←  ↗ 矢←―      扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「うお、」



  →マ

  →グ       ↘ 

  →マ     矢← 令  矢←―   扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「お、」



   →マ

   →グ         令

   →マ   矢←  ↗矢←―     扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「お、お、」



    →マ

    →グ        ↘

    →マ 矢←   矢←― 令    扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「おいしゃあああああ!!!!!!!」



 事ここに至れば、後はもう走るだけだった。

 ウイニングランだ。レイージョは走る。間隔から考えてもう一本くらい矢も飛んで来るのだが、それも難なく躱す。ホップステップフォーエバーラブ。彼女は走る。


 走り、


「うおおおおおお!!!!」



       →マ

       →グ

       →マ         →令 扉

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄穴 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「ゲームクリア、っだあああああ!!!!!!」


 扉に、重なる。







令                    王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「くそっ、婚約破棄されるところもちゃんとステージあるのか!!!」

「な、なんだいきなり。私の婚約者の公爵令嬢レイージョがいきなりすごい速度で奇怪なことを口にしながらパーティ会場に押し入ってきたぞ」

「あとあれ私の婚約者ってことは王子か!! 『王』の一字だけだと王そのものが入ってきたとき区別がつかなくて困るだろ!!」

「本当にわけのわからないことを言っているな……」


 そこはパーティ会場だった。

 つまりシャンデリアとかキラキラしたすだれみたいなやつとか、そういうのが置いてあった。それ以外のテーブルとかは全部端に寄せてある。たぶん走らせる気なのだと思う。


「だが、ちょうどいいところに来た。公爵令嬢レイージョ。私は――」


 その予想を裏付けるように、王子は高らかに指を伸ばし――






「――――君との婚約を破棄する!!」


START!!!!!!!!!!!!!




令               ビ←―― 王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「うわ王子から何か出た! なに『ビ』って!? ビール!?」

「祝勝会場じゃあるまいしそんなわけあるか! これはビームだ!」

「ビーム!? 何の!?」

「婚約破棄ビームだ!!」

「全然関係ないけど『ビ←―― 王』のところって『ビー玉』みたいに見えるな」


 正体がわかったなら、それほど怖いものはなかった。


「ふん、この程度……」 



  令

  ↑

ビ←|―                王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「ジャンプして躱してくれる!!!」

「な、何ぃーッ! なんだそのジャンプ力は!! 単純計算で君の身長の2倍程度、仮に身長を150cmと仮定して3mの垂直跳びだぞ!!! 人間の限界を超越している!!!!」

「ビーム出してる奴に言われたくないわ!!!」

「それもそうだな」


 王宮の天井は高く、3mの垂直跳びをしてもまだ頭の上に空間がある。

 そのすっきりとした空間のおかげでレイージョの思考はゆとりを持って広がり始めている。


 考えることはひとつ。

 どうやってクリアしようということだ。


「おい!! さっきからこっちは婚約破棄ビームを出しまくっているのに君はその場でぴょんぴょんジャンプするだけか!!」

「黙って! 今ゲームに集中してるから!!!」

「あ、すみません……」


 ぴょんぴょん跳ねながらレイージョはステージをよく観察してみた。



 令    ビ←――      ビ←―― 王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



 穴が、開いていない。

 落とし穴が、ない。


 ならば楽勝なのではないか。たださっきと同じように……いや、穴が開いていないことを考えれば、先ほどよりも遥かに簡単になる。扉まで辿り着いたように王子の下まで辿り着くだけなら、ビームも矢も大して性能に変わりはない。ばーっと走っていってぴょーんとジャンプして終わりなのではないだろうか。


 でも、2面の方が1面より簡単なんてことがあるだろうか。


「王子!!」

「はい」

「この会場に落とし穴はありますか! 隠してるタイプの!! 私そういう初見殺し要素が一番嫌いなんです!!」

「パーティ会場に落とし穴があったら怖いだろ……」


 王子が嘘を吐いていないとしたら、隠された落とし穴もない。


 となると……これはボスステージなのか?


 ありうる話だ。タイトルから考えるとここが最終ステージだろう。それならここでは扉に辿り着くことではなく、王子を倒すことがゲームの目標なのかもしれない。頭を踏んだり、そういうのがクリア条件なのかもしれない。


 しかし一方で、それを引き止める思考もレイージョの中に存在している。

 敵に触れたら即死するタイプのゲームだったらどうしよう、という懸念だ。


 わからない。このゲームがどっちなのか。チュートリアルもなければ操作説明もない。タイトルコールはあるのにヘルプ画面もない。これでは人生と同じだ。クリア条件もルールもわからないまま、私たちはいつも世界に放り出される。そのある意味で懐かしくもある寂しさの中にレイージョはいた。というかタイトルから考えると普通にビームに当たるべきなのでは。


「ちょっと、何をしてるんですか王子!」


 そんなことを考えていると、




 令      ビ←――        王愛

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「王子の後ろから『愛そのもの』が現れた……」

「違います! 私は王子の秘密の愛人です!」

「それ堂々と言って大丈夫?」


 新キャラが現れた。

 愛らしい感じの容姿をした令嬢である。レイージョは「初めて会った気がしないな」と思った。たぶん名前を聞いてみれば同じポジションで同じ名前のキャラをひとりかふたりくらいは知っている気がした。


「今日のパーティできっぱりレイージョ様とは別れるって言ってくださってたじゃないですか!」

「す、すまない。今頑張って婚約破棄ビームを出してるんだが、レイージョの跳躍力がすごくて……」

「キーッ、何とかしてください! レイージョ様は私に散々マウントや嫌がらせをしてきたんですよ!?」

「何っ! というとどんな?」

「この間は『オーホッホッホ! 何という低さかしら! 低い低い! 跳躍距離が低い! これだから下々の者は!』と高い場所から高笑いを!」

「物理的な位置の問題なんだ」


 王子と愛人が揉め始めるのを、レイージョはぴょんぴょん跳ねながらじっと凝視していた。彼女は生前からイベント会話を全部読んでからでなくてはボス戦を終わらせられないタイプだ。


「しかし、すまない。私の婚約破棄ビームは、現状では彼女には……」

「泣き言を言うな!」


 愛人は厳しく王子を叱咤すると、


「あなたひとりじゃ届かないなら――私があなたを、支えます!」



                    王

 令                  愛

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「具体的には、肩車で!!」


 王子とふたりで縦になった。


「こ、これなら!」

「はい、やりましょう!!」

「――食らえ、レイージョ!!」



           ビ←――     王

 令         ビ←――     愛

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「うおおおおおお!!!!」

「はああああああ!!!!」



  令

ビ←↑―                王

ビ←|―                愛

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「ほっ」

「うわああああ!!??」

「わあああああ!?!?」

「こいつら仲良いな。愛しくなってきた」


 レイージョは結構王宮恋愛ものを読んでいるときに我儘な妹や愚かな王子にまでキャラ萌えしてしまうタイプの人間だったので、王子と愛人を見てニチャニチャし始めていた。


「そ、そんな……。私たちふたりが束になっても叶わないなんて……」

「なんなんだその跳躍能力は……」



                    王

   令                愛

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「私たち、ひとりずつなら半人前だけど、ふたりなら一人前になれると思ったのに……」

「レイージョはひとりでそれ以上……。こんな相手、一体どう勝てば……」



                    王

          令         愛

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「――ちょっと待って!? 王子、レイージョ様がひっそりめちゃくちゃ詰めてきてます!」

「――うわあほんとだ!? めっちゃ近!!?」

「あっ、違う違う違う」


 全然そんなつもりではなかったのだ。

 レイージョはムービー中にうろちょろキャラクターを動かせないか試してみるタイプの人間なので、ふたりが話し込んでいる隙に近付こうとかそんな深いことを思って動いていたわけではなかったのだ。



 ――――本当に、そんな深いことを思わなかったのか?



「お、王子。このままじゃ私たち……踏み殺されますよ!」

「ああ。あの跳躍力で上から踏まれたらひとたまりもないからな。何としてもレイージョがこちらに近付いてきて私たちを踏みつけにする前に、婚約破棄ビームを当てなくては!」


 何らかの操作ヒントを王子と愛人が口にする中、しかしそれにも構わずレイージョは考えていた。


 自分が今のタイミングでさっと近付いてさっと勝負を決めなかった理由。もちろんそれは、本当にクリア条件が自分の想像する形なのかに自信がなかったからというのもある。


 しかし、仮に失敗しても、また死に戻ってやり直せばいいだけの話なのではないか?


 何度でも挑戦できるのだ。それならこの場面で前に進むことには、本当のところ何の障害もないはず。


 だとするなら――


「王子、愛人」

「なんだ」

「この人私の呼び方『愛人』なんですか?」

「婚約を破棄する代わりに、私も新居に住み着いてふたりの結婚生活を凝視するというのはどうですか?」

「なんか気持ち悪いこと言い出した!!!!」

「何々何々!?!?!?? こわいこわいこわいこわい!!!!!」

「あっ、違う違う違う!!」


 ドン引きを始める王子と愛人。

 待ってくれ説明を――



「これは一体何の騒ぎじゃ?」




                    王

           令        愛王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「ち、父上!」

「陛下!」

「あ、ほらやっぱり王子と王で表記上の区別が付かなくなってる」

「何をわけのわからぬことを言っておる。折角のパーティで何をしておるのだ、おぬしらは」


 再びの新キャラだった。

 現れたのはこの国の王。「初めて会った気がしないな」とレイージョは思う。そしてこのポジションのキャラクターの名前を覚えられたためしがない。


「肩車してます」

「肩車されながら婚約破棄ビームを撃ってます」

「そういえば愛人の方から放たれた婚約破棄ビームを食らうと私はどうなるんだ……? やっぱり愛人の方との婚約が破棄されるのかな」

「結んでもない婚約について思いを巡らせてる人がいる……怖い……」


 かくかくしかじか、と王子が事情を説明する。

 なんと、と王が目を見開く。


「国が決めた婚約を蔑ろにして愛人に乗り換えようとは、一体何を考えておる!」

「しかし父上! 私は真実の愛に目覚めたんです! ビームも出せるようになったし!!」

「真実の愛に目覚めるとビームが出るようになるのか……。最近の子どもはよくわからん……」


 ええい、と王はそんな加齢に伴ううら寂しさを振り払って、


「ビームが出ようが真実の愛だろうが吾輩は強権主義的であり何もかもが自分の思い通りにならんと許せん王じゃ!! そんなのは認めん!!」

「人望なくしますよ!」

「愛のない統治は所詮その場しのぎであり、いずれ人心を失い必ず国が荒廃していきますよ!」

「黙れ黙れ! 公爵レイージョ令嬢! 吾輩が許す! このふたりを踏み潰してしまいなさい!!」

「くそっ、させるものか!」

「ええ、王子! 力を合わせて!」




               ビ←―― 王

           令   ビ←―― 愛王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「食らえ!」

「食らって!!」

「避けるんじゃ、レイージョ!!」



           令

         ビ←↑―       王

         ビ←|―       愛王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「くっ、避けられた!」

「ようし、いいぞ! レイージョ!」



                    王

           令        愛王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「王子、早く次のビームを!」

「まだチャージが!」

「しめた! 今じゃ、レイージョ! 距離を詰めてぐしゃっとやってしまうのじゃ!」



                    王

           令        愛王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「…………」

「――レイージョ?」



                    王

           令        愛王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「…………」

「何……?」

「どういうことだ……?」

「レイージョ、何をしておる。憎いふたりを踏み潰すチャンスなんじゃぞ……?」


 レイージョは、考えていた。

 そして、考え終えた。




「――私は、このゲームをクリアするつもりはありません」




 しん、と静まり返るパーティ会場。

 誰もが絶句する中、レイージョだけが冷静に続けた。


「クリアする理由が、ないんです」

「ば、馬鹿な!」


 王が叫んだ。


「憎くはないのか!? 自分を不当に軽く扱う輩が! 誰かに向けられる愛が、自分には向けられぬという残酷さが! 踏み潰してやりたいとは思わんのか!?」

「私は全然人の恋愛を見てるだけでニチャニチャできるので……」

「そ、そうか。そのへんは人それぞれじゃな」


 王は一旦納得の姿勢を見せる。

 王子と愛人は、潤んだ瞳でこちらを見ていた。


「レイージョ……」

「それでいいんですか!?」


 叫んだのは、愛人だった。


「盗られちゃうんですよ!? 自分の好きな人が!!」

「いや……。特に愛着はないしあなたの方が王子のこと好きだと思うな……」

「そ、そうね。そのへんは人それぞれかも」


 愛人は一旦納得の姿勢を見せる。

 最後は、王子だった。


「でも、いいのか? 前に進まなくて」


 彼は斜め上から、レイージョの瞳を見つめて言った。


「私たちを乗り越えて、この先に行かなくていいのか?」

「……私は、」


 前に進む理由を見つけられない、と。

 本音を吐露するよりも先に、声になった言葉がある。


「王子、肩車から降りてみてくれませんか」

「油断を誘う気、」

「…………」

「……じゃ、なさそうだな」


 王子が、ゆっくりと愛人の肩車から降りてくる。



           令       王愛王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


 すると、



           令       王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「あっ……」

「これは……」

「なんと……」

「オセロの要領ですよ。やっぱり、恋人同士は隣り合っている方が似合います」


 王と王に挟まれて、愛人は王子妃になる。

 それを見届けると、ふ、とレイージョは薄く笑った。


「王子が『王』じゃ王と区別が付かないなんて言いましたけど。こうなるなら、その表記が一番良かったですね」


 そうして、彼女は踵を返す。




        令←――       王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄





「――さようなら。お幸せに」







→マ

→グ

→マ   令←            王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄




 →マ

 →グ

 →マ  令             王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「……あの、やっぱりそっちに行っても――」

「来い来い来い来い!!」

「早く早く早く!!! マグマ来てるから!!」

「死ぬぞおぬし!!!!」

「ほんっとすみません!!!! ほんと!!!」



   →マ

   →グ

   →マ  ――→令        王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「うおおおおお!!!」

「いいよいいよ! 足はっや! 間に合いますよ!」

「頑張るんじゃレイージョ!!! 若さが輝いておる!! 間に合うぞ!!!」

「こっちだ頑張れ!!!」



     →マ

     →グ

     →マ    ――→令    王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「あっ、でも待ってこれどうすればいい!? ここからどうすればいい!?」

「私を踏み潰せ!!」

「無理無理無理無理!! 気持ち的にもう無理!!」

「ええい、無理も何も――いや、わかった!!」




        →マ

        →グ         

        →マ    ――→令 王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「私が跳ばせてやる! 乗れ、レイージョ!!」

「――!」


         →マ

         →グ        令

         →マ      ↗ 王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「このまま、行けえ!!」

「それなら私も!!」



          →マ       →令

          →グ       王王

          →マ       ↑↑王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「やれやれ、老骨にはこたえるわい!」



           →マ       →令

           →グ      王王王

           →マ      ↑↑↑

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



「レイージョ!!」

「跳んで!!」

「行け、若人!!」


「みんな――」



            →マ       ↗

            →グ     王王王

            →マ     ↑↑↑

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


             →マ

             →グ

             →マ    王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄





                   王王王

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄





 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


 ̄ ̄ ̄ ̄


――











「――なんか、変な夢見たな」


 第36工業区画隣接の居住区7の304号室で朝壁舞は目を覚ます。

 変わり映えのしない曇り空を映す朝の窓には、ぼさぼさと寝癖を帯びた自分自身の姿が映り込んでいた。


 部屋はひどく質素なものだ。

 たとえば2020年代の人間がその部屋を見たら、そこを単なる仮眠所か何かだと勘違いするだろう。あるものといえば、簡素なベッドとチェストだけ。デザインも何もかも、華やかさとも洗練とも程遠い。


 しかし、そうした部屋に住んでいるのは朝壁舞だけではない。

 もうすぐ寿命を迎える者以外の、誰もがそうしている。


 地球に残るつもりの者以外は、皆そうして、この場所を単なる仮宿としているのだ。


 朝壁舞は、洗面台で顔にぬるま湯を当てながら、さっきまで見ていた奇妙な夢を詳細に思い出そうとしている。


 ようやっとその輪郭を掴まえたときには、その洗顔作業も終わっている。

 携帯端末を手にして確かめれば、始業の時間はもう近い。メモ帳にその夢の内容を書き残すこともできないまま、彼女は出勤を急いだ。





「おはようございまーす」


 定型の挨拶の後、朝壁舞は勤務先である第36工業区画での作業を始める。

 時刻は午前九時。あくびを噛み殺しながら、彼女はパネルの前に腰掛ける。


 OLとしての仕事を始める。


 Oil Launcher――石油射出者。

 この星に蓄えられたいくつもの歴史的な資源を、火星にロケットで飛ばすのが、朝壁舞の日々の業務だ。


 人類は、とうとう地球という星で限界を迎えた。

 火星に移住して一から文明インフラを築き直した方がいくぶんかマシ、と『世界の頭脳』のお歴々が結論付けたのだ。


 今は世界中が、懸命に地球上の遺産を火星に送り出している。

 朝壁舞もまた、その『世界中』の例外ではない。それなりの科学知識と、それなりの注意力。それから面接の際にちょっとしたコミュニケーション能力を確認されて、彼女はこの仕事に就いた。


 もう、三年が経つ。

 あとどのくらい、この仕事を続けるのだろう。


 あとどのくらい、この場所にいるのだろう。


「――ん」


 気付けば正午も近い。

 午前中最後のボタンを押して、彼女は昼休憩に出掛けることにした。






『――政府は昨日、火星移住計画に関する会見を開きました。夜ノ森官房長官は「日本は依然として他国よりも移住希望者が少ない」ことに言及し、国民に対し火星入植プランに関する更なる広報を――』


「そんなこと言われても、今更地球を出て行きますなんてねえ」

「はい?」


 うどんを受け取るその一瞬。

 食堂の店員が、ぽそりとテレビを観ながらそう呟いた。


「あ、ごめんね。年取るとひとりごとが多くなっちゃって」

「いえ」

「それにここで働いてる若い子に言うことでもなかったわ。ごめんなさいね」


 いえ、ともう一度言う。

 いつものね、と店員にどんぶりを渡されて、どうも、と朝壁舞は頭を下げる。「いつもの」と言ってくれるくらいには向こうは自分のことを知っているらしかったが、残念ながらこちらは相手のことを知らない。名札を見る。昼沖、と名字だけが記されている。箸とレンゲを取って顔を上げたときには、もう彼女は次の利用者の注文を聞いていた。


 何となく定位置のように使っている端の席に座って、うどんを啜る。

 啜っている最中は、ぼーっとテレビを観ていた。


 昼のワイドショーは、さっきのニュースに関連してずっと火星入植プランの話をしていた。コメンテーターが言う。僕は行きますよ。もちろん。それから彼はカメラを見る。画面越しに目が合った――ように感じたわけではないけれど、何となく、彼はこう訴えてきた気がする。


 君はどうするの?


 目を逸らして、携帯端末を取り出した。


 起動するのは漫画アプリだ。朝はいつもばたばたと家を出るから、アプリが毎日付与してくれる無料閲覧チケットを朝壁舞はいつもこのタイミングで消化することにしている。期間限定全話公開中の王宮恋愛もの。


 フルカラー、縦読みスクロール。

 それで、ふと頭に引っ掛かるものがあった。


 これは何だろう。指を止めて、しばし考える。考え付かなくて、また指を動かし始める。


 その動きで、思い出した。


 ああ、なんてくだらない。






 昼休憩を終えて、再び朝壁舞は自分のデスクで仕事を始める。

 単調な作業だ。ほとんどの作業は自動化されてしまって、人間の仕事といえば最後にボタンを押して、一連の責任を負うことだけ。念のためにと彼女は表示されているデータに目を通しているけれど、実際にはきっと、それすらしていない同僚がほとんどだろう。


 ボタンを押して、実際にロケットが動き出すまでの時間なんて、もう座っている以外にやることがない。


 だから自然に、朝壁舞の思考は先ほどの続きに流れていく。


「……横スクって、そういうこと?」

 ふふ、とひとりでに笑みが零れる。


 変な夢のことを思い出したのだ。あの小さく味気のないベッドで見ていた、華やかな夢。


 細かいところは覚えていないけれど、横スクロールアクションのゲームみたいな動きをしていたことは覚えている。そしてそんな珍妙なものを見た理由が、彼女には今、はっきりとわかっている。


 王宮が舞台だったのは、単純にそういう漫画ばかり読んでいるから。

 横スクロールアクションだったのはきっと、縦スクロールの漫画ばかり見ていて、そこから連想したから。


 本当にくだらない、と彼女は笑わずにはいられない。

 しかも、と重ねて思うこともある。


 細かいところを覚えていないのだ。何か良いことがあった気がするけれど、覚えていないところで素敵な恋愛でもしたのだろうか。それこそ、漫画で読むみたいな。


 覚えているのは、ただただ廊下で矢を射かけられたりとか、後ろからマグマに追われたりとか、そういう慌ただしくて、ありえない部分だけ。


 もったいない、と笑う。

 笑って、思い出す。


「……楽しかったな」


 あんなに思い切り走ったのは、いつぶりだろう。

 腿に手を置いてみる。この部屋とあの部屋とを行き来するだけの日々。走ることなんて、大人になってからはほとんどなくなった。でも、何となく感覚を覚えている。


 あの夢の中で、自分は必死だった。

 今は、どうだろう。


「…………」

 椅子の背もたれに倒れ込んで、大窓の向こうに目をやった。


 工業区画は雑然としている。住みやすさなんてもう、誰も考えていないのだ。横スクロールのステージみたいに、後は過ぎ去るだけの場所。手間なんてかけない。間に合わせの、妥協の、応急処置の暮らし。


 目を閉じる。

 本当のところ、と思う。


 あの食堂の店員のように、生活に愛着を持っているわけでもない。

 あのコメンテーターのように、新天地に夢を見ているわけでもない。


 同じ日々を、機械的に過ごすだけ。

 惰性のように心臓を動かし続けているだけ。


 前に進む理由もなく、停滞を愛しているわけでもない。

 何の目的もなく、ただ過ぎ去る時間の中にいる。


 今はどうだろう、なんて考えるまでもない。


 考えるまでもなく、自分は全然、必死になんてなってない。


「ん、」

 ピーッと音が鳴ったのを聞いて目を開けた。


 発射終了を告げるアラーム。もう一度目を開けて、次の発射処理に入る。表示されたデータを見る。チェックをかける。


 ボタンを押す。


 でも、と思った。


 朝壁舞は、ふと思い立って席を立つ。次のロケット発射までに自分に与えられた猶予を考える。大丈夫だ。時間には、だいぶ余裕がある。


 トイレ休憩よりは、ずっと短くなるはず。

 部屋を出た。


 第36工業区画の内部構造なんて、彼女は全然詳しくない。きっと他の同僚たちもそうだ。見学して面白いところなんてどこにもない。フロアマップだって、入口から自分の作業部屋に至るまでの道のりを覚えたら、後は用済み。


 それでも、階段を見つけるくらいのことはできる。

 屋上に続いていくはずの、くすんだ色のそれを。


 朝壁舞は、もう一度今朝見た夢のことを思い出す。


 荒唐無稽な夢だった。それと同時に、きらびやかでもあった。

 いつも漫画を読んでいるときにも感じていることだ。こんなことは現実では起こらない。自分の身に重なる点なんてひとつもない。ふっと顔を上げたら、そこに広がっているのは無機質な停滞と、色褪せた日々だけ。強いコントラストはむしろ、この先の覚束ない世界の閉塞感を強めているようにすら思えることもある。


 なのにどうして私たちは、それを見ずにはいられないのだろう。


 階段の前で、彼女は深く息を吸った。


「ふっ」

 それから、勢いよく駆け上がっていく。


 すぐに腿が悲鳴を上げた。次はふくらはぎ。足の裏。こんな運動、普段はもちろんしていない。明日は絶対筋肉痛。間違っても転げ落ちたりなんてしないように、手すりにときどき触れながら、彼女は階段を上る。思ったようになんて全然ならない。もっと爽快に景色が流れていくかと思ったのに、視界の動く速度は亀みたいに遅くて、どんどん肺が苦しくなって、


 それでも、着く。




 ばん、と扉を開けば、そこは吹きさらしの屋上だった。




「――」

 は、と荒く息を吐いた。


 酷使した足が震えている。少しだけ屈んで撫でる。灰色がかった辛気臭い空を眺める前に、彼女はそれを確かめる。


 夢で思い描いた自分よりも、ずっと鈍かった。

 なのに、夢と同じだった。


 ばくばくと、心臓が脈打っている。遅れてじわりと、背中に汗が浮いてくる。あの程度の速さじゃ風を切るなんて感覚は程遠かったけれど、なのに今、その汗をさらっていく風がこんなにも気持ち良い。


 こんなの『必死』なんて呼べやしない、ただのお遊び。

 なのに、妙に清々しい気分だった。


 繰り返す生活への愛なんて、ない。

 未知への恐怖を克服できるほどの好奇心なんて、もっとない。


 朝壁舞は、自分のことだから、そのことがよくわかっている。


 それと同時に、それはきっと自分だけではないのだろうとも、わかっている。


 多くの人にとって、生活への愛というのは『惰性』の言い換えだ。

 別に好きでもなければ嫌いでもない――ただその場で跳ねるだけの現状維持に、愛と名前を付けているだけ。


 多くの人にとって、前進とは『逃走』の一形態だ。

 何もなければその場に留まっていただろうに――後ろからマグマのように追い立ててくる危険や必要性を、好奇心とすり替えているだけ。


 何もかもがまやかしだと、朝壁舞は思う。わかっている。


 でも――


「……やっぱり」


 額を伝う汗を拭いながら、思うのだ。



「思いっ切り動いたら、気持ち良いや」


 

 二度、三度、深呼吸をする。

 それほど清浄でもない大気。運動したら空気が美味しくなるなんて、嘘だ。酸素を取り込んで、二酸化炭素を吐き出して、地球環境への耐えられなさに少しだけ貢献する。


 真面目なことを考えようとして、

 その後すぐに、朝壁舞は、すごくどうでもいいことを思った。


 たとえばそれは、もうひとつくらい毎日アプリで読む漫画を増やしてみようか、ということだったりする。


 たとえばそれは、今度あの店員に食堂で会ったら、自分から話しかけてみようか、ということだったりする。


 たとえばそれは――


「…………」

 ゆっくりと、屋上の縁に向かって歩き出す。


 今までは知らなかったことだが、勤め先は第36工業区画の中でも一際高い部類に入る建物らしかった。縁に備え付けられた柵に手が触れるころになれば、すっかり見晴らしがいい。遠くのものまでよく見える。


 たとえば、空とか。

 さっき自分が押したボタンが、今まさにその結果を打ち上げようとしている光景とか。


 朝壁舞は、ポケットを探った。


「あ、」


 それで気付く。

 端末、置いてきちゃった。


 悪あがきのように他のポケットにも手を入れてみて、すぐに諦める。どうせ、そこまで本気じゃなかったから。みんながやっているから、何となく自分もやろうとしただけ。でもきっと、そんなものをちゃんと記録に残したって、自分はアルバムを見返したりもしないだろう。


 だから、別にいい。

 記録に残らなくたって――記憶にすら残らなくたっていい。


 今この瞬間だけ、と。

 彼女は両の親指と人差し指で、瞳の前に小さな箱を作る。


 どこかの誰かが作った発射台が、うなりを上げ始める。

 どこかの誰かが作ったロケットが、空に向けて顎を上げる。




 どこかの誰かじゃない、自分が押したボタンが、


 自分が一生行かないかもしれない場所に向けて、


 自分が一生は暮らさないかもしれない場所から――




 轟音。

 光景。

 それは、空を縦に裂くようにして。



 朝壁舞は、目に見えたものを、幼子のように。

 シャッターでも切るみたいに、そのまま口にした。





「縦スクロールっ」







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(終)

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横スクロール令嬢 quiet @quiet

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