幕間 青い海の記憶

 海は、夢の中みたいに綺麗だった。


 キラキラと輝く波の向こう、水平線の上に背の高い入道雲が浮かんでいた。その前をカモメが横切っていく。翼をはためかせて甲高い声で鳴いていた。けれど私を置いていくみたいにあっという間に遠くへと飛び去り、やがては鳴き声も消えてしまう。


 さざ波の音に混じって、優しい声が聞こえてきた。


「おまたせ。ぼんやりしていたようだけれど、大丈夫?」


 海に背を向け振り返る。パラソルの陰の砂浜に体育座りをしていた私は、思わず目を見開いた。


 さんさんと降りそそぐ太陽を浴びた白い肌がまぶしい。ワンピースタイプの水着でいやらしさなんてないはずなのに、顔が熱くなってしまう。


 見惚れて何も言えずにいると、葉月は私の隣に腰を下ろした。海に来るからと結んだポニーテールが揺れる。大きな鳶色の瞳が私をみつめた。油断していたら吸い込まれて、もう戻ってこられなくなりそうだった。私は葉月が好きだ。好きだから一緒にいる。好きだから恋人になった。


 いつか失うのだとしても、後悔なんてしない。


 なんて全然言いきれないけれど。


 でもやっぱり今という時間は、幸せだった。


「大丈夫。何でもないよ」


 微笑んでそっと寄りかかる。肌と肌が触れ合う感覚には慣れない。恥ずかしくて、落ち着かなくて、今すぐにでも離れてしまいたいくらい緊張している。でも強い斥力に釣り合うだけの引力もあって、私たちは離れることもせず鼻先の触れ合うような距離で見つめ合うのだ。


 海は広い。海は穏やかだ。私たちが何をしようとも、受け入れてくれるような気がする。私たちがどれほどの幸せを謳歌しようとも、はたまた死んだほうがましなくらいの不幸に見舞われようとも、変わらない姿でただそこにあり続ける。


「……葉月は、さ。私と恋人になったこと、後悔しない?」


 遠い未来のことなんて分からない。どれほど強い確信があっても、人は時の流れにかどわかされる。元いた場所も忘れて歩いてきた道すらも分からなくなって、最愛の人を傷つける。


 それが、私の信じてきたこの世界だった。


「後悔しないわ。絶対にね」


 でも葉月の信じる世界は違う。


 こんなに真っすぐに見つめられては、何も言えない。


 私はそっと、葉月に口付けをした。そして、何事もなかったみたいに目線を海に戻す。


「すきだよ。葉月」

「……私も大好きよ」


 慈しむみたいに、葉月はぎゅっと私を抱きしめた。人のそれなりにいる海だけれど、行き交う人たちは誰も私たちに声をかけてこない。パズルのピースみたいに見えてるのかなと思う。私には葉月しかいなくて、葉月にも私しかいない。そうだったらいいのに。


 他の誰にも代わりのつとまらない、私たちだけの関係。それは喉から手が出るほど欲しいもので、けれどきっとこれから先、絶対に手に入らないものだから。手に入らないからこそ、人は願うのだ。願うだけならひとは自由なのだ。願う時だけひとは自由になれるのだ。


 だから、私は葉月の体温を全身で感じながら願う。


「今この瞬間が、永遠に続いてくれたらいいのに」と。


「ね、涼香。一緒に写真を撮らないかしら?」


 葉月の手にはスマホが握られていた。写真なんて取った記憶はほとんどない。幼いころ、両親の仲が良かったころまで遡ると思う。スマホもまだ十分には普及していない時代で、画素数だって全然足りていなかった。だから四角いカメラを手に、お父さんは色々な風景を撮影していた。


 幼い私も無邪気に願ってお父さんのカメラを借りていた。レンズの先に映るのはいつだって美しい景色だった。ひまわり畑に青い海に空を飛ぶ鳥。そして、笑顔のお父さんとお母さん。私は馬鹿正直に、明るい未来だけをみつめていた。この世界が幸せで満ちているものだと信じていた。


「……自撮りってやつ?」

「内カメなんて使い道が分からなかったけれど、こういう時のためにあるのね」


 葉月は幼い子供みたいな笑顔を浮かべた。昔の私たちのような孤独な人間には、全く無用な機能だった。でも今は思い出を残したいという気持ちが、この人にはあるのだろう。


「いいよ。しよう?」


 笑顔で葉月に体を寄せる。小さなフレームの中に納まるように、頬をくっつける。画面の中の葉月は顔が真っ赤になっていた。でも私も大して変わらない赤みだった。二人そろって真っ赤になってるのがなんだかおかしくて、葉月と一緒に笑ってしまう。カシャリ、とシャッターを切る音が響く。


 私たちの幸せが、左下の小窓に保存されていた。


「涼香にも送るわね」

「いいよ。私は」

「送ったわよ」


 有無を言わさず、私のスマホが震える。葉月が隣にいるから、仕方なく画面に表示された幸せを保存した。


「この夏休みはたくさん二人で写真を残していくのよ。メモリーが足りなくなるくらいに。遠い未来で、二人で過去を振り返って一緒に笑い合う時のためにね」

「……うん」


 暗い声が出てしまった。とっさに葉月をみると、寂しそうに目を細めていた。私はパラソルの下から立ち上がり、光の中へ飛び出した。笑った顔で葉月にスマホを向ける。パシャリパシャリと撮影を繰り返すのだ。画面の向こうの私の恋人は、瞬く間に顔を真っ赤にして顔を隠していた。


 撮られなれていないからなのかな。あっという間に私の所にやって来た葉月に、スマホを取り上げられてしまった。葉月ほど綺麗な被写体はきっといないから、もっと堂々としてていいのに。


「葉月ってやっぱり可愛いよね」

「急に子供みたいなことをするものだから驚いたわよ。別に連射しなくていいでしょう?」

「葉月の写真は何枚あっても困らないもん」


 波打ち際を歩いていく。海の中ではサーフィンをしている人もいた。ぼんやりと景色を眺めていると、葉月の手が私の手を握った。表情に不安はなくて、明るさを取り戻している。


 ほっと息をついて、私は葉月に微笑んだ。


「世界で一番大切で、一番可愛い恋人だからね」

「そのまま返すわ。私も涼香のことが大好きよ」


 波の音が響く。気付けば愛おしさを抑え込めなくなっていた。


 熱っぽく視線が絡み合う。葉月も同じみたいで嬉しくなる。私たちは人目も気にせずキスをしていた。他の誰もいなくていい。葉月さえいればそれでいい。限りある幸せの瞬間を人に邪魔されて逃すなんて、そっちの方がだめだ。


 でもやっぱりちょっとだけ恥ずかしかった。テンションの高い人たちがはやし立ててきたのだ。私たちは真っ赤になった顔で、目を合わせる。苦笑いをして波打ち際を進んだ。


 いつか呪いになるだろう幸せな記憶が、また一つ私の心に刻まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

六月の誕生日、世界で一番大切な友達にキスされた 壊滅的な扇子 @kaibutsu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ