前編 エピローグ

 まぶたを開くとカーテンの隙間から明るい光が差し込んでいた。枕もとの時計に目を向ける。もう八時を過ぎていた。いつもの私ならさっさと起きてしまうところだけれど、今日は事情が違う。


 腕の中で涼香が可愛らしく寝息を立てているのだ。後ろから抱きしめるという約束だったのに、気付けば正面から抱き合うみたいな形になっていた。胸元に生温い吐息が吹きかかって落ち着かない。


「……はづき。だいすきだよ」


 ぼんやりした声が、不意に愛をささやいた。心臓がドキリと跳ねる。


 でも涼香は目を閉じたままだった。何やら幸せそうに微笑むだけだ。


「いったいどんな夢をみているの?」


 問いかけるも返事はない。愛らしくニコニコ笑っている。眠りを妨げないように、そっと頭を撫でる。夢の中の私が羨ましい。私も涼香に「大好き」と伝えてもらいたいのに、ずるい。


 目を細めて可愛い寝顔をみつめる。頭を撫でていた手を、頬にまで落とした。指先でそっと無防備な唇をなぞる。くすぐったそうに乱れる吐息が色っぽくて、顔が熱くなる。


「眠っているときですら私を魅了するのね」


 息を殺して顔を近づける。


 当然だけれど眠っている相手にキスをするなんてだめだ。でも邪な欲を正当化する論理は、もう既に頭の中に出来上がっていた。これは夢の中の私との不平等を正すために必要なことなのだ。


 そもそもの話、正面から抱き着いてきたのは涼香だった。私は後ろから抱きしめようとしたのに、半分眠ったまま甘えるみたいな声を出して。


 だから全部、涼香が悪いのだ。寝ている間にキスされるのも、全部涼香のせい。こんなに可愛い寝顔をみせつけて、我慢できるわけがない。


 楽しい夢をみている涼香を目覚めさせないように、羽根で触れるみたいなキスをする。その瞬間、またしてもにこりと笑った。


「ずっといっしょにいたいね……。あいしてるよ」


 ぼんやりした猫なで声が、脳を直接揺らしてくるみたいだった。


 私たちは、両思いなのだ。理性の土台は今にも崩れてしまいそうだった。それでも人としての常識を思い出して、辛うじて本能を引き留める。


「私もよ」


 優しく頬にキスを落とす。


 現実だとは思えないくらい幸せで、胸が痛いくらいだった。


 涼香も私と同じ気持ちならいいのだけれど、どうなのだろう。昨日の泣き顔が脳裏をよぎる。


「やだ。はづき、いかないで……」


 唐突に聞こえてきた苦し気な声に目を見開く。声だけでなく表情だって苦悶に染まっていた。


「大丈夫よ。どこにもいかないわ」 


 そっと優しく抱きよせる。なかなか悪夢は止まってくれないみたいだ。今もうなされている。


 私は涼香のことを何も知らなかった。どれほどの不安を抱えているのか、今だって自分のものとしては分からない。それでもだ。わがままだと思われるのかもしれないけれど、笑っていて欲しい。


 目を閉じて柔らかな体温だけに意識を向けた。ゆりかごを揺らすみたいに背中を撫でる。悪夢が消えてくれたのだろう。うなされたようなうめき声は止んで、また穏やかな寝息が戻って来る。


 静かな時間だった。二度寝はだめだと分かっているのに、涼香と添い寝していると自然とまた眠りに誘われてゆく。睡魔に飲まれそうになったその時、不意に柔らかな感触が唇に触れた。


「……かわいい」


 そんな甘い声を皮切りに、何度も何度も優しく触れてくるのだ。起きていると伝えるタイミングを完全に逃してしまった。食むみたいなキスは止まらない。荒い息も官能的で顔に熱が集まってしまう。


「あれ?」


 不意にキスが止んだ。不安そうな指先が熱くなった頬にさわさわと触れている。


「もしかして起きてるの……?」


 恥ずかしそうな声には返事もせず、寝たふりを貫く。


「……寝たふりするのならもっと凄いキスしちゃうよ?」


 いたずらっぽい声が耳元でささやいた。それでも私はまぶたを開かない。


 心臓がうるさく騒いでいる。涼香の気配が近くてくすぐったい。


「ほんとにしちゃうよ?」


 指先が唇をつぅと滑る。かと思えば頬に口付けが繰り返される。


 恋人みたいな甘い時間に、身も心も蕩けてしまいそうだ。もっと涼香の唇が欲しい。なのにもどかしい場所にばかりにキスを落としてくるのだ。顔を傾けてキスしやすい角度にしても、涼香は触れてくれない。


「……やっぱり葉月は可愛いね」


 からかうみたいな声に我慢ならなくて、薄目を開ける。まだ眠そうな顔で、にやにやと笑っているのだ。やっぱり遊ばれていたらしい。ジト目で見つめ返す。


「ひどい人ね。何をして欲しいか分かっている癖に」

「ごめんね。でも流石に朝から恋人みたいなキスはどうかと思うよ?」

「我慢できなくなった涼香に、また襲われてしまうかもしれないものね」


 昨日のことを思い出したのだろう。あっという間に真っ赤になってしまった。


「あれは葉月のせいでしょっ! 嫌がってくれたなら、私も……」

「嫌がる理由がないわよ。嫌じゃないのだから」


 今度は私から軽くキスを落として微笑む。目の前でまぶたが見開かれてゆく。涼香は飛び跳ねるような勢いでベッドから起き上がった。


「そういうこと言わないでよっ! 我慢できなくなるでしょ……?」


 乱れた髪の間から覗く耳は、焼けてしまったみたいに真っ赤だった。思わず笑顔になってしまう。本当に涼香は可愛い。嫌いになる未来なんて、まるで想像できないのだ。


「私、きっと死ぬまであなたのことを好きでいられるわ」


 微笑むと涼香は寂しそうに肩をすくめた。


「嬉しいけど死ぬまでは無理だよ。だって、これからの人生で葉月はもっとたくさんの人と出会うんだよ? 私よりも魅力的な人なんて大勢いると思う」

「いないわよ。涼香は私だけのお姫様よ」


 体を起こして涼香の手を握る。またしても目をまん丸にしていた。


「……お姫様って。私よりも葉月の方がお姫様って感じだよ?」

「だったら王子様ね」

「こんな不安定な王子様いないよ……。泣いてばかりなのに」

「それなら狼かしら? 昨日は襲われそうになったものね」


 にやにや笑っていると涼香は「いい加減しつこいよ?」と頬を膨らませた。


「本当に葉月は変わってるよ。私なんかのどこがいいのやら……」

「全部よ」


 即答すると、またしても熟れたトマトみたいに赤くなっていた。


「はいはい。……そうですか」


 呆れたみたいな表情でぷいとよそを向いて、背中を向けてしまうのだ。


 そんな涼香を後ろからそっと抱きしめる。触れ合った体から伝わってくる鼓動は、私と同じくらい激しい。改めて私たちは両思いなのだと実感する。天にも昇るくらいに幸せで、ずっとこうしていたいくらいなのだ。


 不意に涼香がぽつりとつぶやく。


「……ね、私、葉月のこと大好きだよ」

「私も大好きよ」


 笑顔でささやくと、涼香は私の方に体を向けた。


 どこか物欲しげな瞳が私をみつめる。


「その、……私たちって、恋人であってるんだよね?」


 何も言わず、そっと口づけをする。


 顔を離すと涼香はひまわりみたいに笑っていた。


「これからもずっと一緒にいるのよ」


 ベッドの上に投げ出された手を、ぎゅっと隙間もないくらいに繋ぐ。涼香の抱えるものは、きっと息もできないほどに重苦しいのだろう。


 一人では乗り越えられなかったのだ。


 でも二人でならいつか絶対に変われるはずだ。

 

「……うん」


 弱々しい声だけど頷いてくれた。


 一歩ずつでいい。一気に飛び越そうだなんて考えなくていい。私が少しずつ手を引いて歩いていくから、勇気を出して後をついてきて欲しい。信じられるまで何度だって好きを伝えるから、もしも前に進めなくても自分を嫌わなくていい。


 私の好意は、きっと一生揺らがない。


 そのことをこれから少しずつでいいから知って欲しいのだ。

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