第34話 いつか終わる夢のはじまり
台風が家を揺らしていた。
深呼吸をしてから押し開いた木製の扉は、鋼鉄の城門みたいに重い。浅い呼吸で部屋の中に入ると、ベッドに座って小説を読んでいた葉月と目が合う。
「……着替え、ありがと」
うつむいてつぶやく。葉月のパジャマは少し大きくて、袖は手のひらをちょっとだけ飲みこんでいた。裾も足首を越えて軽く床に引きずる形になっている。
「大きかった? ごめんなさいね」
「大丈夫。葉月に抱きしめられてるみたいなのは、ちょっと気になるけど……」
同じ匂いがするのだ。柔軟剤なのだろうけれど、落ち着かない。葉月の隣に行くのもなんだか気が進まないから、ローテーブルの横に座ろうとする。
するとすぐに不服そうな声が聞こえてきた。
「隣に来なさい」
「……うん」
一人分の距離を取って、隣に座る。でもすぐにベッドをきしませながら、葉月は体を寄せてきた。優しく腰に手を回すのだ。引き寄せられるままに葉月の肩に寄りかかる。さらさらの髪が心地いい。
一人なら心がざわめく台風だって全然気にならない。目を閉じてこのまま眠ってしまいたいくらいだった。何も考えずずっとこのままで。でも葉月は許してくれないのだろう。
「できるだけ踏み込まないようにしていたわ」
今も葉月は優しく髪を撫でてくれている。
上目遣いでみつめると寂しそうに目を伏せていた。
「違和感を抱く部分はたくさんあったのよ。でも深入りしすぎて拒まれるのが怖かった。あなたを失うのが怖かった。間違いだったわ。もっと早く事情を聞きだすべきだった」
「……私は、聞いて欲しくなかったよ」
葉月が優しい人だってことはよく知ってる。私を助けるために、たくさん頑張ってくれるだろうことも分かってる。だからこそ教えたくなかった。懸命に救おうとしてくれても、結局は私の問題だから。
私はもう、ずっと昔に諦めてしまっている。いくら励ましても何も変わらない私に、きっと葉月はがっかりするのだろう。私の嫌な面をたくさん目撃して、メッキが剥がれ落ちていく。そのたび、救おうとする理由は惰性へと変わってゆく。
そしていつか、愛想をつかして遠くへ離れてしまうのだろう。
変われるなんて思わない。幸せなんて信じられない。また大切な人に捨てられて、辛い思いをするくらいなら一生不幸でいたい。一人ぼっちでいたい。誰にも愛されたくなんて、ない。
私は世界で一番、誰よりも自分を信用していない。
「葉月に全部伝えたとしても、変われるわけがないから」
「涼香なら変われるわ」
葉月の声はやけに力強い。何も知らない癖に。
「……葉月のお母さんっていい人だよね」
つぶやくと、葉月は息苦しそうに目を細めていた。この人は私の事情を大まかには理解しているのだろう。誰も祝ってくれない誕生日。普通ではない転校続きの生活。そして話題に出てこない両親。
特に母親に関して言及したことはただの一度もなかったと思う。
言葉を飲み込もうとする気道を私は無理やりにこじ開けた。
「私のお母さんは、よその男に浮気して私を捨てたよ。小学二年生くらいの頃の話だけど、あの頃は本当に酷かった。お父さんとお母さんは毎晩のように怒鳴り合いの喧嘩をしててね。私は部屋のベッドの中で小さく縮こまってた。早く終わって欲しいって」
葉月は何も言わず私の言葉に耳を傾けていた。憐れむわけでもなくただ真剣に。
「離婚してからはお父さんについていって、色々な場所を転々としたんだ。知らない場所、知らない学校、知らない人。目まぐるしく変わる環境だから、真っ当に生きようなんて思えなかった。いつだってその場しのぎだった。葉月とは違って、裏切られてショックを受けるような友達もいなかった」
人に心を開くこともなく、友情を結ぶこともない。そんな無味乾燥な毎日が、私の当たり前だった。
もしも葉月がいなくなれば、またあんな毎日が戻ってくるのだろうか。
「……恋もしなかった。誰かに好意を抱くこともなかった。気持ち悪かったから。同級生が誰かを好きになって、別人になったみたいに浮ついた態度をとって。相手の一挙一動で大げさに喜んだり、苦しんだりする。そんな姿も冷めた目で見てた。ひどい茶番だって思ってたんだよ」
「今もそう思っているの?」
何を口にするべきかは知っていた。
もしもまた冷たい安寧を手に入れたいのなら貶してしまえばいい。私に振られて涙を流したあの日のことも、友達としてキスをするなんて理不尽な関係を押し付けられた時の苦しそうな表情も。
そして、何度もキスを繰り返すうちに口にした「好き」の言葉も。
でも声は出ない。視界がにじむ。
ダメだと分かってるのに、馬鹿みたいに泣いてしまいそうになる。葉月には、勝てない。最初から分かっていたことだ。葉月は私なんかよりもずっと強い。心に芯が通ってる。いつだって真っすぐだった。そんな人と一緒に過ごしてきたのだ。
私はもう葉月の形に歪められていた。
「涼香は、知ってしまったんでしょう?」
葉月とはずっと一緒に笑い合っていたい。それができないのなら、せめて辛くなってしまう前にお互いを忘れたい。それだけが、どうしようもない人生を送って来た私に与えられた救いだった。
葉月の瞳に映る世界なんて、私には理解できない。
いつか別れてしまうのだとしても、今が幸せならそれでいい。あるいはそもそも辛い未来なんて想像もしないのかもしれない。どうしてそこまで楽観的でいられるのだろう。どうして自分だけは不幸に見舞われないと確信できるのだろう。どうして私は、葉月みたいになれなかったのだろう。
目を伏せていると、愛おしい温もりが私を包む。拒まなければならないと分かっていた。でもただ抱きしめられるだけで体が麻痺したみたいに動かなくなってしまう。不思議と涙だって引っ込んでしまうのだ。お母さんに子守唄を歌ってもらった赤ちゃんみたいに、落ち着いてしまう。
反抗なんて、もうできなかった。
罪悪感に耐えるのも、葉月の思いを拒むのももう限界なのだ。
「もっとたくさん知れば、気持ちも変わるかもしれないわ」
耳元で聞こえる優しい声に、小さく息をつく。この先に幸せな未来なんてないって分かってるのに、否定したくない。私の心は曖昧に矛盾を重ねていた。天秤は慌しく揺れて、一方向に定まらない。口から出る言葉も、的を射ないぼやけたものになっていた。
「そんなものなのかな」
「私もあなたに恋をしてから少し前向きになれたのよ。まだ人と関わるのは怖いけれどね」
「……そっか」
抱きしめられるのをやめて、横になる。葉月の太ももに頭をのせて見上げた。照れくさそうな微笑みが私を見下ろしていた。葉月の笑顔をみると、笑うような気分ではないのに自然と頬が緩んでしまう。
「……私も前向きになれるのかな」
「きっと大丈夫よ」
優しい微笑みで頭を撫でてくれる。感情が動き過ぎて疲れてしまったのだろうか。なんだか眠くなってきた。葉月の方に寝返りをうって、お腹に顔をうずめた。そのまま目を閉じる。
台風の音が遠い。優しい鼓動だけが鼓膜を揺らしていた。眠りに落ちるまで時間はかからない。太陽が沈んでいくみたいに現実は遠ざかり、遥か遠い夢の中で目覚める。さざ波の音が響く。晴れ渡った空の下、青い水平線がどこまでも伸びていく。
ウェディングドレス姿の葉月と、海のすぐそばの教会で結婚式をあげていた。
参列者はこれまでに出会った、友達にはなりきれなかった人たちだった。その中にはお父さんとお母さんもいて、私たちのことを泣いて祝ってくれていた。それを目にした瞬間に、ここが夢なのだと気付いた。
晴天の下、フラワーシャワーの中を二人で手を繋いで歩いていく。
隣で葉月が心底嬉しそうに笑いかけてくるのだ。天使みたいに可愛い笑顔に、私も満面の笑みを向ける。そして、人生で一番のキスをした。
雲一つない青空に鐘の音が響く。
いつか終わりの来る私たちのハイライトは、それでも間違いなく幸せだった。
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