第33話 溢れ出す思い
ちょうど全ての課題を終える頃になって、葉月が部屋に戻ってきた。
ありふれた水色のパジャマなのに、ランウェイを歩いても自然なくらいおしゃれにみえるのだ。けれど動きはあからさまにぎこちない。ベッドに座るのか、私の隣に座るのか迷っているのだろう。不自然に目を泳がせていた。
それでも結局は、私の隣を選んだらしい。目をそらしながら、そっと腰を下ろす。つやつやの髪から漂ってくる甘い匂いは新鮮な果実みたいで、いつもよりも濃い。変な気分になってしまいそうだった。
「課題、終わったのね。偉いわ」
「これでやっと海に行けるね」
うつむいたまま微笑む。ぎこちない空気は換気してしまうべきだった。
でも、わざとらしく明るく振る舞うのも、無邪気に親しく体を触れ合わせてみるのも、選択肢にあがるだけで選び取れない。付き合いたてのカップルのような距離感で、言葉を交すだけだ。
触れ合わない肩が、遠い。
してもいいと伝えるのと、本当にしてしまいそうになるのは、全然違う。冗談だと流せる範囲は、もう超えてしまっているのだ。ちょっとしたふれあいで火花が散ればまた引火しかねない。
「涼香。お風呂に入ってきなさい。着替えも用意してあるわ」
「……うん。ありがとう」
立ち上がろうとして、不意に手が触れ合う。今さら気にするような事じゃないのに、お互いにぱっと引いてしまった。胸がうるさい。葉月も頬を赤くしているのだ。
これまで、そういう行為とは地続きではないと心のどこかで思っていた。でもかみ合えば、あっさりと及んでしまう。
緊張して、当然だ。でもよそよそしい現状はやっぱり嫌だった。葉月とずっと仲良くしていたい。ずっと一緒にいたい。世界で一番大好きなのだ。思いは伝えられなくても、たくさん触れあいたい。
横目で葉月をみつめる。胸の鼓動を抑え込んで、つぶやいた。
「……お風呂の前に、キスしてもいい?」
鳶色の瞳が見開かれる。返答に迷っているのか、口を閉ざしたまま胸の前で両手を遊ばせていた。それでも、やがて艶やかな瞳と目が合う。
床の上では人差し指だけが手の甲に伸びてくる。そのもどかしさに耐えられなくて、すぐ手のひら全体で包み込んだ。触れ合っていただけの熱は瞬く間に絡み合い隙間がないくらいに密着する。
言葉はないけれど許されたのだと思った。
反対の手を微かに濡れた美しい黒髪に伸ばす。優しく梳く手は自然と真っ赤な頬へと降りていった。しばらく撫でてから薄桃色の唇に人差し指で触れる。
お風呂上がりだからか果実みたいにみずみずしい。反発する柔らかさの虜になってしまうのだ。無意識に距離が縮まる。
気まずい遠さはもう私たちを隔ててはいなかった。甘い吐息が交じり合う。唇が軽く触れあう。ただそれだけの初々しいキスを繰り返す。
「……涼香は、私のことが好きなの?」
不意な言葉に目を見開く。吸い込まれてしまいそうな瞳が私をみつめた。
否定すべきだと分かっているのに、喉が詰まったみたいに言葉が出ない。
「……どう思う?」
なんとか曖昧に笑って立ち上がる。この人に出会うまでは、感情を誤魔化すなんて簡単だった。悲しみも寂しさも何もかもすべて、理性で掌握できるものと思っていた。でも胸の中で暴れる好意は誤魔化すには手遅れなくらい、強大になっている。
これ以上追及されるのはまずい。
足早に部屋を出ていこうとするも、手を掴まれる。
振り返った瞬間、いつの間にか立ち上がっていた葉月に唇を奪われた。
「私、まだあなたのことが好きよ。二か月前はだめだったかもしれない。でも最近は分かるのよ。あなたも、少しは私のことを好きになってくれているのよね? まだ諦めなくてもいいのよね?」
何も言えなかった。何もするべきでないと分かっていた。
なのに体が勝手に動いてしまう。まるで全てを肯定するみたいに優しく唇を重ねていた。触れ合わせるだけのキスを、何度も繰り返す。破滅が待ち受けていると知っているのに、歩みは止められない。
視界が歪む。頬を涙がこぼれていく。葉月のことは、大好きなのだ。恋人になりたい。全部、私のものにしてしまいたい。でも幸せな未来なんて、想像もできない。いつか訪れる冷たい現実が、恐ろしい。
矛盾する感情をどうすることもできない。嗚咽も抑え込めない。
優しい抱擁が突き刺さるみたいに痛いのだ。それでも目も閉じて、愛おしい温もりに溺れようとする。そんな私に何を思ったのだろう。葉月は軽く肩を押して、距離を取った。
「……涼香。お風呂上りに返事をして欲しいわ。もしダメだというのなら、理由を教えて欲しい。その涙の理由も一緒にね。納得できるものでないのなら、私、絶対に諦めないわ」
風雨が乱暴に部屋に響く。耳障りな音も意に介さないような美しい佇まいで、葉月は自分の胸に手を当てている。真剣な表情で言葉にした思いは、あの日よりもずっと力強かった。
「涼香のことが好きよ。付き合って欲しいわ」
「葉月」
「お風呂でもう一度だけ考えて欲しい。私も、準備が必要なのよ」
矢みたいに真っすぐな声を受け流せない。震える手で涙をぬぐう。
「……分かった」
恐怖が消えてくれないのだ。もう一度だけ、葉月と唇を重ねた。
部屋を出て壁に寄りかかる。ばたりと扉が閉まり光の筋は消えた。
薄暗い廊下でうるさい胸に手を当てる。初めて告白された六月の誕生日には、不安しか感じなかった。でも今は高揚感すら覚えるのだ。
私は着実に、葉月を好きになっている。天井なんてみえない。そばにいればいるだけ、夏の日差しを浴びたみたいに心が熱を持ってしまう。思いを受け入れてしまう日は近いのかもしれない。
でも今ではない。
葉月には、私が抱えるものを説明してあげなければならない。その上で、きっぱりと振らなければならない。思いが強まった分だけ痛みは増すのだろう。でも永遠を失う覚悟なんてないのだ。
また涙が込みあがってくるから、腿をつねった痛みで相殺する。相反する感情の嵐は、きっと台風にも負けていない。
心をもみくちゃにされながら、風雨の響く中を浴室に向かった。
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