第32話 キスだけでは満足できない

 言葉にできない思いを息も忘れて伝える。キラキラした海面は、もう遠い。お互いを求めるたびに、私たちは取り返しのつかないほどに絡み合う。光も届かない深海へと溺れてゆくのだ。どこまでも、深く。気付いた時には、もう戻れないくらいに。


 うっすらと目を開けると、今日も葉月は涙を流していた。


 最近はキスをするたびに泣いてしまうのだ。私の行動は言い訳もできないくらいに好意を示している。もしかするとこの人だって気づいてくれているのかもしれない。私がただの、快楽に溺れたいやらしい女ではないってことに。


 甘く唾液が絡まり合う。苦しそうな吐息と粘液の触れ合う音が部屋に響く。


 交わりの止まる気配がないのは、私たちの体を繋ぐ快楽の神経を切り離せないからだ。心で繋がれないのなら別のもので代用するしかない。お互いに理解しているからやめられない。


 でも私の体はキスだけでは満足できなくなっていた。


 後ろから抱きしめたままさりげなく胸のふくらみに手を伸ばす。嫌がるようなら大人しく引き下がるつもりだった。でも指先がボリュームのある柔らかさに触れた瞬間、ますます激しく舌を絡めてきたのだ。言葉なんてないのに分かりあえてしまう。


 葉月も、この先を望んでいる。


 手を腰に落とす。そっと服をめくりあげて、中に手を入れた。


 むわりとした空気が漏れ出る。お腹は汗でじっとりと湿っていて、口内で舌が交わるたびにびくびく震えていた。指先で撫でるだけで、とろんとした瞳が私をみつめるのだ。心臓が早鐘をうつ。全身を巡る血液が沸騰するみたいに熱い。


 もう我慢なんてできない。手を這わせ上昇させた。深く深く、唇を交える。


 うっすらと開いた視界に映る景色は、淫靡であるとしか言いようがなかった。


 夏らしく薄い部屋着に、私の手の形が浮き上がるのだ。


 葉月を求めて内側で蠢くそれは、独立した生物だった。私の意志なんて関係ない。それどころか残り少ない理性すらも、侵食してしまう。人格の主体が入れ替わってしまったみたいで、今や私の体は葉月を知るための機構でしかなかった。


 右手を湿らせる熱さと柔らかさ。


 触れあった唇と絡み合う視線を通じて伝わってくる好意。


 愛し合うこと。それ以外の機能は捨ててしまったみたいに、何も考えられない。


「二人とも、お風呂沸いたよ……。ってごめんなさい!」

 

 開いた扉が、勢いよく閉まった。


 反射的に唇を離す。服の中に突っ込んだ手も引っ張り出した。


 冷水を浴びたような気分だった。事実を認識するのに時間がかかる。


 今のは、たぶん、人間だったと思う。それも、葉月のお母さんによく似た声と姿だった。誰なのだろう、なんて疑問を心の安寧のために挟んでみるけれど、ここは葉月の家なのだ。それ以外にあり得ない。


 とんでもない瞬間をみられてしまった。燃え上がるような情欲は消え頭の中は焦燥に満ちる。飛びのくように葉月から体を引いた。


「……ごめんなさい。本当にごめんなさいっ……!」


 土下座するような勢いで、頭を下げる。葉月は顔を引きつらせていたけれど、すぐに「大丈夫よ」と優しく頭を撫でてくれた。恐る恐る顔をあげると、気まずそうに微笑んでいた。


「私が悪いのよ。……完全に、あなたの愛撫を受け入れてしまっていたわ。恥ずかしいけれど、滅茶苦茶にされたいと願ってしまったのよ。だから気付けなかった。意識があなたにしか向いていなかった。涼香は何にも悪くないわ。だからその……」


 どれだけ取り繕っても、気まずいことに変わりはないのだ。目を合わせられない。そんな空気に耐えかねたのか、葉月は相変わらずの真っ赤な顔で立ち上がった。


 乱れた衣服と髪をいそいそと正して、扉に向かうのだ。


 煽情的だなんて感じてしまって、危うくテーブルにヘッドバッドするところだった。本当に私はどうかしてる。お母さんがいるって分かってるのに、あんなことをしてしまうなんて。あまりに理性が弱すぎる。


「……先にお風呂に入って来るわね?」


 目をそらして、身体も背けて小さく頷く。


 開いた扉がばたりと閉まる。足音は遠ざかり、階段を降りていった。そのしばらく後、お母さんの嬉しそうな声が響いてきた。でもすぐにそれに反抗するみたいな大声が聞こえてくる。からかわれている葉月の姿が、ありありと脳裏に浮かぶのだ。


 お母さんが寛容でよかった。でもただただ申し訳ない。


 なのに視線は自ずと手のひらに落ちる。直接触れた感触は見た目以上に凄かった。


 とてもじゃないけれど、忘れられるわけがない。


「葉月の胸、すっごく柔らかかった……」


 なんて馬鹿なことをつぶやいてしまう自分の頬を、軽くつねる。私にだって胸はあるのだ。ちょっと触ったくらいで恍惚としてしまうのはおかしい。でも感情的にはどうしようもない。自分のを触るのと、大好きな人のを触るのは全然違う。


 葉月の言う通り私はいやらしいのだろう。認めるしかない。


 でも好きな人をたくさん触りたいと思うのは、決して恥ずかしいことではない。だとしてもまさかあそこまで溺れてしまうなんて思わなかったのだ。後悔と反省の念は消えてくれない。これからのことを思うと、不安を感じないわけがない。


 お風呂上がりの葉月はきっといい匂いがするのだろう。しかも、眠るときは後ろから抱きしめられたままなのだ。我慢できるだろうか。なんて妙なことをまた考えてしまって、首をぶんぶんと横に振る。


 深くため息をついて鞄を開く。人はみんなこういうものなのか、私だけがおかしいのか。もうよく分からないのだ。考えても納得できる答えは出ない。


 テーブルの上にテキストを取り出す。お風呂上がりの葉月に変なことをしてしまわないよう、集中して残りの課題に取り組む。


 今の私にできるのは、雑念を払うことだけだった。

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