疲労が色になる入浴剤。

渡貫とゐち

白黒つけましょう


「――なあ、聞いてくれよ!!」と、挨拶よりも先に言われた時は、大抵がろくな話ではない。

 高校時代の親友との仲であるからこそ分かることだ。


 不満と愚痴を言いながらも最終的には嫁の自慢話になるし、惚気で終わることは目に見えている――そして聞き慣れている。何度、同じ話を聞いたことか……。


 研究室で寝泊まりしているしがない研究員の男が、嫌な顔をしながらも、友人のために椅子を引いた。顎で、くい、と。早く座れと示すと、友人がどかっと座る……乱暴な動きは相変わらずだった……。


 ふたりはまったくタイプが違うにもかかわらず、関係性が深いのは幼馴染ということもあるが、小学校から高校まで同じクラスで、しかもずっと前後の席だったのだ。


 あり得ないように思える幸運だ(研究をしてもいいかもしれない)。

 つまり十二年間も、体が大きなこのスポーツバカのうなじを見続けたことになる……。

 うなじを見れば彼ということが分かる。嫌な特技だった。


「今日はなに?」

「嫁がさ――」

「惚気なら帰ってくれ」

「惚気じゃねえ! 今回ばかりは許せねえって!!」

「…………」


 つい先日、メッセージではあったが、彼の嫁とやり取りをしていたのである程度の事情は知っているが……。

 それでも一方の言い分しか聞いていないのでどっちが悪いか、など判断できなかった。

 そのため、答えを出すなら旦那の言い分も聞く必要があるのだが……いや、そこまでするほど、ふたりのいざこざに興味があるわけでもない。

 内容から察するに、日頃の不満が出ただけで長引く喧嘩ではないはずなのだ……。


 ただ、ふたりの鬱憤が吐き出される場所が自分ここであるなら、早期に決着をつけたいところだ。


「(幼馴染の三人の中、ふたりが結婚するとこうなるのか…………勉強になった)」


 別に、三角関係でもなかった。研究員と野球バカ、そしてダンスに夢中だった女の子。

 青年ふたりと少女ひとり。くっつくとすれば、やはり運動部のふたりだったのだ。

 唯一の文化部である彼は恋愛をする暇などなかったし、こっちはこっちでやることはやっている。そのため幼馴染同士の微妙な関係性になることはなかった……いま思えば経験しておきたかった、と思わなくもないが……。


「あいつ、家事と子育ての方が大変だって言うんだよ! そんなわけあるかッ!!

 こっちはサラリーマンとして目上の人間に気を遣って、客を優先し部下も育てなくちゃいけねえ……。頭からっぽにして体だけ動かしてた学生時代とは違うんだ、こっちの方が大変に決まってるじゃねえか!!」


「どっちも大変だと思うけどね」


「俺の方が大変だ!!」


『あたしの方が大変なんですけど!!』という声が聞こえてきそうだった。


 どちらも負けん気が強いため、言い合いになれば引かない夫婦である……スポーツをしてきた側からすれば、どっちが上か下かでないといけないのだろうか?


 これが芸術系であれば、みんな違うしそれぞれ意味があってみんな良い、となるのかもしれないけど……。


 作品作りをしている人は良くも悪くも他人を見ない。自分のもので精一杯だからだ。

 なので、彼の言い分には共感できなかった……大変じゃないことなんてないのだ。


「俺の方が大変な思いをしてるのにッ、あいつは同じくらい自分も大変だって言って八つ当たりしてくるんだよ……。家事はあいつ、仕事は俺、役割分担してるんだから家のことは全部があいつがするべきだろう!?」


 なら契約書でも作れば? という指摘は火に油となる気がする……なので言わなかった。

 彼は言いたい欲をなんとか堪えたのだ……偉いと褒めるべきだった。


「そんなのさ……話し合ってくれよ……」


 当然の意見であるが、それができているなら今この場にはいないのだ。


「話し合っても埒が明かないんだよ……俺もあいつも、譲る気はないからな――」


「胸を張って言うな。なんで僕を巻き込んで……まあいいけどさ」


 十二年間も――いや、幼稚園の頃を含めればもっと一緒にいた時間は長い。長い付き合いであっても結婚してしまえば自然と疎遠になるものだ……子供がいれば尚更である。

 親友とは違って独身の研究者からすれば、話が合わなくなり、自然と距離ができるのは仕方のないことだと割り切って諦めていたが……

 相手からなにかと理由を見つけて話しかけてきてくれるのは素直に嬉しかった。


 毎回、喧嘩の愚痴を聞かされるというのは親友同士の仲を心配してしまうが……、離婚していないから大丈夫、と思うのも危ないか……。

 ふたりには仲良くなってほしい、というのは幼馴染としての意見である。


「じゃあさ、白黒つけたいってこと?」

「ああ。俺の方が大変だってことを分からせたい!! 良いアイデアないか!?」

「あるけど……試してみる?」


 白衣を翻し、今こそ自分の腕の見せどころだとでも言いたげに、彼が立ち上がって棚の引き出しを開ける。

『試作品』、とラベルが貼られているそれは…………


 不安にさせてしまうかもしれないが、使い方としてはただの入浴剤だ。

 危険な成分は入っていない……が、普通の入浴剤でないことは確かだ。


「『疲れ』が『汚れ』……というか、まあ色かな? に変わるんだ。入浴剤を入れるとまず湯が白くなるんだけど、その後で体の疲労……運動とかストレスとか、全ての疲れが白を塗り潰す黒色に変わって出てくるんだよ。これで白黒ハッキリ分かると思うけど……使う?」


 ほい、と投げられたそれを、親友が受け取った。

 スポーツバカの彼は味気ない包装を見つめながら、疑ってはいないものの、片方に肩入れできるのではないか、と可能性を考えているらしい……。

 昔より成長して頭を使うようになったようだが……残念ながら外れである。


 研究員が発明品に嘘を入れることはない。実験ならまだしも……(嘘を含めたことで出るデータを収集する目的であれば混ぜることもある)親友を助けたいがために渡した試作品に意図的な嘘は混ぜない。試作品なので多少は発言と乖離してしまう部分もあるかもしれないが……。


「ひとつ、ここで使っていく? 日頃の疲れが溜まっているんじゃないか?」

「そうだな……試しに使ってみるよ」

「そうするといいよ」


 浴室へ向かう親友。

 湯は元々張っているのですぐに利用できる。


「なあ、もしかして……最初から俺に入浴剤を使わせるつもりだったのか?」


「考え過ぎだよ。そんなつもりじゃなかった……だけどもしかしたら――とは思っていたけどね……。いいから入りなよ、追い炊きしていいから」


 おう、と返事があってから――三十分後、親友が浴室から出てきた。



 作業を止めて彼の元へ向かうと――


「お、色が出たね」


 白いお湯は灰色になっていた。

 黒に近い灰色だろうけど……まあ灰色と言っていいだろう。最初の白色はそう簡単には塗り潰されないので、白が変色している時点で相当、疲れが溜まっていたらしい――。


 風呂上りの親友はスッキリした表情で、今すぐにでも体が動かしたいようでそわそわしている……さすがスポーツバカだ。


「すげえなこれ……商品化できないのか!?」

「量産できないからね。商品化はまだ無理かな……」

「そうか……上手いこといかないもんだな」


 白黒つけるための入浴剤をいくつか親友に渡す……試作品だが効果はきちんと把握できた。

 量産こそできないが、いま完成しているモノの効果は保証できる。


 あとはこの入浴剤を彼の嫁に使わせて……、


 さて、どっちがより黒く染まるのかで白黒ハッキリつければいい。


 今の彼の疲労の色は記録しておいて……証拠も証人もここにいる。勝負は平等だ。

 結果は今夜――。




「ん、これ……あいつが渡してくれた試作品の入浴剤。良かったら使ってくれだってさ」


「あっそう」


 スポーツバカの旦那が家に帰り、夫婦間では剣呑な雰囲気のままだったが、会話はできている。二歳になったばかりの子供は今は寝ているようで、家の中は静かだった。


「入ってくれば? あとはやっておくから」

「…………これ、変な成分とか入ってるんじゃ……」

「あいつが渡してくれたもんだし、入ってないだろ」


「どーだか……。≪りっくん≫からすれば『変』じゃないってだけかもしれないし……」

「いいから。ほれ、休んでこい」

「……分かったわよ」


 嫁は言われた通りに浴室へ向かい、張ってあった湯に入浴剤を入れて、肩まで浸かる……ふう、と一息ついた時には既に意識が遠くなっていて…………


 彼女は数分間、ぐっすりと熟睡してしまった――――。




 悲鳴が聞こえた。


 躊躇いなく浴室の扉を開けた旦那が「大丈夫か!?」と声をかけると……信じられない光景が飛び込んできた――――それは。


「な、なにこれ……やっぱり変な成分が入ってたんじゃないの!?!?」


「…………お前、これ……」


「なにをしてなにを企んでいるのか言いなさい、早くッ!!」



 湯が真っ黒だった。……白なんて見当たらない。


 墨汁を溜め込んだような黒さに、それだけの疲労が彼女の中にあったのだと分かる。


 ……自分の湯を思い出す。


 黒に近いとは言え、白も混ざった灰色だ……それに比べて嫁の方は……。どれだけストレスを溜め込んだらこうなるのだ? と思うほどの黒だ。


 というか穴だ。底が見えない穴を覗いているような気分だった……。


 もしかして、嫁の疲労は底なしなのか?



「――――!」


「いいから――って、ちょっとなにしてんの!? 土下座しろなんて言ってないのっ、説明をしてほしいだけで……っ。ちょっとなになんなの、素直なのが怖いんだけど!?」


「お前、いや――あなた様の方が俺よりも百倍も疲れていたんですね、生意気なことを言ってすみませんでした!! 俺の疲労なんか全然、大したことなかったです!!」


「え、うん……そりゃまあ疲れてるけど……でも、そっちだって疲れてるでしょ……?」

「いや、俺よりも……」

「あなたの方が疲れてるわよ。いつもお仕事、ありがとう……感謝してるわ」


「そんなの……こっちこそ、いつもいつも、家のことをやってくれてありがとう……。だから俺よりもそっちの方が大変で、」


「あなたの方が」

「いやお前の方が」

「あんたが――」


 そして、言い合いになった夫婦はもうひとりの幼馴染に連絡をした。


 メッセージか電話かの違いはあれど、内容はまったく同じである。



『あいつ(彼)の方が大変だと思うんだけど、りつ(りっくん)はどう思う!?』



「おいおい……こいつら喧嘩してねえ、乳繰り合ってるだけじゃん」



 そして、ひとりの研究員はスマホの電源をそっと落としたのだった。




 …了

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疲労が色になる入浴剤。 渡貫とゐち @josho

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