或る夜の戯

紫鳥コウ

或る夜の戯

 解剖学的な見地を脱色して自我を不透明で異種混交的な慾望の生産機械として見做みなせば、この戀愛れんあいが遠近法の反転と色彩効果の倒錯により構築されていることに気付き、慄然とし呆然とし、破滅したいと願うほどのもろさに耐え難くなるのは確かだ。


 梅雨の初め、高架橋の下で雑巾のようにすすり泣いている私に傘が差しだされ、配合した絵の具が分解されるように、もやのかかった晴れやかさ、とでもいうようなものが〈心〉に吸収され、掌で口を押さえつけられた如くに窒息し、二本の指が口腔に侵入し、蛞蝓なめくじのような舌を捕縛し弄び、死は瞳に宿り、言偏ごんべんは切断され逃走し、あの人を抜きにして生きることは、重力も窓もない家に閉じ込められ南京錠を掛けられることと大差はないと自覚した。


 景子は、頬杖を突きながら寒天を噛んでいるような顔をして、その戀は暗号化しなければならないと、倦怠を衛星にした双眸を、もう消えてしまえばいい電灯に輝かせ、双丘に挟まれたタイを弄ぶ。発酵食品を手でねているのではないかと疑うほどに顔色が悪い。そして彼女もまた、私と変わらない十字架を背負っているらしい。


 レ点の打っていない漢文を読解するよう強いられ、座標平面を俯瞰ふかんせずにグラフを描けと言われているような、学業的痛苦の変化球の一種である私たちの十字架は、北斗七星がほどけた後の宇宙を夢見て加速度的に質量を流動化させたかと思えば、将又はたまた、世界地図から緯度経度を蒐集し蹴鞠けまりを作り、地球儀の代替物として輸出し資本家へと変身し、とぐろを巻いた蛇の置物と化し、熱帯雨林を彷徨ほうこうした。…………高校三年の夏の事。


     *     *     *


 双子の日輪は分泌液を窮乏させて、陽太は深い眠りに堕ちていき、くようないびきをかいているが、砥石といしの上で死を待っているかのように、苦痛に喘いでいる……ように聞こえないこともなく、山の鞍部あんぶのような脇の下の雑草は熱い汗に濡れしょぼたれて、屹立をおえたものは恩威をまとったまま萎れており、手入れのされていないくさむらは腐熟した臭いを放散していた。


 ベッドルームから抜けだしトイレットへ向かう途次、位人臣くらいじんしんきわめるという慣用句を思いだし、王冠をいただいた主人公の役をてられた自分を見出し、寡黙な色事の後の疲労と倦怠を束の間だけ忘却し、鴨沓かもぐつを履いて蹴鞠をしているような快翔的動揺に絶頂し、その悦楽への畏怖に打ちひしがれ、陽太の醜いものを受け入れたことを悔悛かいしゅんし、絵団扇えうちわを足の甲へ投げつけたいと思った。


 閨房けいぼうにおける悪夫である陽太に与えられるべき懲罰は、擬似晴天ぎじせいてんに輝く庭へ放逐ほうちくされることに相違ないが、生憎、このマンションには庭がなかった。


 麦茶をコップにんでいるとき、右手の小指の爪にこけが生えているのに気付いた。と思うと、手の甲を覆い尽くし桜が植えられ遊具が建ち公園となった。勿論、妄想である。しかしこの妄想は冷笑に値するものではなく、チャート式の採点を受けなければならぬはずであり、それに対して論駁ろんばくされる筋合いなどないのは言うまでもなく、加えて文談の題材にされるべきだろう。


 ふと、亡き母の遺愛のミシンのことを想った。しかし、それはともかく、があり、たけからず……というような感じの慣用句が記憶の奥深くから引っ張り出され、その対極的な性質を持つ夫の、殊更、房後に依違して接してくるあの欺瞞ぎまんほど、悪辣あくらつなものはなかろう。


 尚、彼が、自分の性癖を強いたことに対して面謝してくるときには、噴き出しそうになるくらい滑稽を感じずにはいられなかった。何事も自恣じし収斂しゅうれんさせてしまうその腰の低さは、彼が半包茎を気にするがための辯疏べんそではないだろうか。遅漏であることを誇りに思っているようだが、演技をしなければならぬほどエクスタシーを感じることができぬあの下手さ加減は、もう直る見込みはないのだろう。


 性交のたびに紅をさす彼の顔の反藝術的な様子は、下らぬ批評の標的となり征伐されればいいのだが、それでも愛らしく思ってしまうからこそ、結婚まで辿り着いたのに違いない。身体ではなく精神の繋がりを大事にしたいなどという言説もあるらしいが、正鵠せいこくていない。反藝術、それが全てである。


 何時の間にか半勃起している彼のものを、処理するか打ち捨てるか迷うところではあるが、その灯台をジッと見つめながら、沖合に漂い続ける一艘の船となった方が、反藝術的であると思い直し、臭気の漂うベッドルームを換気することなく、どうか景子がくたばってしまいますようにと祈願した。痙攣けいれんする灯台に気味の悪さを感じつつ。



 〈了〉

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