ハイウェイラジオ:生き先
平山芙蓉
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キーを回すと、低い唸り声と共にエンジンがかかる。自動で起動したタッチパネル式カーステレオの、人工的な青い光が、車内の暗い空気を切り裂く。息を吸うと、前任者から受け継がれた芳香剤の香が、鼻腔に広がった。良いとも悪いとも言い難い、嫌な香。疲れた身体には、どれも優しくない刺激だ。
シートベルトを締めて、ヘッドライトを点ける。明かりの先には、がらんとした駐車場の様子がぼんやり浮かんだ。並んでいるのは、コピーアンドペーストで作られたような、社用車の群れだけ。いつもなら残っている、システム部の田崎の車さえない時間帯という実感が、なんだか悪い夢の中にいるような気分にさせた。僕はゆっくりとアクセルを踏み、量産型の群れから車を発進させて、会社を後にした。
外はすっかり夜の装いで、歩道に人影はほとんどない。歩いている人間も、使い捨ての消耗品を繰り返し使った後のようなスーツを着た、サラリーマンくらいだ。きっと彼らも大変なのだろう。でも、今の僕と比べれば、まだまだハッピィな奴らだと思ってしまう。もっとも、道行く彼らも、同じような感想をこちらに向けているに違いないけれど。
幹線道路を走り、すぐに高速へ乗った。ステレオ以外は旧式の車だから、車体はがたがたと不安に揺れている。フロントガラスの向こう。街を見守る背の高いビルたちと、そいつらの放つ光に負けて、夜空は窮屈そうに収まっていた。十分少々しか乗っていないのに、背中は汗ばみ、シャツが肌にくっついてくる。窓を半分ほど開けると、初夏の温い風に乗って、排気ガスが押し寄せてきた。芳香剤は仕事をしない。寧ろ、汚れた空気とつるんで、悪い冗談みたいな臭になった。普段ならこんな手段を取らない。エアコンの調子が悪いせいだ。暑さで苛立つよりかは、幾分かマシだろう、と自分に言い聞かせる。僕はこれから一晩中、運転をしなければならないのだから。
長旅の序章にしては、あまりにも不穏な雰囲気に、肩が重くなる。それでも、始まってしまったものは止められない。自然と出そうになった溜息を押し返すように、コンビニ袋から買っておいた栄養剤を取り出し、一気に喉へ通す。舌の上には、糖の甘味と、スパイス特有の辛味がへばり付いていた。不味いけれど、景気づけにはちょうど良い。
空瓶を袋に入れて、手をそのままカーステレオへ伸ばす。ディスプレイを操作してラジオモードに切り替え、周波数をハイウェイラジオに合わせる。チョイスの理由は、普通のラジオのテンションに、付いていけそうにないからだ。
時報に続いて、チープなオープニングが短く流れた。
『午後十一時現在の、高速道路状況をお伝えします。観泥高速、上りのお報せです。鮒寺ジャンクションを付近を頭に、戸画先ランプ付近まで、約二キロ、渋滞して……』
抑揚のない女性の声に耳を傾けながら、アクセルを更に踏み込んだ。もうすぐ世間様は大型連休に入る。僕の勤め先とは違って、大企業の方々は、旅行に帰省に……、と何日か前から有休を取り、暦の上より長く休みを取っているのだろう。渋滞だって、その影響に違いない。休めない人間からしてみれば、迷惑な話だ、とも思ってしまう。でも、社会という構造の中で、僕の身に起きた不幸など、路地裏で猫に追いかけ回される鼠みたく、些末な問題に違いない。
こんな時間なら、家で惰眠を貪っていただろうに……。
午後六時。
残業もそろそろ終わりそうだった頃。
僕の元へ、いつになく深刻な顔をした後輩がやってきて、一言。
『発注を忘れていました』
それは、数か月前に決まった大口顧客からの依頼で、決まれば数百万円は下らない案件だった。本来なら僕か、更に上の上司が担当するはずだったけど、そろそろ任せても良い機会だろう、と後輩に回した。その時は不安などなかった。彼の力量なら、多少のミスはあれど、何とかやり遂げられると信じていた。もちろん、完全に放任していたわけでもない。相談をされれば乗っていたし、進捗報告も聞いていた。
だけど、どうやら彼は、最初期の段階で躓いており、それを今まで隠し通していたらしい。よくよく話を聞いてみれば、ミスをしたその時ならばまだ、どうにでもなる状況だった。僕や上司だってするような、平凡なミスだからだ。ただ、大きな仕事を任されたプライドなのか、プレッシャーなのかは知らないけど、彼は嘘を吐いてしまった。そうして、雪だるま式に大きくなる事態に、いよいよどうにもできなくなり、破滅的な今日を迎えたというわけだ。
高速を進むにつれ、ビルの高さが一回りほど低くなり、陰に隠れていた月が姿を現す。白く冷たい、欠けた陶器のような半月だった。空はそいつの独壇場で、星は一つも輝いていない。もっとも、その光だって、人々の織り成す街明かりには、遠く及んでいないのだけれど。
後輩は、良くて大幅な減給かボーナスカット、最悪は懲戒解雇になるだろう。仕事に関して誤魔化しをしていたわけだから、恐らく後者が妥当だ。中小とはいえ、その辺は軽く済ませてくれない。言うまでもなく、責任者である僕にだって、ペナルティはある。まあ、上から言われる前に、こうして事態収拾を買って出たわけだし、先方が明日の朝イチまでに代案を持ってきてくれれば、それ次第……、とは言って貰えた。致命傷ではあるけれど、首の皮一枚繋がっているだけ、彼よりは明らかにマシだろう。
『続いて、――高速――行――情報です……』
風のせいで飛び飛びになるラジオのボリュームを、少し上げる。渋滞にはまだ引っかかっていない。運が良いみたいだ。もっとも、新幹線に乗れてさえいれば、こんな苦労をする必要などなかったのだけれど。生憎、この連休のせいで、チケットを取れなかった。今年から、全席指定席になってしまったせいだ。それでも、先方からしてみれば、こちらの事情など知ったことではない。渋滞に引っかかったとか、新幹線が云々なんて言い訳が、通用するほど僕たちは信頼されていない。
厄介なことに巻き込まれた、とつくづく思う。だけど、これだって仕事だ。リカバリーさえできれば、出張費はある程度、補填される。帰ったら、たっぷり寝よう。久しぶりに、ビールを飲んでみるのも良いかもしれない。……そう言い聞かせても、気持ちは簡単に上向きにはなってくれず、かえって現実が、気怠さを助長させる一方だった。
――どうして、そんな立ち位置で生きている?
都市の澱んだ空気に透けた僕が、問いかけてくる。
部下と上司に挟まれながら仕事をこなすだけの毎日。
帰宅してからも、明日のための準備をするだけで、趣味に時間を割くことだってできない。
そもそも趣味と呼べるモノを、入社してからこっち、丸っきり棄ててしまった。
まるで、生活や自分のために仕事をしているのではなく、仕事のために生活をしているような日々。
楽しみなんて、指で数える必要のないくらい、微々たるものだ。
望んでこんな生活をしているわけではない。
本心はいつだって、
でも、向けているだけで、抜け出そうとはしていない。
他人事のように、傍観しているだけ。
きっと、ほとんどの人間がそうなのだろう。
夜を彩る光源の中にいる人々も、肩を竦めて歩いていたサラリーマンも。
この
そうしなければ、待っているのは緩やかな死だけだから。
『続いて、その他の高速道路情報のお報……』
更新されるラジオに耳を傾けようとした時、バックミラーに明るい輝きがあった。眩しいな、なんて思うのも束の間。光源は後方から、隕石を彷彿とさせる勢いで、加速してくる。怪物染みたエンジンの音、怒り狂った表情のフロント、七色以上に多彩な色を放つ電装に塗れた車体。その派手さに輪をかけているのは、高速に転がる喧噪たちをかき消すほどの爆音で流れる音楽だった。
ナイトクラブを盗んで来ました、と言わんばかりのスポーツカーは、法定速度という単語さえ置き去りにしたスピードで、僕の横を通り過ぎ、遠く彼方へと見えなくなった。
危ない連中だ。一時は減少傾向にあったのに、最近はまた、ああいう輩が増え始めた。ルールやらマナーやらを破ってあそこまでするのは、どうかと思う反面、心の片隅には自由気ままなやり方を、羨んでいる自分もいる。
それにしても、爆音で奴らが流していた音楽は、あの手の輩には珍しい選曲だった。
「また、流行ってるのか……?」
一瞬だけ耳を掠めたフレーズを、頭の中でリピートさせる。あの曲は、僕が高校生の頃に流行していた、ロックバンドの曲だ。十年には満たないから、古いという評価まではいかないけれど、昨今テレビや有線放送で流れている音楽たちと比べれば、あまり人気はない。
手垢の付いた表現をするのなら、あれは僕の微かな青春だった。当時の僕は、どこにでもいる『何者かになりたい高校生』で、所謂オリジナリティや、アイデンティティとやらを探していた。何かをしなくちゃならない。自分は周りにいる大人たちのように、量産化された普通の人間にはならない。そうやって日々、鬱憤というガスで膨らんでいた僕は、親に土下座をしてギターを買ってもらい、似たような欲求不満を携えた友人を集め、バンドを結成した。
最初はコピーから始めた。
流行っていた例の曲は言うまでもなく、メンバの好きな曲を持ち寄って、高校生にとっては貴重な金と放課後を費やした。目指すは武道館。その足がかりとして、まずは文化祭ライブで、軽音楽部の連中を蹴散らす。それが伝説の始まりだ、なんて台詞を付け加えて。全員が音楽経験皆無の、独学素人集団は、その勢いだけで練習に励んだ。
……いや、励んだフリをしていた。
反骨精神と言えば聞こえの良いバンドは、それっぽい合わせや言動で悦に浸る、
だからこそ、そんな夢には必ず、弾ける瞬間が訪れる。
キッカケは、些細な提案からだった。
文化祭も差し迫ったある日。軽音楽部のライブを見に行ってやろう、なんて提案があった。誰が言い出したのかは憶えていない。思い出せないだけかもしれない。けれど、意気揚々とした空気が、僕たちの間にあったことだけは、確かに憶えている。
軽音楽部のライブは、学校から数駅離れた繁華街の、小さなライブハウスで開催された。学生イベントを軸に運営しているライブハウスで、僕たちのバンドも文化祭ライブで名を馳せた後は、そこでライブをしようと画策していた。素人たちなりに、そのくらいの作戦はあったというわけだ。
箱の中は、この高速とは違うベクトルの、汚れた空気に包まれていた。薄暗さは今の車内とあまり変わらない。フロアの照明は中途半端に設定されていて、時間潰しをする客のスマホのバックライトの方が明るかった。だからだろうか。そこに集う人々からは、ステージが輝く瞬間を待ち侘びているのだ、という雰囲気を犇々と感じた。その時点で、少なくとも僕は、何か場違いなところに来てしまったのだと、内心で薄々勘付いていた。
暑さよりも風の強さに耐えかね、車の窓を半分ほど閉める。眼球は思った以上に乾いていたみたいで、凪いだ途端に涙が滲んだ。
軽音楽部の連中が、何を演奏していたのか。ステージの照明が灯ってからの記憶は、下手に編集された動画みたいに、所々が抜け落ちている。
それが、人生で最初の大きな挫折だった。もっと努力をしようとか、もっと上手くなろうとか。数行で纏まる程度の反骨精神しか持ち合わせていなかった僕に、そこまで気持ちは燃やせなかった。きっと、他のメンバもそうだったに違いない。
自分という人間たちが持っていないモノを、彼らは持っており、
自分という人間たちが持っているモノを、彼らは全て棄てていた。
自分という人間たちが簡単に失ったモノを、彼らは守り続けており、
自分という人間たちが必死に目を背けた苦しみを、彼らは見つめていた。
覚悟さえない僕たちは、あの忌み嫌う大人たちと同じ道を、歩いていくしかないんだ。
それが不快でも、
それが憎くても、
足掻くことさえできない――、いや、しないのだから。
そんな現実に圧し潰された、僕たちは文化祭の本番を待たずに、自然と解散した。当日、ステージ出演のための呼び出しを何度もくらったけれど、誰一人として、そこへは行かなかった。当然、そのあとに誰かからバンドの話が持ち上がったこともない。時折、顔を合わせたとしても、部屋の隅にいる幽霊を示し合わせて知らんフリするように、話題には出さなかった。
そうして、ひと時の音楽活動もとい、現実逃避から得たものは、
親を説得して買ってもらった、三十万円のギターの重みと、
それを売って支払われた、十五万円分の札。
高速はビル街から、工場の建ち並ぶ地域へ入る。こんな時間でも稼働しているらしく、空へと伸びる大きな煙突は、白い煙をもくもくと吐き出していた。まるで、大きな煙草がいくつも突き刺さっているみたいで、薄気味が悪い。ここまで走ってようやく、市内の端の方だ。道程はまだまだ、三分の一にも達していない。それでも、出発時刻から考えてみれば、余裕がある。この調子なら、朝には無事に辿り着くだろう。
『……号……線下り……、山陽道……』
さっきまで風に邪魔されていたラジオだが、今度は電波のせいで途切れがちになった。勘弁してくれ、なんて思いながら、チャンネルのつまみを微調整してみる。でも、不安定なままな上、狙ったかのように肝心な情報だけが聞こえてこない。
「何だよ、もう……!」
苛立ちを追い遣るように、僕はつまみを滅茶苦茶に回す。深夜帯ということと、疲労が重なったせいだ。画面に表示されるヘルツ数が上下する度、スピーカーから聞こえてくるホワイトノイズは、蛇のようにのたうつ。車内はまるで、荒れた海と化した。だけど、信じられないことに、その行為が良かったのか、俄かにノイズが消えてクリーンになる。
「それならそれで、最初からそうしていろよ……」
誰に聞かせるでもなく、僕は悪態を吐いた。ハイウェイラジオは相変わらずの口調で、高速道路情報を流し続けているだけだ。
ハンドルを両手で握り直し、改めてラジオに耳を傾ける。それと同時に、隣の市に入ったことを示す標識が、視界の端を流れていった。
『……事故のお報せです。八号結城線、藍田IC付近にて、中央分離帯に衝突する事故がありました。現在、事故の調べを行っております。この事故の影響で、西宮PAの先まで一キロほど渋滞……』
ようやく調子が戻ってきたと思った矢先に、最悪なニュースが舞い込んできた。取引先へ行くためには、そこを必ず通らなければならない。幸い、通過するのは最低でも、ここからなら二時間先の話だ。でも、交通集中と事故の影響は、まず間違いなく受けるだろう。場合によっては、下道を使うルートも念頭に入れておく必要がある。もしそうなったら、仮眠をする時間は返上しなければならない。
それより……。
事故の起きた地名を思い返し、つい苦笑いを浮かべてしまった。
「なんだか、呪われているみたいだな」バックミラーに映る自分の顔に対して、僕は優しく声をかける。鏡の中から答は返ってこない。ただ微かに、口角の下がる感触があるだけだった。「そうだな、あれも事故だ……。何でもない、事故だったんだ」
ミラーから目を離して、前方に集中する。道は都市部から山間部へと進んでおり、照明灯はほとんどなくなっていた。頼りになるのは、ヘッドライトの明かりしかない。そいつからちょっとでも視線を動かすと、境界の曖昧な、限りなく原始に等しい闇に沈んだ風景が広がっている。唯一分かるモノは、通行者を見下ろす山の稜線くらいだ。
連続するカーブを曲がり、山を駆けていく。時計は日付を跨ごうとしていた。ハイウェイラジオは他の高速道路情報を報せているので、ひとまずは聞き流す。
カーブを曲がりきると、車のライトとは違う光が見えてきた。オレンジの柔らかい光で、この暗晦の景色の中では、どうにも異様なモノに思えてしまう。トンネルだ。山一つを穿って造られたもので、通過するのに五分以上は要する。暗い中を走るのは不安だから、とてもありがたかった。
半部だけ開けていた窓を閉めて、トンネルに侵入する。それまでは輪郭のなかった、他の通行車両たちの姿が、ライトに照らされて浮かんできた。周囲に響く走行音は、密室と化した車内で、絶叫のように聞こえてくる。高い天井には、ジェット機のエンジンみたいな換気扇が、等間隔に並んで稼働していた。いつ通っても、違法性が高い工場みたいな印象を覚えてしまう。
『……続いて、交通規制のお報せです』
トンネルに入っても、ラジオは変わらずに機能していた。多少のざらつきはあるけれど、さっきよりかはマシだ。
『現在、東雲自動車道付近で、雪が降っています』
ラジオから聞こえてきた奇妙な単語に、僕は耳を疑ってしまう。
意識がそちらへ持っていかれて、アクセルを踏む足が緩んでいたのだろう。
知らない間に減速しており、後続車にクラクションを鳴らされてしまった。
慌ててアクセルを踏み直して、僕はさっきの言葉を思い返す。
雪が降っているだって?
そんなはずはない……。
何かの間違いだ。
今は初夏で、日によっては平均気温が三十度を越えることだってある。
雹や霰ならまだしも、雪が降るなんて有り得ない。
『この悪天候の影響で、事故が多発しております。お急ぎのところ、ご迷惑をおかけしております』
「何なんだよ、こいつは……」
気味が悪くなり、液晶画面に手を伸ばし、ラジオを切ろうと操作した。けれど、カーステレオはそれを受け入れてくれず、ハイウェイラジオは止まらない。それどころか、細かく鳴り続けていたノイズも、いつの間にか止んで、さっきよりもクリアな音質になっていた。
おかしなことが起こっている。
そんな直感。
周囲を走る車をよく観察してみる。
だけど、目立って変な様子はない。
僕の車だけなのか?
不安が心臓の鼓動を早める。
このまま道を引き返したい。
それか、どこかで車を停めたい。
あまりにも奇妙なことに、巻き込まれている。
もしも僕だけだとしたら、状況をきちんと把握して、誰かに助けを求めるべきだ。
そう理解しているし、何度も避難エリアに車を遣ろうと考えた。
だけど、駄目だった。
ここで止まれば自分の役割を果たせないなんて考えが、思考の片隅にチラついていたからだ。
『また、この先の六十三キロポスト付近で、人がトラックと接触する事故がありました』
その一言で、アクセルを強く踏む。メータの針は一気に右へ振れる。速度は見慣れない値を提示しており、他の車をどんどんと追い抜いて行った。きっと、あの派手なスポーツカーと良い勝負だろう。ただでさえ揺れるおんぼろの車体は、悲鳴を上げるかのように、エンジンを唸らせた。
冗談じゃない。
こうなったら、警察にでも捕まった方がマシだ。
あるいは、このまま突っ切って、高速の出口を目指す。
それが僕に残された最善だろう。
『また、この先の八十九キロポスト付近にて、軽自動車と自転車が接触したとの一報が入りました』
誰だ?
『また、この先の二百四十三キロポスト付近で、視界を埋め尽くすほどの蝙蝠が飛んでいる、との一報が入りました』
誰がこんなラジオを流している?
『また、この先の三百七十八キロポスト付近で、輸送車から鯨の死骸が落下した、との一報が入りました』
「何が目的なんだよ!」
法定速度を超過した車は、あってはならない速さで、トンネルの出口を目前にしていた。
『これらの影響で、現在封鎖されている入口は……』
耳が削げてしまいそうなくらい、鋭い走行音の中でも、ラジオの声は淡々と聞こえてくる。
『上りの深江』
そうして、車はトンネルを出て、再び暗闇へと突っ込む。
『下りの深江』
道路を照らすモノは、ヘッドライト以外に存在しない。
『上りの墨田西』
……そう思っていると、前方の端の方に紅い光が見えた。
『下りの墨田西』
救急と警察の、ランプの光だ。
『上りの江崎』
そういえば、事故があったと先ほどラジオで言っていた。
『下りの江崎』
こんなに近い距離だっただろうか?
『上りの新城』
分からなくなる。
『下りの新城』
通り過ぎる一瞬――。
『上りの葛原』
緊急車両たちの隙間から、担架に乗せられた人の顔が見えた。
『下りの葛原』
僕のよく知る、僕が裏切った、人間。
『お急ぎのところ、ご迷惑をおかけしております』
意識は発狂寸前だった。
全身の脂が残らず染み出たかのような、べっとりとした汗が噴き出す。
どうして、彼があんなところで死んでいる?
そもそも――、
彼がそこにいるはずなどないし、いて良いはずがない。
だって彼は……、
「自殺したはずじゃないか……」
大学二年生の秋。僕と彼は友人でありながらも、一人の女の子を狙う恋敵だった。もちろん、露骨にお互いをアピールしたりはしない。表面上は――、いや、実際のところ、仲は良かった。その女の子を抜きに、二人で遊びに行ったり、飲みに行ったりもした。それでも、彼女を虎視眈々と狙うその気持ちにおいては、冷戦中のソ連とアメリカのような、ある種の緊張感を孕ませていた。
だから、あいつを出し抜いて、僕はその女の子の恋人になった。
自分で思い出しても、吐気を催してしまうほど、非常に非情な手段を使って。
「仕方なかった」
そうでもしなければ、彼女はきっと、僕には振り向いてくれなかったから。
僕ではなく、彼を選ぼうとしただろうから。
その結果として、彼は自殺した。
僕は悪くない。
何も悪くない。
自ら死を選んだだけだ。
あんなことくらいで、死んだだけだ。
そうなるなんて、予想できなかった。
「この先のことなんて、誰に分かるんだ」
そうだ。
誰にも分からない。
人生には、ずっと暗い道が延々と続いている。
僕たちは生まれてしまったからには、歩いて行かなければならない。
恋人や、夢なんて名前のランタンを携えて。
でも、ランタンの火はいつかは消えてしまう。
風に吹かれたり、隣を走る誰かの息のせいで。
簡単に。
それほどまでに、暗闇に浮かぶ炎はか弱いのだ。
だからこそ、燃やし続けるためには、
奪ってでも、自分のモノにしなければならない。
そこに生まれる自分が、
どれだけ惨めで、醜かったとしても。
生きるための正しさは、それだけしかないのだから。
時刻は日付を跨ぎ、時報が流れる。
速度メーターは、既に役割を果たしていない。
路面標示が瞬きの間に消えていく。
タイヤの擦れる音が、車体の振動となる。
きつく食いしばった歯が陥没したのか、あるいは、知らない間に唇でも噛んだのか。
口内には赤い鉄の味が、広がっていた。
『午後零時現在の、高速道路情報をお伝えします』
狂気に満ちた密室の中でも、ハイウェイラジオの音は鼓膜を揺らす。
聞きたくない。
聞きたくない。
聞きたくない!
だけど……。
『この先の、七十八万八千四百キロポスト付近にて』
淡々と、情報を続ける
まるで、必死に不安を少しでも失くそうと、母親に将来のことを尋ねる、子どものように。
『あなたの失ったモノたちが、列を成して待っています』
「はは――、なんだ、そりゃ」
笑みが零れた瞬間、視界が三百六十度回った。
頭が痛い。
腕が痛い。
脚が痛い。
胸が、痛い。
痛いのに、空虚だ。
あらゆる痛みが、雪崩れ込んできたと思った時には、
全てが終わっていた。
劈くようなクラクションが、辺りに鳴り響く。
今まで見ていた高速の路面が、フロントガラスから見える景色の上部にあった。
駄目だ。
このままじゃ、朝一番に先方へ行けない。
急がなければ……。
もしも辿り着けないなんてことになれば、
これまで必死に守り抜いた地位を、失ってしまう。
下らなくても、
退屈でも、
守ってきたモノだから……。
失うわけには、いかない。
なのに……。
意識は精神を嘲るように、薄れていく。
目が霞んで、前が見えない。
そのうち、頭の内側で鳴り続けていたであろう耳鳴りと、
クラクションの音が入り混じって、区別が付かなくなる。
僕は抗うことを止めた。
どう足掻いたところで、これが最後らしい、と悟ってしまったからだ。
目を閉じて、
息も諦める。
その最中、未だに放送を受信するステレオから、ハイウェイラジオの声が聞こえた。
『以上、高速道路情報をお伝えしました。皆様、事故にはお気を付けて』
ハイウェイラジオ:生き先 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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