ハイウェイラジオ:生き先

平山芙蓉

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 キーを回すと、低い唸り声と共にエンジンがかかる。自動で起動したタッチパネル式カーステレオの、人工的な青い光が、車内の暗い空気を切り裂く。息を吸うと、前任者から受け継がれた芳香剤の香が、鼻腔に広がった。良いとも悪いとも言い難い、嫌な香。疲れた身体には、どれも優しくない刺激だ。


 シートベルトを締めて、ヘッドライトを点ける。明かりの先には、がらんとした駐車場の様子がぼんやり浮かんだ。並んでいるのは、コピーアンドペーストで作られたような、社用車の群れだけ。いつもなら残っている、システム部の田崎の車さえない時間帯という実感が、なんだか悪い夢の中にいるような気分にさせた。僕はゆっくりとアクセルを踏み、量産型の群れから車を発進させて、会社を後にした。


 外はすっかり夜の装いで、歩道に人影はほとんどない。歩いている人間も、使い捨ての消耗品を繰り返し使った後のようなスーツを着た、サラリーマンくらいだ。きっと彼らも大変なのだろう。でも、今の僕と比べれば、まだまだハッピィな奴らだと思ってしまう。もっとも、道行く彼らも、同じような感想をこちらに向けているに違いないけれど。


 幹線道路を走り、すぐに高速へ乗った。ステレオ以外は旧式の車だから、車体はがたがたと不安に揺れている。フロントガラスの向こう。街を見守る背の高いビルたちと、そいつらの放つ光に負けて、夜空は窮屈そうに収まっていた。十分少々しか乗っていないのに、背中は汗ばみ、シャツが肌にくっついてくる。窓を半分ほど開けると、初夏の温い風に乗って、排気ガスが押し寄せてきた。芳香剤は仕事をしない。寧ろ、汚れた空気とつるんで、悪い冗談みたいな臭になった。普段ならこんな手段を取らない。エアコンの調子が悪いせいだ。暑さで苛立つよりかは、幾分かマシだろう、と自分に言い聞かせる。僕はこれから一晩中、運転をしなければならないのだから。


 長旅の序章にしては、あまりにも不穏な雰囲気に、肩が重くなる。それでも、始まってしまったものは止められない。自然と出そうになった溜息を押し返すように、コンビニ袋から買っておいた栄養剤を取り出し、一気に喉へ通す。舌の上には、糖の甘味と、スパイス特有の辛味がへばり付いていた。不味いけれど、景気づけにはちょうど良い。


 空瓶を袋に入れて、手をそのままカーステレオへ伸ばす。ディスプレイを操作してラジオモードに切り替え、周波数をハイウェイラジオに合わせる。チョイスの理由は、普通のラジオのテンションに、付いていけそうにないからだ。


 時報に続いて、チープなオープニングが短く流れた。


『午後十一時現在の、高速道路状況をお伝えします。観泥高速、上りのお報せです。鮒寺ジャンクションを付近を頭に、戸画先ランプ付近まで、約二キロ、渋滞して……』


 抑揚のない女性の声に耳を傾けながら、アクセルを更に踏み込んだ。もうすぐ世間様は大型連休に入る。僕の勤め先とは違って、大企業の方々は、旅行に帰省に……、と何日か前から有休を取り、暦の上より長く休みを取っているのだろう。渋滞だって、その影響に違いない。休めない人間からしてみれば、迷惑な話だ、とも思ってしまう。でも、社会という構造の中で、僕の身に起きた不幸など、路地裏で猫に追いかけ回される鼠みたく、些末な問題に違いない。


 こんな時間なら、家で惰眠を貪っていただろうに……。


 午後六時。


 残業もそろそろ終わりそうだった頃。


 僕の元へ、いつになく深刻な顔をした後輩がやってきて、一言。


『発注を忘れていました』


 それは、数か月前に決まった大口顧客からの依頼で、決まれば数百万円は下らない案件だった。本来なら僕か、更に上の上司が担当するはずだったけど、そろそろ任せても良い機会だろう、と後輩に回した。その時は不安などなかった。彼の力量なら、多少のミスはあれど、何とかやり遂げられると信じていた。もちろん、完全に放任していたわけでもない。相談をされれば乗っていたし、進捗報告も聞いていた。


 だけど、どうやら彼は、最初期の段階で躓いており、それを今まで隠し通していたらしい。よくよく話を聞いてみれば、ミスをしたその時ならばまだ、どうにでもなる状況だった。僕や上司だってするような、平凡なミスだからだ。ただ、大きな仕事を任されたプライドなのか、プレッシャーなのかは知らないけど、彼は嘘を吐いてしまった。そうして、雪だるま式に大きくなる事態に、いよいよどうにもできなくなり、破滅的な今日を迎えたというわけだ。


 高速を進むにつれ、ビルの高さが一回りほど低くなり、陰に隠れていた月が姿を現す。白く冷たい、欠けた陶器のような半月だった。空はそいつの独壇場で、星は一つも輝いていない。もっとも、その光だって、人々の織り成す街明かりには、遠く及んでいないのだけれど。


 後輩は、良くて大幅な減給かボーナスカット、最悪は懲戒解雇になるだろう。仕事に関して誤魔化しをしていたわけだから、恐らく後者が妥当だ。中小とはいえ、その辺は軽く済ませてくれない。言うまでもなく、責任者である僕にだって、ペナルティはある。まあ、上から言われる前に、こうして事態収拾を買って出たわけだし、先方が明日の朝イチまでに代案を持ってきてくれれば、それ次第……、とは言って貰えた。致命傷ではあるけれど、首の皮一枚繋がっているだけ、彼よりは明らかにマシだろう。


『続いて、――高速――行――情報です……』


 風のせいで飛び飛びになるラジオのボリュームを、少し上げる。渋滞にはまだ引っかかっていない。運が良いみたいだ。もっとも、新幹線に乗れてさえいれば、こんな苦労をする必要などなかったのだけれど。生憎、この連休のせいで、チケットを取れなかった。今年から、全席指定席になってしまったせいだ。それでも、先方からしてみれば、こちらの事情など知ったことではない。渋滞に引っかかったとか、新幹線が云々なんて言い訳が、通用するほど僕たちは信頼されていない。


 厄介なことに巻き込まれた、とつくづく思う。だけど、これだって仕事だ。リカバリーさえできれば、出張費はある程度、補填される。帰ったら、たっぷり寝よう。久しぶりに、ビールを飲んでみるのも良いかもしれない。……そう言い聞かせても、気持ちは簡単に上向きにはなってくれず、かえって現実が、気怠さを助長させる一方だった。


 ――どうして、そんな立ち位置で生きている?


 都市の澱んだ空気に透けた僕が、問いかけてくる。


 部下と上司に挟まれながら仕事をこなすだけの毎日。


 帰宅してからも、明日のための準備をするだけで、趣味に時間を割くことだってできない。


 そもそも趣味と呼べるモノを、入社してからこっち、丸っきり棄ててしまった。


 まるで、生活や自分のために仕事をしているのではなく、仕事のために生活をしているような日々。


 楽しみなんて、指で数える必要のないくらい、微々たるものだ。


 望んでこんな生活をしているわけではない。


 本心はいつだって、現実じぶんに対して、猜疑心を向けている。


 でも、向けているだけで、抜け出そうとはしていない。


 他人事のように、傍観しているだけ。


 きっと、ほとんどの人間がそうなのだろう。


 夜を彩る光源の中にいる人々も、肩を竦めて歩いていたサラリーマンも。


 この現実せいかつを甘んじて受け入れ、身を摺り減らしているのだ。


 そうしなければ、待っているのは緩やかな死だけだから。


『続いて、その他の高速道路情報のお報……』


 更新されるラジオに耳を傾けようとした時、バックミラーに明るい輝きがあった。眩しいな、なんて思うのも束の間。光源は後方から、隕石を彷彿とさせる勢いで、加速してくる。怪物染みたエンジンの音、怒り狂った表情のフロント、七色以上に多彩な色を放つ電装に塗れた車体。その派手さに輪をかけているのは、高速に転がる喧噪たちをかき消すほどの爆音で流れる音楽だった。


 ナイトクラブを盗んで来ました、と言わんばかりのスポーツカーは、法定速度という単語さえ置き去りにしたスピードで、僕の横を通り過ぎ、遠く彼方へと見えなくなった。


 危ない連中だ。一時は減少傾向にあったのに、最近はまた、ああいう輩が増え始めた。ルールやらマナーやらを破ってあそこまでするのは、どうかと思う反面、心の片隅には自由気ままなやり方を、羨んでいる自分もいる。


 それにしても、爆音で奴らが流していた音楽は、あの手の輩には珍しい選曲だった。


「また、流行ってるのか……?」


 一瞬だけ耳を掠めたフレーズを、頭の中でリピートさせる。あの曲は、僕が高校生の頃に流行していた、ロックバンドの曲だ。十年には満たないから、古いという評価まではいかないけれど、昨今テレビや有線放送で流れている音楽たちと比べれば、あまり人気はない。


 手垢の付いた表現をするのなら、あれは僕の微かな青春だった。当時の僕は、どこにでもいる『何者かになりたい高校生』で、所謂オリジナリティや、アイデンティティとやらを探していた。何かをしなくちゃならない。自分は周りにいる大人たちのように、量産化された普通の人間にはならない。そうやって日々、鬱憤というガスで膨らんでいた僕は、親に土下座をしてギターを買ってもらい、似たような欲求不満を携えた友人を集め、バンドを結成した。


 最初はコピーから始めた。


 流行っていた例の曲は言うまでもなく、メンバの好きな曲を持ち寄って、高校生にとっては貴重な金と放課後を費やした。目指すは武道館。その足がかりとして、まずは文化祭ライブで、軽音楽部の連中を蹴散らす。それが伝説の始まりだ、なんて台詞を付け加えて。全員が音楽経験皆無の、独学素人集団は、その勢いだけで練習に励んだ。


 ……いや、励んだフリをしていた。


 反骨精神と言えば聞こえの良いバンドは、それっぽい合わせや言動で悦に浸る、素人アマチュア未満の連中だった。昨日できなかったフレーズは、できていないままだし、良くないという指摘は、暗黙の内にタブーとして扱われていた。スタジオの終了時間が迫れば、言い聞かせるように頑張った、なんて言葉を吐き楽器を仕舞う。そこを出てからは、澱みへ辿り着くと知りながらも、流れに抗わない川面の木の葉のように、ファミレスに入って食事をする。もちろん、その間にされる音楽あるいは、バンドの話は、全体の一割にも満たない。したとしても、ほとんどが現実の苦味をすっかり濾過した、甘い夢物語ばかりだった。


 だからこそ、そんな夢には必ず、弾ける瞬間が訪れる。


 キッカケは、些細な提案からだった。


 文化祭も差し迫ったある日。軽音楽部のライブを見に行ってやろう、なんて提案があった。誰が言い出したのかは憶えていない。思い出せないだけかもしれない。けれど、意気揚々とした空気が、僕たちの間にあったことだけは、確かに憶えている。


 軽音楽部のライブは、学校から数駅離れた繁華街の、小さなライブハウスで開催された。学生イベントを軸に運営しているライブハウスで、僕たちのバンドも文化祭ライブで名を馳せた後は、そこでライブをしようと画策していた。素人たちなりに、そのくらいの作戦はあったというわけだ。


 箱の中は、この高速とは違うベクトルの、汚れた空気に包まれていた。薄暗さは今の車内とあまり変わらない。フロアの照明は中途半端に設定されていて、時間潰しをする客のスマホのバックライトの方が明るかった。だからだろうか。そこに集う人々からは、ステージが輝く瞬間を待ち侘びているのだ、という雰囲気を犇々と感じた。その時点で、少なくとも僕は、何か場違いなところに来てしまったのだと、内心で薄々勘付いていた。


 暑さよりも風の強さに耐えかね、車の窓を半分ほど閉める。眼球は思った以上に乾いていたみたいで、凪いだ途端に涙が滲んだ。


 軽音楽部の連中が、何を演奏していたのか。ステージの照明が灯ってからの記憶は、下手に編集された動画みたいに、所々が抜け落ちている。


 それが、人生で最初の大きな挫折だった。もっと努力をしようとか、もっと上手くなろうとか。数行で纏まる程度の反骨精神しか持ち合わせていなかった僕に、そこまで気持ちは燃やせなかった。きっと、他のメンバもそうだったに違いない。


 自分という人間たちが持っていないモノを、彼らは持っており、


 自分という人間たちが持っているモノを、彼らは全て棄てていた。


 自分という人間たちが簡単に失ったモノを、彼らは守り続けており、


 自分という人間たちが必死に目を背けた苦しみを、彼らは見つめていた。


 覚悟さえない僕たちは、あの忌み嫌う大人たちと同じ道を、歩いていくしかないんだ。


 それが不快でも、


 それが憎くても、


 足掻くことさえできない――、いや、のだから。


 そんな現実に圧し潰された、僕たちは文化祭の本番を待たずに、自然と解散した。当日、ステージ出演のための呼び出しを何度もくらったけれど、誰一人として、そこへは行かなかった。当然、そのあとに誰かからバンドの話が持ち上がったこともない。時折、顔を合わせたとしても、部屋の隅にいる幽霊を示し合わせて知らんフリするように、話題には出さなかった。


 そうして、ひと時の音楽活動もとい、現実逃避から得たものは、


 親を説得して買ってもらった、三十万円のギターの重みと、


 それを売って支払われた、十五万円分の札。


 高速はビル街から、工場の建ち並ぶ地域へ入る。こんな時間でも稼働しているらしく、空へと伸びる大きな煙突は、白い煙をもくもくと吐き出していた。まるで、大きな煙草がいくつも突き刺さっているみたいで、薄気味が悪い。ここまで走ってようやく、市内の端の方だ。道程はまだまだ、三分の一にも達していない。それでも、出発時刻から考えてみれば、余裕がある。この調子なら、朝には無事に辿り着くだろう。


『……号……線下り……、山陽道……』


 さっきまで風に邪魔されていたラジオだが、今度は電波のせいで途切れがちになった。勘弁してくれ、なんて思いながら、チャンネルのつまみを微調整してみる。でも、不安定なままな上、狙ったかのように肝心な情報だけが聞こえてこない。


「何だよ、もう……!」


 苛立ちを追い遣るように、僕はつまみを滅茶苦茶に回す。深夜帯ということと、疲労が重なったせいだ。画面に表示されるヘルツ数が上下する度、スピーカーから聞こえてくるホワイトノイズは、蛇のようにのたうつ。車内はまるで、荒れた海と化した。だけど、信じられないことに、その行為が良かったのか、俄かにノイズが消えてクリーンになる。


「それならそれで、最初からそうしていろよ……」


 誰に聞かせるでもなく、僕は悪態を吐いた。ハイウェイラジオは相変わらずの口調で、高速道路情報を流し続けているだけだ。


 ハンドルを両手で握り直し、改めてラジオに耳を傾ける。それと同時に、隣の市に入ったことを示す標識が、視界の端を流れていった。


『……事故のお報せです。八号結城線、藍田IC付近にて、中央分離帯に衝突する事故がありました。現在、事故の調べを行っております。この事故の影響で、西宮PAの先まで一キロほど渋滞……』


 ようやく調子が戻ってきたと思った矢先に、最悪なニュースが舞い込んできた。取引先へ行くためには、そこを必ず通らなければならない。幸い、通過するのは最低でも、ここからなら二時間先の話だ。でも、交通集中と事故の影響は、まず間違いなく受けるだろう。場合によっては、下道を使うルートも念頭に入れておく必要がある。もしそうなったら、仮眠をする時間は返上しなければならない。


 それより……。


 事故の起きた地名を思い返し、つい苦笑いを浮かべてしまった。


「なんだか、呪われているみたいだな」バックミラーに映る自分の顔に対して、僕は優しく声をかける。鏡の中から答は返ってこない。ただ微かに、口角の下がる感触があるだけだった。「そうだな、あれも事故だ……。何でもない、事故だったんだ」


 ミラーから目を離して、前方に集中する。道は都市部から山間部へと進んでおり、照明灯はほとんどなくなっていた。頼りになるのは、ヘッドライトの明かりしかない。そいつからちょっとでも視線を動かすと、境界の曖昧な、限りなく原始に等しい闇に沈んだ風景が広がっている。唯一分かるモノは、通行者を見下ろす山の稜線くらいだ。


 連続するカーブを曲がり、山を駆けていく。時計は日付を跨ごうとしていた。ハイウェイラジオは他の高速道路情報を報せているので、ひとまずは聞き流す。


 カーブを曲がりきると、車のライトとは違う光が見えてきた。オレンジの柔らかい光で、この暗晦の景色の中では、どうにも異様なモノに思えてしまう。トンネルだ。山一つを穿って造られたもので、通過するのに五分以上は要する。暗い中を走るのは不安だから、とてもありがたかった。


 半部だけ開けていた窓を閉めて、トンネルに侵入する。それまでは輪郭のなかった、他の通行車両たちの姿が、ライトに照らされて浮かんできた。周囲に響く走行音は、密室と化した車内で、絶叫のように聞こえてくる。高い天井には、ジェット機のエンジンみたいな換気扇が、等間隔に並んで稼働していた。いつ通っても、違法性が高い工場みたいな印象を覚えてしまう。


『……続いて、交通規制のお報せです』


 トンネルに入っても、ラジオは変わらずに機能していた。多少のざらつきはあるけれど、さっきよりかはマシだ。


『現在、東雲自動車道付近で、雪が降っています』


 ラジオから聞こえてきた奇妙な単語に、僕は耳を疑ってしまう。


 意識がそちらへ持っていかれて、アクセルを踏む足が緩んでいたのだろう。


 知らない間に減速しており、後続車にクラクションを鳴らされてしまった。


 慌ててアクセルを踏み直して、僕はさっきの言葉を思い返す。


 雪が降っているだって?


 そんなはずはない……。


 何かの間違いだ。


 今は初夏で、日によっては平均気温が三十度を越えることだってある。


 雹や霰ならまだしも、雪が降るなんて有り得ない。


『この悪天候の影響で、事故が多発しております。お急ぎのところ、ご迷惑をおかけしております』


「何なんだよ、こいつは……」


 気味が悪くなり、液晶画面に手を伸ばし、ラジオを切ろうと操作した。けれど、カーステレオはそれを受け入れてくれず、ハイウェイラジオは止まらない。それどころか、細かく鳴り続けていたノイズも、いつの間にか止んで、さっきよりもクリアな音質になっていた。


 おかしなことが起こっている。

 そんな直感。


 周囲を走る車をよく観察してみる。


 だけど、目立って変な様子はない。


 僕の車だけなのか?


 不安が心臓の鼓動を早める。


 このまま道を引き返したい。


 それか、どこかで車を停めたい。


 あまりにも奇妙なことに、巻き込まれている。

 

 もしも僕だけだとしたら、状況をきちんと把握して、誰かに助けを求めるべきだ。

 

 そう理解しているし、何度も避難エリアに車を遣ろうと考えた。


 だけど、駄目だった。


 ここで止まれば自分の役割を果たせないなんて考えが、思考の片隅にチラついていたからだ。


『また、この先の六十三キロポスト付近で、人がトラックと接触する事故がありました』


 その一言で、アクセルを強く踏む。メータの針は一気に右へ振れる。速度は見慣れない値を提示しており、他の車をどんどんと追い抜いて行った。きっと、あの派手なスポーツカーと良い勝負だろう。ただでさえ揺れるおんぼろの車体は、悲鳴を上げるかのように、エンジンを唸らせた。


 冗談じゃない。


 こうなったら、警察にでも捕まった方がマシだ。


 あるいは、このまま突っ切って、高速の出口を目指す。


 それが僕に残された最善だろう。


『また、この先の八十九キロポスト付近にて、軽自動車と自転車が接触したとの一報が入りました』


 誰だ?


『また、この先の二百四十三キロポスト付近で、視界を埋め尽くすほどの蝙蝠が飛んでいる、との一報が入りました』


 誰がこんなラジオを流している?


『また、この先の三百七十八キロポスト付近で、輸送車から鯨の死骸が落下した、との一報が入りました』


「何が目的なんだよ!」


 法定速度を超過した車は、あってはならない速さで、トンネルの出口を目前にしていた。


『これらの影響で、現在封鎖されている入口は……』


 耳が削げてしまいそうなくらい、鋭い走行音の中でも、ラジオの声は淡々と聞こえてくる。


『上りの深江』


 そうして、車はトンネルを出て、再び暗闇へと突っ込む。


『下りの深江』


 道路を照らすモノは、ヘッドライト以外に存在しない。


『上りの墨田西』


 ……そう思っていると、前方の端の方に紅い光が見えた。


『下りの墨田西』


 救急と警察の、ランプの光だ。


『上りの江崎』


 そういえば、事故があったと先ほどラジオで言っていた。


『下りの江崎』


 こんなに近い距離だっただろうか?


『上りの新城』


 分からなくなる。


『下りの新城』


 通り過ぎる一瞬――。


『上りの葛原』


 緊急車両たちの隙間から、担架に乗せられた人の顔が見えた。


『下りの葛原』


 僕のよく知る、僕が裏切った、人間。


『お急ぎのところ、ご迷惑をおかけしております』


 意識は発狂寸前だった。


 全身の脂が残らず染み出たかのような、べっとりとした汗が噴き出す。


 どうして、彼があんなところで死んでいる?


 そもそも――、


 彼がそこにいるはずなどないし、いて良いはずがない。


 だって彼は……、


「自殺したはずじゃないか……」


 大学二年生の秋。僕と彼は友人でありながらも、一人の女の子を狙う恋敵だった。もちろん、露骨にお互いをアピールしたりはしない。表面上は――、いや、実際のところ、仲は良かった。その女の子を抜きに、二人で遊びに行ったり、飲みに行ったりもした。それでも、彼女を虎視眈々と狙うその気持ちにおいては、冷戦中のソ連とアメリカのような、ある種の緊張感を孕ませていた。


 だから、あいつを出し抜いて、僕はその女の子の恋人になった。


 自分で思い出しても、吐気を催してしまうほど、非常に非情な手段を使って。


「仕方なかった」


 そうでもしなければ、彼女はきっと、僕には振り向いてくれなかったから。


 僕ではなく、彼を選ぼうとしただろうから。


 その結果として、彼は自殺した。


 僕は悪くない。


 何も悪くない。


 自ら死を選んだだけだ。


 あんなことくらいで、死んだだけだ。


 そうなるなんて、予想できなかった。


「この先のことなんて、誰に分かるんだ」


 そうだ。


 誰にも分からない。


 人生には、ずっと暗い道が延々と続いている。


 僕たちは生まれてしまったからには、歩いて行かなければならない。


 恋人や、夢なんて名前のランタンを携えて。


 でも、ランタンの火はいつかは消えてしまう。


 風に吹かれたり、隣を走る誰かの息のせいで。


 簡単に。


 それほどまでに、暗闇に浮かぶ炎はか弱いのだ。


 だからこそ、燃やし続けるためには、


 奪ってでも、自分のモノにしなければならない。


 そこに生まれる自分が、


 どれだけ惨めで、醜かったとしても。


 生きるための正しさは、それだけしかないのだから。


 時刻は日付を跨ぎ、時報が流れる。


 速度メーターは、既に役割を果たしていない。


 路面標示が瞬きの間に消えていく。


 タイヤの擦れる音が、車体の振動となる。


 きつく食いしばった歯が陥没したのか、あるいは、知らない間に唇でも噛んだのか。


 口内には赤い鉄の味が、広がっていた。


『午後零時現在の、高速道路情報をお伝えします』


 狂気に満ちた密室の中でも、ハイウェイラジオの音は鼓膜を揺らす。


 聞きたくない。


 聞きたくない。


 聞きたくない!


 だけど……。


『この先の、七十八万八千四百キロポスト付近にて』


 淡々と、情報を続ける彼女キャスターの声を、耳は自然と拾ってしまう。


 まるで、必死に不安を少しでも失くそうと、母親に将来のことを尋ねる、子どものように。


『あなたの失ったモノたちが、列を成して待っています』


「はは――、なんだ、そりゃ」


 笑みが零れた瞬間、視界が三百六十度回った。


 頭が痛い。


 腕が痛い。


 脚が痛い。


 胸が、痛い。


 痛いのに、空虚だ。


 あらゆる痛みが、雪崩れ込んできたと思った時には、


 全てが終わっていた。


 劈くようなクラクションが、辺りに鳴り響く。


 今まで見ていた高速の路面が、フロントガラスから見える景色の上部にあった。


 駄目だ。


 このままじゃ、朝一番に先方へ行けない。


 急がなければ……。


 もしも辿り着けないなんてことになれば、


 これまで必死に守り抜いた地位を、失ってしまう。


 下らなくても、


 退屈でも、


 守ってきたモノだから……。


 失うわけには、いかない。 


 なのに……。


 意識は精神を嘲るように、薄れていく。


 目が霞んで、前が見えない。


 そのうち、頭の内側で鳴り続けていたであろう耳鳴りと、


 クラクションの音が入り混じって、区別が付かなくなる。


 僕は抗うことを止めた。


 どう足掻いたところで、これが最後らしい、と悟ってしまったからだ。


 目を閉じて、


 息も諦める。


 その最中、未だに放送を受信するステレオから、ハイウェイラジオの声が聞こえた。


『以上、高速道路情報をお伝えしました。皆様、事故にはお気を付けて』

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ハイウェイラジオ:生き先 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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