最終話 ずっと会いたいと願っていた、『いつか、必ず』へ
――私の負け。
そう呟いて瞳を閉じ、朝の陽光を浴びる彼女の心情を、窺い知ることはできない。
だが、その目元や頬の線は柔らかく、時折見せていた孤独の影が薄くなっているのは俺にも感じ取れた。
そして不意にまぶたを開き、何度か目を瞬かせる。
「……あ」
そして零れ落ちた声は小さく微かなものだったが、彼女は寂し気な表情で空を仰ぐだけだ。
「どうした?」
「……ううん。大丈夫、後で話すよ」
「?」
俺が首を傾げる一方で、片瀬は古びたケースを少し見つめた後、左胸のポケットではなく、ショルダーバッグへ仕舞う。
「……いいのか?」
片瀬は俺の問いかけを受け、「うん」と相づちを打った後、椅子から腰を上げた。
次に指先でテーブルを優しく撫でながら、呟く。
「随分、長い間、とどまってたから。トランプは机の引き出しにでも入れておくよ。……いつか、振り返る日が来るのかもしれないけど、それはずっと先だと思うし」
そして片瀬は心を置いていた場所から、最初の一歩を踏み出す。
その足取りに迷いはなく、ローファーのつま先はゆっくりと公園の小道を進み始める。
やがて背中を向けたままの彼女へ、俺は意を決して声をかけた。
「片瀬のことを、思い出す決定打になったのは」
「……」
ぴたり、と彼女の足が止まる。
俺は心臓が強く鼓動を打っているのを実感しながら、続けた。
「『ウィルフロ』の最後、空中の投げ抜けをした瞬間の……」
片瀬は振り返らない。
その背中に強い不安と期待が滲んでいるのを感じつつ、俺は結論を告げた。
「しかめっ面だった」
「えっ?」
そうして、片瀬はこちらへ振り向く。
その意外そうな表情を見て、俺も内心で、「それは、そうだ」と思う。
「どういう……こと?」
俺は頭の中を整理し、ゆっくりと説明を始めた。
「ぼんやりと引っ掛かるものを感じたのは、屋上で100連回した日だ。集中しながら軽く顔をしかめてたのを見て、『あれ?』って思った」
片瀬は固唾を飲みながら、視線で先を促す。
「勘違いじゃないって確信したのは、『ジャック・ボックス』で最後のギミックが走った時。さすがにやり辛そうに片瀬は、しかめっ面をしてて、それを見てたら急に胸が苦しくなったんだ」
「確かに、してたかもしれないけど……」
「それは、『パンドラの家』で最後に、追い詰められた時も同じだった。その顔を見た瞬間、大事な何かを見落としているような気がした。そして思った。……もしかしたら、俺が大切にしてきた、『いつか、必ず』なのかも知れないって」
片瀬の頬にほのかな熱が滲み始め、俺も気持ちをグッと心に据えて続けた。
「でも、正直かなり混乱してたんだ。どんなに思い出そうとしても」
一旦言葉を切り、首を左右に振った後、彼女の顔を見る。
「消えない印象と、今の片瀬の面影が重ならない。……今みたいにいつも淡々として、静かな感じじゃなかった」
片瀬はもどかしそうに下唇を噛みながら、問い返してきた。
「でも、その中で、しかめっ面だけが違っていた……?」
「ああ。その時の片瀬を見ていると、ひどく懐かしい気持ちになって、ずっと会いたかった誰かのように思えた。だから」
「……?」
俺は彼女の目をまっすぐに見据え、答える。
「『ウィルフロ』で勝とうって決めた。……片瀬が俺の『いつか、必ず』なのか、勝負の中で見極めようって」
俺の言葉を聞いた片瀬は視線を逸らし、右手で左腕の肘を撫でながら、不満げに呟いた。
「だから印象が、くしゃっとしてるとか言ってたんだ……。でも、ひどいよ。人のこと、しかめっ面で覚えてるなんて。普段の顔は忘れてたくせに」
その指摘に俺は何も返答できず、言葉を詰まらせてしまう。
片瀬の主張はもっともで、七年前の出会いから、彼女自身にも心境や佇まいに変化があったということなのだろう。
勝負の瀬戸際、追い詰められた時の表情で人を判断していた俺が全面的に悪く、弁解の余地はない。
「それは……本当に悪いと思ってる。もっと早く気付きたかったって……。片瀬は時々、すごく寂しそうだったから、何かできることがあればって思ってたんだけど……」
片瀬はこちらへ視線を向けたまま、何も答えない。
鋭さを増してきた朝陽の中、頬にわずかな汗と赤みを滲ませてはいるものの、やはり何も言ってこない。
「だから、イートインで言ったこととか、手を……とかは、ちゃんとしたかったっていうか……。それが却って変なこだわりになっちゃったかもって、ずっと悩んでた」
「気持ちは分かるつもりだけど……。でもやっぱり、もっと早く、気付いて欲しかった」
「ちゃ、ちゃんと埋め合わせはしていくから……」
動揺の混じった言葉に片瀬は、「くすっ」と笑う。
「過ぎた分は別にいいよ。……大事なのはこれから」
「……分かった、約束だ」
その言葉を聞いた彼女は、瞳を閉じて頷く。
「うん、約束。……史也は守ってくれるから」
そして気が付くと、俺達は『ジャック・ボックス』後に見た桜の元へたどり着いていた。
片瀬は静かな表情で枝と葉を広げる木を見上げ、俺も思い切って、その隣に立つ。
今はまだ、その先に同じ未来を見られなくても、時間をかけてきっと、と俺は願う。
彼女は少し驚いた様子だったが、やがて小さく微笑み、肩が触れ合う寸前まで横の距離を詰めてくれた。
「そう言えば、小絵の方は今、大変みたいだぞ?」
「え?」
「あの対戦動画を見たトッププレイヤーからDMが来たり、通りすがりの中に『トリリ』の運営もいたらしくて。『再生数が、再生数がー!?』って意味不明のメッセージを寄越してきた」
片瀬は目を丸くし、少し戸惑った口調で問う。
「えっと……、よかったんだよね?」
「征士は大笑いしてたし、嬉しい悲鳴ってやつだな。……とは言え、いろんな人から目を付けられたって意味だと、俺と片瀬の方が大変な気もするが」
その発言を受けた片瀬は表情を和らげて、答えた。
「問題ないよ。どうにかしていけばいいだけじゃん。二人で」
「……そうだな。それなら何とかなりそうだ」
そして彼女は、「うん」と頷いた後、ぽつりと呟く。
「さっき言ってた、大丈夫の話だけど」
「ん?」
不意を突かれた俺の声が上擦ってしまったが、片瀬はいつも通りの口調で続ける。
「『見え』なくなったよ、ブラックジャックで負けてから」
「え?」
予想外の言葉に俺は戸惑うが、一方の片瀬は小さく微笑んで告げる。
「私に未来はもう、『見え』ない。ずっと使ってたキーホルダーが、ふっとなくなった時みたいな喪失感があるから」
「え……? ちょ、それってどういうことだ!? そ、そんなの急に言われても……!」
激しく動揺する俺の問いに彼女は、「んー」と背伸びで答えるが、その口調は晴れ晴れとしている。
「もう、必要ないんだよ。『見える』のは子供の頃からだったけど、それがハッキリしたのって、史也と別れた後だし。もう会えない、一人で生きていくんだって、未来を諦めて……。でも、心の底で誰より願い、欲してた。きっとそれが、『見えて』いた本当の原因……」
そして俺の方へ顔を向け、安心ように微笑む。
「だけど今は、再会できてよかったって、感じてるから」
「もう、無理をして未来を探す必要がない……だから、『見え』なくなったってことか? でも、そんなことで……?」
未来が、『見える』なんて破格の力が消えてしまったのか?
それは何気なく漏らした問いだったが、片瀬は悲しそうに目を伏せて答えた。
「そんなことなんて、言わないで。私は初めて、ありのままでいられる場所を見つけることができたから。そんなことなんかじゃ、ない」
その呟きがひどく痛切なものだったから、俺は苦い感情を覚え、俯いてしまった。
「す、すまん。今のは俺が悪かった……」
そう謝ると片瀬は機嫌を直したのか、「くすっ」と小さく笑って見せる。
「ううん、気にしないで。私は今、この場所から始めたいって、思ってるだけ。……そして、それが全て。よくよく考えてみれば、自分の未来を覗き見るなんて、気軽にしていいことじゃないし」
「それは……」
俺は思わず、言葉を濁してしまう。
それは片瀬と知り合い、ある時、もしわが身だったらと考えた瞬間に感じた根源的な恐怖だ。
誰も知らない三日後の夕飯すら知っていて、それを話したとしても理解されない孤独。
知らないからこそ、不安や期待を抱いて生活し、得られる喜びや悲しみがある。
普段、意識することはないが、それも大切な生きる糧の一つだ。
けれど俺や小絵、征士、家族やクラスメイト達が、当然のように持っているその『日常』を、片瀬はずっと知らなかった。
きっと誰よりも自由に見えて、誰よりもしがらみだらけだったのは、彼女だ。
いまさら、その孤独の冷たさを想像しても意味はない。
けど、だからと言って何もしないという選択肢もまた、俺にはない。
もう、ない。
俺の選びたい道は、それじゃないから。
「水帆」
俺はその名を呼び、隣に立っている彼女へ右手を差し出す。
差し伸べるではなく、差し出す。
彼女には自分の意思で、未来を選んで欲しかったから。
『見せ』られて、選ばされるのではなく、自由であるように。
水帆はこちらへ身体を向け、一度、深呼吸をした後、右手の指先を上げる。
ゆっくりとこちちらへ伸び、触れる寸前で少しためらうように、宙を泳いだ後、そっとその指先を重ねてきた。
「……ん」
その瞬間、水帆は熱を秘めた吐息を漏らし、そっと目を伏せる。
触れ合う指先は手の平に届かず、時間を経て共有する体温もささいなものだ。
けど俺はそれで充分だったから、彼女の言う通り、ここから始めればいいのだと思う。
そして、少しだけ水帆の指先へ引っ掛けるように手に力を込め、ずっと会いたいと願っていた、『いつか、必ず』へ告げた。
「ありがとう、水帆。ずっと、支えてくれて。あの出会いがあったから、俺はここまで頑張れた」
水帆は目を閉じたまま小さく、こくんと頷く。
前髪が垂れ、目元は見えないが、熱い指先に込められた力がその気持ちを伝えてくれている。
やがて上げられた顔は、初めて見る紅潮で染まり、潤んだ目尻が優しい細さを湛えていた。
ようやく俺の『日常』と水帆の『日常』が重なった気がした時、彼女は予想外のことを言い出す。
「ね、史也。勝負しない?」
「え?」
指先は繋がれたまま、悪戯っぽい口調だったが、それも「らしい」と思い、俺は笑って見せた。
「いいよ。何をする?」
「今、思い付いたのがあってさ。ルールは簡単、驚いたら史也の負け」
俺は、ふむと唸る。
「リアクション系か。うん、いいぞ。結構、ホラーゲームとかその手の映画もイケる口だからな。内心で驚いていても、声や表情に出さないくらいはできる」
「へえ。じゃあ、余裕だ?」
水帆の声には落ち着きがあり、その勝負に相当の自信を持っていることが伺えた。
「ま、そういうことだ。で、何をす――っん」
不意に訪れる脳への衝撃。
それは脳というより、感情へ直接響く強烈な刺激で、俺は何が起こったのかをすぐに理解できない。
触れ合いは一瞬で、水帆の身体が元の位置へ戻ってから、「え……?」と俺は呟き、事態を把握しようと試みる。
唇の熱はなぜか離れた後に高さを増し、名残がないからこそ、その柔らかさが甘く心を満たした。
高揚を伴う未知の心地よさと、頬をほのかに染め、唇に指先を当てる水帆の佇まいが、確かにその行為が行われたことを物語っている。
「……えっ?」
もう一度、同じ言葉を繰り返してしまい、水帆は自信を湛えた表情で、宣言する。
「私の勝ち……だね。言ったじゃん、そのていどには盛り上がってるって」
俺は震える指を唇へ手を当てるが、まったく平静でいられない。
「も、盛り上がりって……。あの言い方だと、その……」
「あ、もしかして、手を繋ぐことだと思ってた?」
「……普通、そうだと思う」
俺の苦々しい反応が面白かったのか水帆は、「くすっ」と悪戯っぽい笑みを見せた。
「子供じゃあるまいし。……やっぱり、未来なんて見えなくても問題ないね。史也を驚かすくらい、簡単だ」
「ちっくしょう……。好き勝手、言われてる気がする……」
「そうでもないよ? ……一生ものの勝負だから、それなりに覚悟はしてる」
頬に朱色を滲ませつつも、水帆の佇まいは涼し気だ。
一方の俺は熱を増す思考回路を懸命に動かし、反論する。
「そ、そう簡単には勝たせないからな? 思い通りにさせないことに関しては、自信あるし!」
「……うん、知ってる。ここ二か月で、よく。真剣に向き合って、探してくれる人だって。だから」
やがて彼女は指先を絡め直し、顔を上げて囁く。
「ありがと、史也。私を見つけてくれて。……今すごく、幸せだよ」
そして水帆は目を細め、穏やかに微笑んだ。
排出率0.5パーセントのガチャを100パーセント引く彼女に勝つ方法 Fin
排出率0.5パーセントのガチャを100パーセント引く彼女に勝つ方法 サイド @saido
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