第15話 コナサセ

 先生の部屋は、意外にもヤニ臭くなかった。しかし考えてもみれば当然のことで、先生は大学進学と同時に上京している。おそらくこの部屋も高校時代までしか使っていないのだろう。真っ当に育てば喫煙歴はないはずである。

「まだ疑問に思うことはあるんですがね」

 僕はすっかり飲み切ったコーヒーのグラスを眺めながら口を開く。

「『ひねりこ、ひねりこ、ひねりこやあ』」

 僕があの唄を口にすると、やっぱり先生の顔は歪んだ。

「……その唄は嫌いだ」

 先生は呻いた。

「お父様が亡くなる直前に口ずさんでいましたね」

 僕が問うと先生はやはり暗い顔になって「親父の真意は今も測りかねる」とつぶやいた。それから続ける。

「あれは村の産婆が死産だった時に口にする唄だ」

 死産の唄。僕の胸の内がそっと冷えた。

「客室用談話室に、その唄の資料がありました」

 僕は深堀りすることにする。

「『コナサセの唄』、そうあった」

「……お前『コナサセ』の意味知らねぇのか」

 まぁ当たり前だよな、と先生は首を捻った。

「コナサセってのは『子為させ』だ。『子を為させる』。産婆の意味だ」

 なるほど。僕は頷く。

「産婆の唄なのに死産だった時に唄うものとして伝わっているのですか」

 僕が率直な疑問を口にすると、先生はまた表情を暗くした。

「死産って言ってもあれだ。その唄は『うすごろ』だった時に唄う」

 意味が分かってきた気がした。

「産婆だって人間だ。産まれたての子供を殺す時に良心の呵責くらいある」

「それを誤魔化すために唄うってことですか」

「その意味もある。だが出産に関係した人間に『この子は生きるのに難がある子だから死んだことにする』と伝える暗号でもある。一応、この唄は隼峯村の中では単に『死産だった時に産婆が口にする唄だ』として伝わっているが、この時曽根家では『産まれてきた子が生きてはいけない運命にある』ことを暗示する唄になっている。だから村人には言うなよ」

「言う必要はないし、言う意味もないことだとは分かっています」

 先生は一瞬、黙った。

「その唄が時曽根家に伝わっているのは、うちが産婆の家系……コナサセだからだ。言うまでもないか」

 すると先生はまた目元に影を落とした。

「俺は家族が嫌いだ」

「……見ていれば分かります」

「不思議なもんだな。物事を嫌いになるのには何かしらの理由がある。でも好きになることに理由はない」

 このおじさん、恋愛の格言みたいなことを口にするんだな。

 先生は続けた。

「家に伝わる本を読むのは好きだった。だから割と早い内に、家の歴史や家業のことについては知っていた。姉さんも勘付いていたのかな。本来ならそういう知識は女系にしか伝えないのに、俺に対しては隠さなかった。『コナサセの唄』以外にも忌まわしい歌や風習は山ほどあるよ。めかけの子を秘密裏に殺すような話とか、強制的に堕胎させるような話とかな。俺は家に伝わるこのシステムを知った時、反射的にそういうのが嫌いになった」

「なるほど」

 僕は幼い先生のことを思いやる。

 家に伝わるそういう技術について聞かされた時の、複雑な気持ち。性に目覚めた頃に知る、綺麗事だけじゃない命の営み。元より男はそういうことに関してファンタジーを抱きがちである。幻想の否定は早い内の方がいいが、先生はある程度そういうのが固まってしまっていたのだろう。それが打ち破られて、少なからずショックを受けたのかもしれない。その衝撃が、先生を今も独身の立場に置かせているとしたら。無理もないような気もするし、いささか軟弱すぎるような気もするし。難しい問題だった。僕だったらどうだろう? と考えるが、やっぱりショックかもな、とも思う。これはもしかしたら女性が恋愛をする時に王子様に対して抱く幻想と近いものがあるのかもしれない。

「命に関する命題ですからね」

 僕は慰めにもならない慰めを口にする。

「深いところを脅かすもんです」

 先生が二本目の煙草に手をつけようとした。僕はそれがどんな意味を持つ行為なのか測りかねたが、しかしその時部屋のドアが強く叩かれた。先生は声を張った。

「入っていいぞ」

 すると「失礼します」の声の後に、執事の布施さんが姿を現した。彼は手短に告げた。

「登也様と千花様の姿が見えません」

 先生がぽかんと口を開けた。それからすぐに事態を理解した顔になる。

「楓花は?」

 布施さんは黙る。推して知る僕たち。

「お前、ここにいてもいいぞ」

 先生が僕にそう告げてから立ち上がる。しかし僕も立ち上がる。

「いえ、一緒に行きます」

 先生は僕を一瞥したが、すぐに納得した顔になって「無理するなよ」とだけ告げた。無理をしているのは先生の方だろうに、布施さんに導かれて部屋を出る先生の背中を、僕は速足で追いかけた。



「登也ぁ? 千花ぁ?」

 間の抜けた、女性の声。

 現実を一生懸命に否定しようとする、憐れで、悲惨な……。

 主人用の談話室。先程の、二十畳くらいはありそうな部屋の中に時曽根家の人間が集結している。利喜弥さんと里佳子さんは仲間が増えたことに対する安堵感に浸っているような顔をしていた。沙也加さんは露骨に悪意というか、ざまあみろという顔をしていた。その夫の一照さんは困り果てた顔をしていて、当の楓花さんはあの通り、夫の利一としかずさんは今にも崩壊しそうな顔をしていた。部屋の隅には、驚いた顔を隠せないゑいかさん。どうも先生は時曽根家の最後にやってきた人間ということのようだ。

「登也ぁ」

 楓花さんの声が天井に木霊する。

「千花ぁ」

「いつからいない」

 先生が布施さんに訊ねると、彼はすぐさま答えた。

「休憩に入ってから一時間も経たない内に楓花様が近くにいた女中に『登也と千花を見なかったか』と訊ねました。簡単に事情を聴いたところによると……」

 布施さんの話を簡潔にまとめると。

 楓花さんは休憩を、となった時にすぐ登也くんと千花ちゃんを連れて自室に引きこもったらしい。子供たちが狙われていることは明らか、自衛のためだったそうだ。

 だが疲れが出たのか、楓花さんはウトウトし始めた。やがて同じように利一さんも眠気に襲われたので、楓花さんが子供を寝かしつける形でベッドの中に。利一さんは非常事態にすぐ対応できるように一人がけのソファに体を埋めて寝たそうだ。この時部屋のドアに鍵はかけていたようで、楓花さんも利一さんもそのことは確認していたらしい。

 二十分ほど寝ていた頃だろうか。楓花さんがどうにも寒いことで目を覚ましたらしい。平熱でさえ体温が高い子供たちがいるのにどうして……と目をやると、二人ともいない。この時すぐに利一さんを起こしたのだが、彼も深い眠りの中にいたとかで、すぐには起きなかったそうだ。

 先生の部屋のように、楓花さんたちのいる部屋も二部屋に分かれていたらしい。寝室にいないのならリビングルームに……と、楓花さんたちは室内中を探したが見当たらず、これはいよいよ……となったところで楓花さんが今のような魂の抜けた状態になってしまったらしい。

 後に布施さんが簡単に状況を確認したところ、どうも屋敷の鍵に異変があったようだった。

 楓花さんの部屋はもちろん、屋敷中の鍵の解錠に使えるマスターキー。それは本来鍵束の最後に連なっているはずだったのが、先頭に移動していたそうである。このことからも誰かがマスターキーを盗み屋敷の中を移動していたことが明らかになった。ゑいかさんが屋敷の機能停止を命じたからか、宿直室担当の使用人たちも自室で休んでいたらしく鍵のことに気づいた人間はいなかった。

「登也と千花の捜索は?」

 先生が布施さんに訊ねると彼はすぐさま、「使用人全員を稼働して調べさせています」と報告した。先生はそれを聞くや否や目の色を変えると部屋を出ようとした。

「恵」

 ゑいかさんが一喝した。

「どこへ行くのですか」

「二人を探す」

 先生が手短に告げる。しかしゑいかさんはそれを許さなかった。

「おやめなさい」

「姉さん……」

「今、時曽根家にできることはしっかり構えることです」

 ゑいかさんは凛とした表情で告げた。

「使用人たちが見つけてくれると信じましょう。主人が慌てると使用人たちも統率が取れなくなります」

 一理ある……その通りだと僕も感じた。トップは動じてはいけない。こういう時こそ気を確かにせねば。

 楓花さんが絶望に顔を歪ませながら固まった。しかし利一さんがその肩を抱いた。

「楓花……楓花……」

 必死に宥めているようである。

「信じよう。みんなを信じよう」

 しかし楓花さんは戻らない。絶望の表情のままでいる。

 ……そうして、その顔を肯定するかのように。

「ゑいか様」

 一人の下男が部屋の戸を開けた。その顔は悲痛だった。

「登也様と千花様が……」

 そして、この時。

 時曽根楓花は二度目の発狂を、した。



 悲しみと絶望の底に沈んだ時曽根家は完全に崩壊していた。利喜弥さんは諦めたような、燃え尽きたような微笑を浮かべていたし、沙也加さんはニヤニヤと、状況を楽しんでいるような顔をしていた。楓花さんさえ涙を浮かべながらヘラヘラと笑っていて、婿養子たちは二人とも、その様子を見て恐怖に打ち震えているような顔をしていた。ゑいかさんと先生だけが、唇を噛みながらも理性を保っているように見えた。

「先生」

 僕は先生に耳打ちをした。

「調べに行きましょう」

 先生がハッとしてこちらを見る。僕はその顔に吹きかける。

「証拠が新鮮な内に、集めておくのです」

 先生は目線をゑいかさんの方に送った。彼女も僕たちのやりとりに聞き耳を立てていたのか、静かに、黙って、頷いた。

「俺は状況を調べに行く」

 氷山のように瓦解し始めた時曽根家の弟妹に対して先生が告げる。

「お前たちはここにいろ」

 それから先生は僕と布施さんに合図を出した。僕たちは彼に続いた。



「登也くんと千花ちゃんはどこで見つかったのですか」

 歩きながら。

 僕は布施さんの肩に訊ねた。彼は僕と先生の間にいて、同じように速足だった。

 布施さんは答えた。

「第三庭園に大きなしいの木があります。その根元に、お二人とも腰かけるようにして果てておりました」

「死因は分かりそうでしたか」

 布施さんは一度黙ってからつぶやいた。

「おそらく他のお三方と同じかと」

 と、なると首が……。

 僕は想像する。木の根元に腰かけて、まだ首も座らない赤子のように頭を垂らした子供たちを。

 その憐れな姿を。

「現在柊木医師が検死を行っています。その情報も後ほど」

 布施さんは、今度は先生に向かって告げた。先生は黙ってうなずいた。

 僕たちは楓花さんの部屋へと向かっていた。

 ふかふかの絨毯は、屋敷の機能が一時的に停止していたからか雪の雫を吸ってベタベタとしていた。柔らかい感触は皆無で、何だかコンビニの足ふきマットを彷彿とさせた。固い靴でその床を叩きながら歩くと、やがて僕たちは楓花さんの部屋と思しきドアが半開きになった部屋の前に来た。先生がまず、ドアを一瞥した。それからすぐに足元に目をやる。

「ドアの下に隙間」

 まるで車掌が電車のドアを確認するように声を出して確認していった。

「なぁ飯田。ドアの隙間から針金とかを入れて解錠する方法はなかったか?」

 ある。サムターン回しという。ドアの下方にある隙間から、あるいは郵便受け、あるいは覗き穴から、長い針金を入れて鍵の内側にあるつまみ、サムターンを回すミステリーの王道的解錠方法だ。

「その方法は針金を通したところに針金が擦った後が残るはずです。このドアだと……ドアの下部以外に隙間はなさそうですね」

 僕は先生の横をかすめてドアの下部、隙間を凝視する。ところどころ汚い絨毯。タイヤか何かで擦ったような黒い線の跡が目に入った。僕はふと、こんな広い屋敷のメンテナンスはどうやるのだろうと職業柄の好奇心を頭の中に浮かべた。

 ドアの足下。針金で擦ったような黒い線は、ない。

「恵様、犯人はマスターキーを使った可能性が高いです」

 そういえば。僕も先生も、失念していた。

「じゃあドアについては考えるだけ無意味ですね」

 僕はドアを開けた。

 人が使った後の乱れたベッド。一人がけのソファはそのすぐ隣に寄せられていた。僕はベッドを眺めた。ベッドメイクが寝転んだ人の足のある辺りまで崩れている……掛け布団がめくれているのはベッド向かって右側の方だけで、左の方は腰までの高さしか乱れていなかった。掛け布団が綺麗なままだ。

「子供は左の方に寝ていたみたいですね」

 僕は状況確認を声に出して行った。

「入り口から近い。その気になれば寝ている楓花さんたちを起こさずに子供を攫える」

「それが分かんねぇんだ」

 先生は唸り声を上げた。

「そう都合よく楓花と利一さんが眠るか?」

「……おそらく」

 布施さんが口を挟んだ。

「何か薬が盛られていたのかと」

「薬?」

 先生が声を上げた。布施さんは続けて申告する。

「いえ、確証はないのですが」

 しかし先生は顎をしゃくるとしゃべるよう促した。布施さんは言いにくそうに話し始めた。

「使用人の一人、田沢が間違えて千花様にお出しするココアを飲んでしまったのです。休憩後、登也様千花様行方不明の事態を受けて使用人たちが集合する際、田沢だけ遅刻しました。叱ると田沢は眠っていたようでした。おかしいのです。田沢はどちらかというと不眠の気がある人間ですし、そもそも時間に遅れるような人ではありません。当人も不思議なほど眠かったと申しておりました。で、後に楓花様の『疲れからかどうしようもなく眠かったが、まさか目の前で……』という悔恨を聞いた際、これはもしや、疲労以外の要因があったのでは……と」

「疲労以外の要因って……」

 と、僕が言い淀むと先生がつぶやいた。

「薬か? しかし睡眠薬なんて……」

 と言いかけた先生に僕は進言する。

「使用人の誰かが服用していた可能性もありますし、そうじゃなくてもアレルギー用の薬……花粉症の薬なんかですかね、あるいは抗不安薬なんかも、催眠効果があります」

 先生は頭痛をこらえるように眉間を押さえると、布施さんに指示を出した。

「屋敷の人間の服用状況について分かるか?」

「調べます」

「あ、あと」

 僕は手を挙げた。

「地下牢……あそこ、薬品が置かれているような話を伺ったのですが」

 布施さんが僕をまなざす。

「そうした薬品の中に怪しいものがないかも調べていただけましたら……」

 布施さんは頷いた。

「承知しました」

「頼んだ」

 にしても……と、先生がつぶやいた。

「また鍵のかかった部屋か」

 僕は返した。

「マスターキーがあるので密室とは言えませんよ」

「ああ、だが……」

 と、先生が言いかけた時だった。

 僕の耳が、捉えた。


 ……ひねりこ、ひねりこ、ひねりこやあ


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る