第9話 一人目
結局、静真くんの行方は分からないまま夜が明けた。
僕はといえばまぁ、子供がいなくなったとはいえ余所の子である訳だし、彼が自分の親戚の子でも、ましてや特段思い入れのある子でもなかったので、その日はぐっすり眠らせてもらった。しかし翌朝五時。僕のいる客室をノック……というか、イカれた目覚まし時計みたいにぶん殴ってくる音で目を覚ました。
何だ何だこんな朝っぱらから……そう、頭を撫で上げながらドアを開けた途端に。
「静真っ!」
砲弾みたいな勢いで一人の女性が僕を突き飛ばして部屋の中に入ってきた。僕はほとんど倒れるような形で後ろにつんのめった。何とかドアノブをつかんで体勢を立て直すと、今度は女の後ろからやってきた男に胸倉をつかまれた。
「おいっ、お前っ、静真はどこだっ」
起きがけの僕に妙な因縁をつけてきたその男こそ、時曽根沙也加の婿養子、時曽根
「静真? 静真ぁ?」
僕の部屋の中に飛び込んできて半狂乱になっている女性は時曽根沙也加だ。僕は叩き起こされて不機嫌だったので、ぐいっと一照氏の腕をつかむと、そのまま相撲の
「畜生っ!」
一照氏が懲りずに飛び掛かってくるので、僕は容赦なく股間を蹴り上げた。今度こそもんどりうつ一照氏。僕は浴衣を正すと立ち上がり、発狂している沙也加さんに声をかけた。
「一体どうしたんですか」
しかし僕の冷静な声が癇に障ったのだろう。沙也加さんは夫の一照氏よろしくつかみかかってきた。
「あんたが静真を……」
繰り返すが、朝からこんな喧噪望んでいない。ましてや女の甲高いヒステリー声なんぞ聞いていられない。
僕は強めに沙也加さんの横っ面を叩いた。頭を叩かれバランスを崩した彼女は僕の部屋にあったデスクに倒れ込んだ。僕は冷ややかな目を沙也加夫婦に向ける。
「朝っぱらから他人様の部屋に来るなり何ですかこの騒ぎは」
努めて冷静な声を出す。
「事情を説明しなさい」
すると僕の背後で丸まっていた一照氏が口を開いた。
「静真が……」
僕は彼の方を見た。
「静真がいない」
「静真」
僕は昨晩のことを思い出す。
そういえば沙也加さん、昨日の夜遅くに静真くんを探して屋敷の中をふらふらしていたっけ。
僕は頬を押さえて唖然としている沙也加さんの方を見る。彼女は口を半開きにしたままあらぬ方向を見ていたが、やがて何かが崩壊するように顔を歪め、大泣きし始めた。
正直、うるさい。
「あ、あんた……悪かった……悪かった……」
背後で一照氏が声を上げたので振り返る。彼はいくらか正気を取り戻したようだ。
「静真を……静真を見なかったか……七歳の、小学一年生の男の子だ」
「見ていない」
僕は事実を述べる。
「正直、おたくの子供たちの誰が誰か区別すらついていない」
「水色の……サテンのパジャマを着ているんだ」
一照氏が這いつくばりながら続ける。
「何でもいい。何か見なかったか。男の子の姿を見なかったか」
「見ていない」
ハッキリと告げる。僕は機嫌が悪い。
だが不親切じゃあない。僕は浴衣の紐を解くと沙也加さんの襟首をつかんで一照氏の方に突き返した。
「着替えたら捜索を手伝う。奥さんを頼む」
「ああ、ああ」
一照氏は沙也加さんをかき寄せるように抱き締めると、そのまま僕の部屋を出ていった。僕は手早く着替えを済ませた。
*
静真くんの捜索は難航した。
屋敷にいる大人全員で探した。途中出くわしていないから分からないが、多分先生も探していたことだろう。このグランデイビーハウスにいる人間は使用人から主人、そして僕のような客人に至るまで片っ端から引きずり出され、あちこち探して回るはめになった。
捜索中、いくつか客人が入ってはまずそうな部屋を見かけたが、それ以外は甲冑が置かれた部屋だったり(こういうのも孫が相続するのだろうか?)、いやに狭い、物置みたいなアトリエだったりと(ここにある油絵も?)、なかなか面白いものを見ることができた。これも取材、と言えなくもない。
屋敷中の大人が捜索に駆り出されている間、孫たちはどうしていたのかというと、一ヶ所に集められておもちゃで遊ぶよう指示されていた。部屋の入り口には女中を一名配備していた。心得ている人間なのか、時曽根家の人間が部屋の入り口で会釈をすると黙ってその場を数分立ち去って、親子水入らずの時間を邪魔しないよう気を配っていた(僕はこの様子を休憩中に見ていた)。
早朝から始まった捜索も手詰まり、いよいよ地下にある部屋を見るだけだとなった段になって、沙也加さんがまた一騒ぎ起こしていた。聞き耳を立ててみる。
「洗濯室の鍵はっ? 鍵は? 鍵はないのっ?」
「沙也加様、今鍵を探している最中でございまして……」
「鍵より静真を探しなさいよっ!」
「しかし鍵がないと旧洗濯室が……」
「じゃあ鍵を探しなさいっ!」
まぁ、夜通し探していたんだろうな。
沙也加さんの慌てぶりは尋常じゃなかった。僕は子供どころか妻もいないので分からないが、我が子というのはここまで狂えるほどかわいいものなのだろうか。これで小憎たらしいクソガキが出てきたらそれこそ僕が発狂しそうだが……まぁ、いい。
沙也加さんが暴れ回っている間に、僕は適当な書生さんを掴まえて話を聞くことにした。何でも。
地下には部屋が五つ。
一つ。地下牢。かつて精神障害者を村から隔離するために使われていたとかで、座敷牢と言うには広く、大人五人が横になって眠れるくらいはあるらしいので地下牢と呼ばれているそうだった。いきなりの物騒なワードに僕は面食らったが面白く思った。
二つ。洗濯室。これは現役の、という意味である。九台の巨大な洗濯機が屋敷中の洗濯物を回しているらしい。専用の使用人もいるとかで、アイロンがけや特殊な処理が必要な洗濯物にもしっかり対応しているのだとか。まぁ、クリーニング屋が屋敷の中に常駐しているようなものか。
三つ。食料備蓄庫。缶詰やら乾パンやら、災害時に食べられるものが屋敷の人数×十日分備蓄されているらしい。最悪陸の孤島となった場合でも少しの間凌ぐことができる、そんな環境を作っているそうだ。
四つ。旧洗濯室。二つ目に挙げた洗濯室は新設のもので、それができるより前はこの洗濯室を使っていたらしい。長年の使用であちこちガタが来ており、天井の素材が剥がれ落ちたり壁にひびが入ったりと、使用に危険が伴うとかで二十年ほど前に閉鎖されたそうだ。ここにもかつては大きな洗濯機が大量に並んでいたらしい。
五つ。地下ホール。何に使う設備を改築したものなのか、使用人たちも分かっていないらしい。ただ地下にバスケットコート二面分くらいの大きなホールが一つ。そうとだけ聞くと何だかおどろおどろしいが、実際は地下設備の中でも一番手入れが行き届いていて、大きな水銀灯も設置されているからかかなり明るく、ここで使用人同士のレクリエーション大会が開かれたりと、一番活気のある場所らしい。
屋敷中を徹底的に探し回り、いよいよ残すところはこの地下設備のみ、という段になってみんなで休憩を挟んだので、一度捜索の手が止まっている際の、束の間の混乱が先程の沙也加さんの発狂だった。この人朝からあんなに壊れてて疲れないのかな。
気になることはもう一つあった。如何にかわいい息子が行方不明になったとは言えあの慌てよう。いや、まぁ子を持つ親の気持ちはまだ分かっていないので想像するしかないのだが、あんなに気が狂うものだろうか? 裏に何かあるんじゃないか、と思ってすぐ、頭に浮かぶのがあれだった。
孫たちが相続する、時曽根家の莫大な遺産。
先生が言っていた。時曽根家は銀行よりも自分の家が持つ金庫や蔵を信用する。きっとこの家に時曽根家の財産の多くが眠っているに違いない。そしてその財産へのアクセス権を持つのがあの五人の孫だ。そんな孫の一人、そして自分の子供でもある存在がいなくなったとあれば、あの慌てようも、納得がいく。
女中たちが即席で握ったおにぎりを頬張りながら、地下設備の捜索プランを練る。まず一番手間がかかりそうな地下ホールを捜索し、その後大きい順に備蓄庫、洗濯室、地下牢と行くプランのようだが……どうも旧洗濯室の鍵が見つからないらしい。
「しかし何だって地下室になんか……」
使用人の誰かがそう独り言ちた。即座にまた誰かが応じる。
「子供ってのは思いもよらないことをするもんさ」
例えば人生が大きなオープンワールド系のゲームで、プレイアブルキャラクターが自分だとしたら、ゲームが始まったばかりのプレイヤーである子供は、むちゃくちゃなこともしたくなるだろうな……そんな理解を僕はする。だってそうだろう。例えば剣と魔法のアクションゲームだった場合、プレイヤーが初めにやることはおそらくやたらめったらに剣を振り回すことだ。
「ありました……! ありました!」
使用人の一人、大柄な中年男が頭上に鍵束を揺らしながらやってきた。どうもあれが旧洗濯室の鍵らしい。するとおにぎりで腹ごしらえをしていた一同がすっと立ち上がる。
「それじゃ、捜索再開しますか」
そうして先述のプラン通りに、静真くん探しは始められた。
*
階段を、全員で、ぞろぞろと、下りる。
この人数が通ることを想定していなかったからだろう。まるで災害時の非常階段よろしく、規則的ではあるがゆっくりとした進行だった。段差一つ下りるのでも最低五秒近く待たなければならない(数字にしてみると短いが、五秒は数えてみると長いものだ)。これなら最初から捜索の人員を決定してその人数で臨んだ方が早かったような気もするのだが、沙也加さんのあの慌てよう。人数を減らす=怠慢だと取られれば下男か女中が何人か殺されかねない。まったく、我が子の命がかかった女というのはおそろしい。
そんなこんなでようやく下りた地下室で、僕はいきなり旧洗濯室の捜索人員として割り当てられた。ところがいざ行ってみると、鍵を持った人間がまだ下りて来ていないとかでここでもまた五分弱待たされた。いい加減ため息が出てくる。
やがてやってきた鍵の男は「すみません、すみません」と誰にともなく謝ると、手にしていた鍵に何やらスプレーを吹き付け、それからすぐに雑巾で拭った。ボロボロの、赤茶けた鍵がつるりと綺麗な鍵に変身した。錆取り剤か。同じ手つきで男性は錆取りスプレーを鍵穴に吹き付け、持ってきていた細い針金を鍵穴に突っ込みガシガシと突き崩した。錆び取り剤で湿った錆がボロボロと鍵穴から落ちる。やはり随分古い設備なんだな。
鍵の男性が、綺麗になった旧洗濯室のドアをようやく開けた。と、同じタイミングで沙也加さんがふらふらとやってきてドアの中に身を投げた。何かが彼女をここに導いたのだろう。あるいは他の部屋はもう見たのか。彼女は覚束ない足でここへ来た……そして、誰よりも早く部屋に入った。
「静真は……? ねぇ、静真は……?」
女の勘か、あるいは親の直感か。
彼女のこの登場は、この後続く悲劇を飾る。
小さな、溜息。
沙也加さんが吐いたものだ。
やがてそれは変容する。
絶叫。
誰よりも先に旧洗濯室に飛び込み、その中を見た時曽根沙也加は明かりがつくなりその叫び声を上げた。獣の咆哮とはまた違う、布や紙が勢いよく割かれる時に似た甲高い不協和音。口を開けているのではない。おそらくだが食いしばっている。狭められた口から出ているのであろう悲鳴は不安と恐怖を周りにいる人間に伝染させた。そして、その恐慌の先に。
最初、それは洗濯物に見えた。丸められた布切れ、あるいはシャツ、あるいはタオル、そう見えた。
だがその生地がサテンで、しかも色が青……いや、水色だと分かると、それは徐々に、透明の水にインクが滲みるように徐々に、理解が進んだ。そして僕は共感した。共鳴した。叫びを、悲鳴を、狂気を上げた、沙也加さんの気持ちに。
旧洗濯室。壁や天井にひびが入り、朽ちかけたその部屋の真ん中に。
時曽根静真の死体があった。
不自然に曲がった……いや捻じれたその首が、僕に最初「これは布切れである」という誤解を植え付けた、確かなる犯人だった。
*
「全身打撲、頸椎損傷。死因は分かりませんが……」
捜索が悲劇に終わってから、一時間もしない内に。
村から柊木医師が招集された。彼は幼子の骸を見て、あちこち触った後、先の所見を簡潔に述べた。
「そこかしこ打ち付けています。転んだにしては傷が体全体にできている」
「殴られたってことか? 袋叩き?」
この日ようやく顔を見ることができた時曽根先生は色付きの眼鏡の奥から鋭い眼光を覗かせると柊木医師にそう訊ねた。医師は答えた。
「打撲痕は大小様々。まぁ、殴られたとも取れなくはないですが、殴ったにしては大きすぎるものもありますしね……」
それに、首。
柊木医師はそう続けた。
「首が捻じれたみたいに折れていました。打撲が先か、首が先かは精密検査をしてみないと分かりませんが、これが命取りだったのでしょう」
遠くで沙也加さんの絶叫が聞こえた。嗚咽ではない。甲高い、ホイッスルボイスを濁らせたような、まさしく絶叫。
「沙也加姉さん……」
楓花さんがそう、口を覆う。彼女はよく見てみれば、髪が短いことを除けば姉の沙也加さんにとてもよく似ていた。吊り上がった目、薄い唇。するとその横から、それらの条件にそのまま青髭を足したような顔がひょっこりと覗いた。それは口を開いた。
「子供たちは?」
時曽根家次男利喜弥氏だった。すると彼の言葉にゑいかさんが応じた。
「全員、子供部屋で遊ばせています。佐々木が傍で見ています」
佐々木、はおそらく使用人の名前だろう。しかし利喜弥氏は続けた。
「子供の顔が見たい」
全員疲弊していた。癒しを求めるのは当然の
「では子供部屋に行きますか」
ゑいかさんが続ける。
「使用人の皆さんは今から一時間、休憩をとってください。その後仕事に戻って。私たちは子供部屋へ行きましょう。あ、飯田先生は……」
「僕は談話室に」
僕だって仕事をしたい。一日のスタートは最悪だったが、しかし仕事は待ってくれない。
「飯田、後でいいか」
時曽根先生がそう、声をかけてくる。僕は片手を挙げて応じる。
「いつでも」
さぁ、そうして。
時曽根家は、グランデイビーハウスは、どうにか日常に戻ろうとしていた。
もう戻れぬとは知らずに。
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