第8話 童
「お前、ちゃっかりあの場にいやがって」
遺言の発表の後。
大広間から撤収する人の波に乗っかって歩く僕に、先生が声をかけてきた。
「しかも遺言まで聞きやがったな」
「すみません」
僕は素直に頭を下げた。すると先生が肩を落とした。
「まぁ、聞かれたところでどうこうなる内容じゃなかったけどな」
「ざっくり、金銭的財産以外のほとんどをお姉さんが相続するような印象でしたけど」
僕が簡単な所感を述べると、先生は暗い表情のままつぶやいた。
「それが悪い。この家は、まぁこんな田舎にあることからも分かるように、銀行や数値上の取引よりも自分の蔵や金庫を信用するクチでな」
ちら、と先生は隣の広間……まぁ、おそらくここに負けずとも劣らない大広間だろうが、を一瞥した。きっと宗一郎氏の面影を……父の面影を部屋の向こうに見たのだろう。
「金銭になるものだけでどえらい額がこの屋敷にはある。それらの一切を、あの子供たちが引き継ぐんだ」
先生はそのまま目線を足元に落とした。
「親父はよっぽど、俺が嫌いだったんだろうなぁ」
実際、そうとしか取れない内容だった。
金銭以外の財産は全てゑいかさんが相続し、金銭的財産は全て孫であるあの小さな子供たちが相続する。宗一郎氏の子には、特にゑいかさんを除く四人の子には遺産は一切入ってこない。まぁ、厳密に言うと利喜弥さんから下の子たちは自分の子供に二割ずつ入るので、それを上手いことちょろまかせば一時的な利得を上げることはできるが……少なくとも子供のいない先生は、宗一郎氏の恩恵を一切受けられないことになる。
「まぁ、親父は俺のことをどう思っていたのか知らねぇけどさ」
先生はぽつっと、つぶやいた。
「俺は別段、親父が憎かったわけじゃねぇんだけどな」
先生は、宗一郎氏と喧嘩別れして上京したと言っていた。
その決別に何があったのかは分からないが、しかし父君の方からのベクトルが強かったことは何となく察することができる一言だった。
僕は静かに告げた。
「最後に会えてよかったじゃないですか」
さらに続ける。
「相手はどうであれ、先生に悔いがないなら」
先生は笑った。
「そうだな」
そうして二人、大広間を離れた。
*
執筆作業のほとんどは談話室でするようにしていた。
理由の一つに、僕はスイッチのオンオフをしっかりしたい人間なので、休む場所と働く場所とは分けたい気持ちがあったからである。客室は寝る場所。談話室は仕事をする場所。こういう棲み分けが僕の仕事の効率を上げる。だから僕は愛用のタブレットPCを持って毎朝、談話室に行くとそのバーカウンター席に座ってカタカタとキーボードを叩いていた。
実際、僕がこのグランデイビーハウスにいる理由のほとんどは先生のお
そういうわけで僕は宗一郎氏の死からきっかり三日間、とても穏やかに過ごすことができた。
談話室の窓からは、母屋から通じるちょっとしたプライベートガーデンが見える。
その芝生の敷かれた小さな庭の中で、子供たちがきゃあきゃあ叫び合いながら駆け回る様子を、僕はとてもリラックスした気分で眺めていた。一、二、三、四、五、六……子供たちの頭を数えていた時だった。
「よう」
談話室の入り口に。
先生の姿が見えた。
相変わらず色付きの眼鏡はガラが悪くて妙な威圧感を放っていたが、しかし実父の死後だからだろうか。いくらか毒気が抜けているような雰囲気があった。
「飲まねぇか」
先生がバーカウンターテーブルの向こうにある棚を指差す。様々な形の、様々な酒の瓶が置かれていた。しかし日本酒の瓶は置いていなかった。あれは冷蔵管理が必要な品なので、きっと常温で置く場所にはないのだ。
「お前、何飲むんだっけ」
先生と飲むのなんて成人式の後の同窓会以来なので、お互いにどんな酒の趣味があるのか分かっていない。僕は静かに答えた。
「ウィスキーが好きですね」
先生が笑った。
「へぇ、かっこいいじゃんよ」
「好きな小説の主人公がアル中でして」
先生はまた笑った。
「何だそりゃ」
「アイラミストがありますね」
僕は酒の並んだ棚を見つめた。その左端。スコッチウィスキーの銘酒アイラミストがぽつんと置かれていた。
「あれが飲みたいです」
「らしくねぇな」
僕は首を傾げた。
「逆に僕らしい酒って何です?」
「ああいや、『らしくない』ってのは『アイラ系らしくない酒だな』って意味さ」
イギリスはスコットランドの南西にあるアイラ島で製造される系統のウィスキーをアイラ系と言う。僕が指名したアイラミストは確かにアイラ系らしくないと言われることがある。
「ジョニーウォーカーの黒ラベルが好きでして。ああいう香りのウィスキーが好きなんです」
すると先生が小さく息を吐くように笑った。
「なるほど確かにそんな風情のある酒だな」
先生はカウンターテーブルの向こうに行くと、棚からアイラミストを手に取ってテーブルにそっと置いた。それからグラスを二つ、それに氷を入れて僕に訊いてきた。
「ロックでいいか?」
「ストレートでもいけますよ」
「お前強いんだな」
「アル中に片足突っ込んでた時期がありまして」
「マジかよ」
「高校生の頃から好きだった女の子にフラれたんです」
その高校時代を一緒に過ごした先生は少しの間の後こう訊ねてきた。
「誰?」
「四組の
先生は天を仰いだ。
「ありゃいい子だったな」
先生は氷の入ったグラスを二つ、僕の前に並べた。それからアイラミストをきっかりグラスの五分の一程度の高さまで注ぐと、マドラーで三回ステアして、僕に渡してきた。
「本格的ですね」
「学生の頃バーでバイトしたことがあってな」
先生はニヤッと笑うとウィスキーをちびりと舐めた。カウンターテーブルを挟んで向かい合った僕たちは、しばらく黙ったままウィスキーを嗜んだ。
「時曽根家の男は家族運に恵まれないなんてジンクスがあってな」
唐突に先生が語りだした。
「死んだ親父も俺の爺さんと仲が悪かったらしい」
「そういう家系なんですね」
ああ、と先生が息を吐いた。
「まぁ、俺と違うところは、親父は爺さんと関係を再構築できたことだよな。俺はできなかった」
「できなかったからどうということはないですよ」
「まぁな。でも心苦しい」
僕が黙っていると、先生はさらに続けた。
「弟の利喜弥も親父が嫌いだった。だがあいつは松子さんの子だ。親父は松子さんにゾッコンだった。何せ四十以上も歳が離れてたからな」
「娘くらいの女の子にモテる中年なんて話、小説でやったらひどい評価受けますよ」
ちげぇねぇな。そう先生は笑った。
「松子さんは親父の金に興味があったんだろうな。ま、とにかく親父は松子さんが好きだった。代わりに俺や姉さんには冷たかった……姉さんには晩年にあれだけ面倒を見てもらっただけあって、評価を改めたらしいが俺にはずっと冷たいままだったな」
そうか。ゑいかさんは嫌われた状況から時曽根家の財産をほぼ独占できるまでに信用を回復させたのか。すごい対人手腕だ。僕はそう思った。
「利喜弥、沙也加、楓花は甘やかされて育った。だが松子さんが親父のことをあまりよく言わなかったんだろううな。みんなどこかで親父が嫌いでさ。親父もそれを感じ取っていたのか、興味関心は松子さんにだけで、子供たちにはあまり向いていなかった。俺と姉さんよりあの三人の方がかわいい、くらいのもんで、愛情そのものは松子さんに向いていたんだろうな」
僕は静かに先生の告白を聞いていた。特段できることはなかったが、先生の懺悔とも言うべき独り言をただただ耳に入れているだけで何かにはなる気がした。
「それでも孫はかわいかったんだろうな。だからあんな遺言を。実の子は嫌いなのに孫はかわいい。そんなアンバランスさがやっぱり、時曽根家の男だなって」
先生はまたウィスキーをちびりと舐めた。
僕は窓の外に目線を投げた。
「そのお孫さんたちが遊んでいますね」
先生も窓の外を見た。
「ああ。子供はいい。あいつらは希望だ」
「ですね」
「あの子たちがいるだけで未来が明るい気がしてくる」
お前結婚はしねぇのかよ。そう訊かれたので僕は笑う。
「今の時代そういうのはセクハラになるんですよ」
すると先生はつまらなそうにまたウィスキーを飲んだ。
「嫌な時代だな」
「昔がおおらかすぎたんです」
「昔って言うなよ。俺の生きた時間をよ」
「僕の生きてるこの時間もいずれ昔になりますよ」
にしても、と僕は続ける。
「先生の言う通りですね。子供たちを見ていると明るい気持ちになれる。先生はそういうのが好きで教師になられたんですか?」
先生は軽く笑い飛ばした。
「そんなんじゃねぇよ。就職活動が嫌で逃げたんだ。教育学系のゼミにいたから普通にやってりゃ教員免許の要件は満たせた。まぁ、実習は血反吐出るほど大変だったがおかげでお前とこうして酒が飲めるわな」
「じゃあ結果的にはいい選択でしたね」
僕は笑った。それからグラスを掲げる。
「乾杯してませんでしたね」
先生がきょとんとした。それから、破願する。
「そういやそうだっけな」
乾杯。
二人でグラスを傾けた。
*
グランデイビーハウスに浴室は十二部屋あるらしい。
大きいものから小さいもの、それから使用人専用のまで。中でも大浴場は、大正時代の時曽根家当主(多分先生の祖父に当たる人だろう)が
さすが大きいお屋敷だけあって、数十メートルおきにランドリーシューターを見かけた。最初は壁に穴があり、どうやら下に続いているらしいことは分かったのだが、何に使うのだろうと不思議に思っていた……が、穴から香る洗剤の匂いが僕を解決に導いてくれた。この穴はパイプで地下に続いていて、その先に洗濯室があるのだろう。きっとここに汚れた服なんかを放り込むと綺麗に洗濯してもらえるのだ。そういえば僕の服も洗ってもらえたりするのだろうか。後で訊いてみよう。そう思いながら一定間隔で並ぶシューターを数える。五、六十センチメートル四方の穴は何だかマンションの宅配ボックスを連想させた。並んだ口。並んだ穴。
この頃にはいくらかグランデイビーハウスの地理にも明るくなっていて、僕は特段迷うことなく部屋へ向かうことができるようになっていた。
大浴場から客室のあるフロアへ行くには一度二階へ上がってそれから一階に戻る必要があるのだが、下りの、必要最低限の照明になって薄暗くなった階段をゆっくりと、下りている時のことだった。
それは唐突に聞こえてきた。
……ひねりこ、ひねりこ、ひねりこやあ
最初微かに聞こえていたそれを、耳を澄ませて聞いた僕の、背筋を走った微量な電流を、想像してみてほしい。
温まっていた体が一気に冷める。肘や膝が冷えてぎこちない。僕はゆっくりと、階段の手すりから身を乗り出して廊下を見た。左右を見渡す。だが唄っている人間はどこにもいなかった。僕は息を止めた。
その時だった。
慌ただしい、人の動くような音が、僕の右側、階段の下、廊下から、聞こえてきた。
衣擦れ、足音、荒い息。
廊下を走ってきたのは何と、先生の妹さん、時曽根家次女の時曽根沙也加さんだった。肩までの髪を揺らして、乱して、気が狂う一歩直前の、危うい均衡の声を発している。
「静真? 静真? どこ?」
彼女の後ろからは身の回りの世話を見ているらしき女中が一人、不安げについてきていた。ふらふらと頼りない足取りで、ほとんど走るようにして動いている沙也加さんの後ろから、困ったように小さな歩幅で歩いているその女中さんに、僕は訊ねた。
「何事ですか?」
すると僕が立っている階段の一番下の段まで来ていた沙也加さんが答えた。
「静真が……静真がいないの」
「静真」
と、今日の昼に庭を駆けまわっていた男の子の顔を浮かべる。正直どれがどの子か区別がついていないが、静真くんと言えば時曽根宗一郎氏のお孫さんの一人だろう。あの中の誰かが行方不明になった、という解釈でいいのだろうか。
僕は時刻を思い浮かべる。風呂に入ったのが夜十時過ぎ。たっぷり長風呂したので今はほとんど十一時だろう。
まだ二桁にもなっていない、小さな子供が、こんな時間に一人で。
親御さんも不安にはなる。
だが目の前の沙也加さんにはそんな単純な動機以上の何かを感じた。明らかに神経が尖り過ぎていたし、何かを案じているようにも見えた。
が、僕は黙っていた。黙って沙也加さんの訴えを聞いた。
「男の子を見ませんでしたか……? 青の、水色のパジャマを着ているのですが……」
「見てません」
僕は断言した。
「僕は大浴場から帰ってきたところですが、そんな子供はどこにも……」
「静真?」
僕の返答に得られるものがないと分かるや否や、沙也加さんはその狐みたいに吊り上がった目を周囲に走らせ始めた。それからまたフラフラと、頼りない足取りで廊下の向こうを目指して歩き出す。
女中さんが会釈して僕の前を通り過ぎる。僕はその様子を黙って見ていた。
そして、ここからである。
時曽根家を……グランデイビーハウスを、あの悲惨な事件が襲ったのは。
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