第7話 遺言

 時曽根家当代当主時曽根宗一郎の命が揺れたのは僕が逗留して二日目のことだった。

 僕は客室で遅めの朝食をとっていた。冷めてはしまっていたがまだカリカリしているベーコンを、いくらかしんなりしたトーストの上に乗せて食べていると、廊下の方がどうにも騒がしいことに気づき、朝寝坊をした自分を少し恥じ入りながらも聞き耳を立てた。が、やがてそれだけでは十分に外の気配を察することができないことを悟ると、パンを片手にドアから身を乗り出し、様子を見た。すると。

 客室の並ぶ廊下には窓があり、その向こうはどうも母屋と思しき廊下の窓が見えるようになっているのだが……その窓の中で女中や下働きたちが忙しく動き回っていた。僕はだらしなく羽織っていたシャツの前を閉めて、パンとベーコンをすっかり飲み込むと、ジャケットを手に持ち、いつも持ち歩いているメモ帳とペンとをポケットに入れると、慌ただしく部屋を出た。それから、いくつかの角を曲がってこの屋敷の玄関に着くと、忙しなく動いている下働きの……というより、年齢的に学生、つまりは書生さんだろうか。を、掴まえて訊ねた。

「何かあったのかい」

 すると僕に掴まえられた、頭を綺麗に丸めた高校生くらいの男の子はしゃべった。

「旦那様が危篤で」

 僕はすぐ事態を飲み込む。先生の身がまず一に案じられた。

「時曽根恵先生は?」

「恵様含め、ご親族は今大広間に集まっています」

「大広間?」

「はい。旦那様の希望で、病室は大広間の一画を潰して作っております」

 僕は少し考えた。それからすぐ思い付きを口にする。

「君、案内してくれるかい」

「は、はぁ」

「僕は時曽根氏の死に際して、恵先生に連れられてこの屋敷に来たんだ」

 事実のみを伝える。実際先生がこの屋敷に帰ることにしたのはお父様の命が関係してのことだし、それに同行を求められた僕も全くの無関係というわけではない。

 すると……というかやはり、書生さんは誤解してくれた。

「関係者の方……なんですか。ご案内します」

 そうして、まんまと。

 僕は時曽根宗一郎の臨終の瞬間に立ち会えることとなった。



 書生さんに案内されて大広間に向かう。

 いくつ角を曲がっただろう。その角も九十度真横ではなく斜めだったり、いくつも角が重なったカーブだったりと様々で、この書生くんはよくこんな複雑な道のりを覚えていられるなと感心したくらいだった。

 リアルに五分ほど。体感だと十分くらい。ずっと歩いた先にそれはあった。まず驚いたのはその広さだ。

 都内にある立派なホテルの大宴会場並みにある広々とした畳の間。砂色の屏風には虎の絵があり、欄間には龍が彫られていた。畳も青々としていて、定期的に張り替えられていることが窺える。

 しかし時曽根宗一郎氏のベッドとやらは見当たらない。大広間にいるんじゃないのか。もしかしてこの規模でも大広間ではないのか。色んな思いが頭の中を駆け巡る。

 しかも大広間と思しき部屋はこの一つだけかと思いきや、さらに先にもう一間あり、そちらにもベッドはなかった。これもまだ大広間じゃないのか。延々と続く畳の部屋の、隣に伸びる廊下をただただ静かに歩く。

 が、やがて襖の向こうに人の気配がある部屋が近づいてきた。あれが……と思っていると、書生さんがそっと襖の前に跪いた。

「失礼いたします」

 と、書生さんが僕の方に目をやってきた。どうも僕のことをどう紹介していいか案じかねているようである。僕は素直に自分の名前を伝えた。書生さんがそれを口にする。一瞬、襖の向こうに困惑の気配が流れたが、すぐに時曽根先生の声がした。

「俺の連れだ。通してくれ」

 かくして、僕は。

 時曽根宗一郎氏の臨終の床に、同席できたのである。



「おう、おう」

 消え入りそうな声。

 顔中の毛が伸びに伸び、眉毛でさえスマホ一台分くらいは伸びたその老人は、見るも無残に、だが存在感だけはとてつもなく大きく、ベッドの中に転がっていた。なるほど、これだけ大きなお屋敷の当主ともなればこの存在感も頷ける。実際、氏の発する気配はこの大広間全体をすっぽり覆っていた……つまり、彼の前では並んでいる一族全員が塵芥のように取るに足らない存在となっていたのである。

 いや、そう言ってもいられないか。先生に連れてこられた筆者として、僕には状況を描写する義務があるように思われた。

 氏の臨終に際して、集まっていたのは以下の人物である。

 時曽根ゑいか。時曽根家長女。

 時曽根恵。時曽根家長男。

 時曽根利喜弥。時曽根家次男。

 その妻、里佳子りかこ。そしてその子、まだ五歳の幼い命、瑠香るか

 時曽根沙也加。時曽根家次女。

 その夫、一照かずてる。聞くところによると婿養子らしい。双子が一組。静真しずま動真どうま。共に七歳。

 時曽根楓花。時曽根家三女。

 その夫、利一としかず。彼も婿養子のようだ。そしてその子供、登也とうや六歳と、千花せんか四歳。

 それから数人の女中、下男、執事らしき身なりの整った人物と……四、五歳くらいの子供が一人。浴衣を着ている。どこかゑいかさんに似ているように思えた。先生から紹介がなかったが、もしかして彼女のお孫さんか何かだろうか。大人しく畳の上に座って、天井をぼんやり見上げている。

 時曽根宗一郎氏の周りには医師の柊木ひいらぎ赤司あかし氏と、看護師の伊舟いふね良子よしこさん。

 そして座敷の下座、その奥に座っているのが、羽賀はが満晴みちはる弁護士だった。

(僕がこれらの人物を把握しているのは、後に時曽根先生からご教示いただいたからであるが、複数名名前の分からない人物がいることをここに謝罪する。職務怠慢であった)

 男性にしては長い髪を、綺麗に七三に分けた羽賀弁護士は、時曽根宗一郎氏の臨終が確定路線になったからこそここにいるのだと思われた。と、いうのも人の死の、それも瀬戸際の場面において弁護士が関与する場合など、およそ遺言の公表以外に思いつかなかったからである。かわいそうに、小柄な彼はこの緊迫した空気に飲まれて微かに震えているように見えた……いや、僕からそう見えただけの話かもしれないが。

 そして、ついに。

「せんせえ……羽賀せんせえ……」

 ベッドの中の老人はしかし、その存在感とは裏腹に実に憐れな声で弁護士先生の名を呼んだ。

「わしはぁ……わしはもう……」

 掠れた、聞き取るのも難しい声で氏は臨終の言葉を告げた。

「遺言は……残した通りじゃ……一言たりとも……違えては、ならぬぞ……」

「時曽根様」

 七三分けが呻いた。

「どうかご安心を。貴方様の亡き後は、貴方様の思うように……」

「せんせえ、せんせえ」

 それはまるで、赤子のような。

「せんせえ……ああ、せんせえ」

 その「せんせえ」は果たして羽賀弁護士なのか、それとも柊木医師を示しているのか見当がつかなかったが、しかし、時曽根宗一郎氏は薄れ行く意識の中、何かを残したいという意志に駆られたのだろう。口をパクパクと……まな板の上に揚げられた鯉のように大きく、規則的に、動かした。

 やがて氏はこう告げた……こう、唄った。

「ひねりこ……ひねりこ……ひねりこ……やあ」

 座が凍り付いた。

「……ひねりこ、ひねりこ、ひねりこやあ」

 ひねりこ……。

 覚えがある。この唄、どこかで聴いた……いや、見たことがあるぞ。

 しかし記憶の本棚を引っかき回すまでもなかった。それはすぐに見つかった。そうだ。あれだ。談話室で見たあの本。『隼峯村民謡』。あれにあった唄だ。

 僕がそう、一人で合点していると、宗一郎翁の声はだんだん、小さく、小さくなっていった。それは何だか、救急車の音が遠くなっていくのに似ていた。

 ひねりこ、ひねりこ、ひねりこ、やあ……。

 そうして、声が聞こえない頃になって。

 時曽根宗一郎氏は臨終なされた。



「宗一郎氏の遺言により、当遺言状はこの場で読み上げることとなっております」

 柊木医師が死を明言した直後。

 間髪入れず、羽賀弁護士が口を開いた。

「『本遺言状の明示は吾が死の三十分以内とする』とありますので、お医者様方におかれましては現時刻より三十分以内……十一時四十三分より三十分以内ですので、十二時十三分までにですね。最低限の臨床的処置をしていただけますと幸いです」

「それじゃ足りません」

 看護師の伊舟さんが口を開いた。

「少なくとも一時間は見てもらわなくちゃ」

「ベッドを運び出そう」柊木医師。

「どなたかお手伝いいただけますか」

「あのう、遺言状の範囲に使用人は含まれますか?」

 執事と思しき身なりの老紳士がそう口を開く。羽賀弁護士が応じる。

「いえ。ですので、使用人の皆様方におかれましては柊木医師のお手伝いをしていただけると」

「……よし。棚木、吉井。柊木医師を手伝え。三田と伊藤は隣室の準備を」

 はい。

 使用人たちが動き出す。その様子を、六人の幼子たちが緊張した面持ちで見つめていた。

 やがて宗一郎氏のベッドが運び出され、広間にいるのが羽賀弁護士と時曽根家の一族(……と、僕)だけになると、重たい空気が流れた。

 が、それをすぐに羽賀弁護士が粉砕した。

「ご遺言を読み上げます」

 弁護士の手には綺麗に畳まれた遺言状があった。

「一、金銭的財産の分与について」

 弁護士は続けていく。

「未来に寄付せんと、金銭、及び金銭に替え得る美術品、骨董品の類の一切は孫に相続させる。孫より上、孫より下にその権利は在らず。子はそれらを管理、運用し、孫の将来のために用いざるべからず」

 途端に空気が泡立った。いや……沸騰した。その場にいた大人全員が口を開いた。

「孫……つまり、瑠香たちってことか?」

 こう発したのは次男の利喜弥氏だった。

「『子』が私たちを指すならそうでしょうね」

 ゑいかさんが静かに告げる。

「その先は? まだあるでしょう?」

 こうつぶやいたのは次女の沙也加さんだった。

 弁護士先生が一度目線をこちらに投げてから続ける。

「遺産の相続権は瑠香、静真、動真、登也、千花の順で有せざるべからず。しかしながらその分配は瑠香に二割、静真に二割、動真に二割、登也に二割、千花に二割とする。やむを得ない場合において孫のいずれかが権利を放棄する場合、右記順序の相続権にて再度遺産を分配せざるべからず」

 またも場が沸いた。

「やっぱりこの子たちに?」

「孫の中でも順序をつけるのか」

「権利を放棄する場合って何?」

 利喜弥さんの妻、里佳子さんが子供たちを……まだ年齢が二桁にも達していない子供たちを見つめた。すぐに三女の楓花さんが続いた。

「この子たちなんてまだ赤ちゃんみたいなものよ? それなのに、時曽根家の財産を?」

 しかし羽賀弁護士はその言を打ち付けるようにこう続けた。

「回避しがたき理由により孫の全員に相続権が発生せざる場合は長女ゑいか、長男恵、次女沙也加、次男利喜弥、三女楓花の順で相続権を有す」

「はは」

 そう笑ったのは先生……時曽根恵だった。

「親父らしいぜ。女系優先か。いや、時曽根家らしい、と言うべきか」

「二、時曽根家の保有する事業の経営について」

 羽賀弁護士が続ける。

「事業の経営権、及びその責任の一切は長女、ゑいかが持たざるべからず。やむを得ずゑいかが権利を放棄する場合は、ゑいかの一存にて後継者を指定せざるべからず」

 これには特に空気の反応はなかった。

 弁護士は続ける。

「三、時曽根家の所有する土地について。時曽根家所在グランデイビーハウス及び周辺の山林、またはそれに所在する建築物については、その一切の管理を長女、ゑいかが執り行うものとする。もし、ゑいかが権利を放棄する場合は、第二条同様、ゑいかの判断にて後継者を……」

 それから、弁護士はいくつもの遺言を時曽根家の一族に告げていった。

 が、続く如何なる条文も、最初に出てきた文言以上のインパクトを持たなかった。

 残された一族はただ静かに、静かに羽賀弁護士の発表する遺言の内容を耳に入れ、頭に刻み続けた。

 風の凪いだ沼の水面のように、何も動かぬ昼だった。

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