第5話 家長
「どうぞごゆっくり。後ほど女中にお部屋を案内させます。飯田先生、たっぷりおもてなししたいのですが、こんな折ですのであまりお構いできず……」
「いえいえ、急にやってきたこちらが悪いので、どうぞお構いなく」
僕も一礼する。
「恵。一息ついたら私の部屋に来て頂戴。お父様のことについてお話するわ」
「そのことなんだが、姉さん」
先生は急に表情を曇らせた。
「この期に及んであれなんだが、俺、来てよかったのかな」
するとゑいかさんはすっと唇を結んだ。
「自分に会いに来た子供を歓迎しない親なんていません」
それからゑいかさんは数歩進んでその場にしゃがみ、ソファに腰を落としている先生の顔を覗き込むような格好になると、そっとその手を取った。
「私がいるから大丈夫。本当はもっと早く帰ってきてほしかったくらいよ」
あなたにはあなたの生活があるから、今まで言えませんでしたけど。
ゑいかさんはそう締め括ってから立ち上がり、僕に一礼した。
「すみません、お見苦しく……」
「いえいえ。大変な折ですから。むしろこんなタイミングにすみません」
日本人らしくお互いにぺこぺこ頭を下げ合う。ゑいかさんは小さく笑った。
「恵も人をお土産にするなんて失礼なこと」
「でも姉さんは喜んだだろ」
「……ええ」
それからゑいかさんは部屋を出る時に、また僕に一礼した。ドアを閉める間際、先生の方に向かって「後でね」と笑うとその場を去った。
「さて」
先生はぐいっと膝を押し込むように居住まいを正すと、僕にこう話し始めた。
「まぁ、家族の臨終に呼んでおいて何も説明なし、じゃ誠意に欠けるな。俺の家族の話をさせてくれ。少々込み入った家族構成だから覚え甲斐があるぞ」
それから先生は、僕に時曽根家の話をしてくれた。
時曽根家現家長、時曽根
一人。長女、時曽根ゑいか。御年六十五歳。宗一郎が三十二、初が十九の時の子である。
二人。長男、時曽根
初はその後、先生が十二歳の時に肺炎で亡くなっている。四十六歳の儚い命だった。
その二年後に父宗一郎は二人目の妻、
四人目の
五人目、
当然ながら僕は松子さんの子供との方が年齢も近く親近感が湧く。親近感と言っても駅でたまに見かけるサラリーマンよりも少し高い程度のことだが、まぁ、これからお邪魔する家族に親しみが持てそうな点は評価すべきである。
「先生がこの家を飛び出した理由は?」
僕が静かに訊ねると先生は小さく笑って、「親父と折り合いが悪くてな」とだけ答えた。まぁ、必要以上に突っ込む理由もないので僕は黙って目線を逸らした。
「姉さんの手紙では、親父はこの二、三年調子が悪かったみたいでな」
先生の声にはどこか、寂しそうな雰囲気があるように感じられた。
「頭の方はしっかりしていたそうだが、体がもうボロボロらしい。その頭の方も、この数カ月服用する薬が強くなったとかでもうハッキリしないそうだ」
「それは……」
僕は言葉に困る。こういう場合、目上の人にかけるべき言葉を僕は知らない。小説家のくせに。作家のくせに。
しかし先生はそんな僕を気遣うように口を開く。
「時間があるなら隼峯村を歩き回ってみるといい。かつてイギリス人が逗留にきた関係で、村のあちこちに異国情緒があるぞ」
「風車なんか、いいものでしたね」
僕は素直な感想を述べる。
「あれはやはり小麦か何か、穀物を挽くのに使っているのですか」
「さぁ、俺はあれが何に使われていたのか知らねぇが……」
今更になって、僕は「挽く」という言葉の残忍性について気づく。うすごろ。グランデイビーハウス。
「風車だけじゃねぇ。村の川にかかる橋や、民家なんかもそうだな。レンガ造りの家とかもあるぞ。日本の寒村には珍しいんじゃねぇか」
と、つぶやいてから先生は思いついたように口を開いた。
「ああ、そうだ。この村の西にある
すると先生は僕の顔をすっと覗き込んできた。色付きの眼鏡が相変わらずガラが悪く、僕は何だかやくざにでも凄まれているような気分になった。
「あの洞窟には勝手に入るな。入るなら村の誰かと入れ。余所者が……余所者なんて言い方も悪いがな、まぁとにかく、村の外部の人間がやすやすと入っていい場所じゃない。気をつけろ。いいな」
「分かりました」
僕は素直に頷く。が、少しの沈黙の後訊ねる。
「何かが祀られている洞窟なんですか?」
すると先生もちょっと黙ってから答えた。
「水子供養の祠だ」
水子。死産。
この言葉はそもそも死んだ胎児の他にも乳児期幼児期に死亡した子供にも使われる。それ専用の祠があるということは、やはり……この村には子供の死にまつわる暗い影がある。
「神聖な祠でな。厳密にいうなら男子禁制だ。過激な思想だと経産婦しか入っちゃいけないなんて思っている村人もいる。まぁ、俺たち時曽根家とは縁が深い祠だから、最悪この家の誰かを連れていけばお前の仕事上の『取材』もできなくはない」
だから必要なら、俺に言え。
先生はそうつぶやいてから、また視線を脇に逸らした。同じタイミングでドアがノックされた。
「お茶をお持ちしました」
女中さんがポットとカップを乗せたトレイを持って現れた。彼女は目線を伏せ、僕たちと一切目を合わせることなくそれらをローテーブルの上に置くと、そのまま一礼してこの部屋を去った。すると先生がつぶやいた。
「今の子は知らない奴だったな」
そうか。先生は昔この家に住んでいたのだから、雇い人の顔と名前はある程度分かるのか。
「俺が家出してから雇った女中なのかもな」
そうつぶやいた先生の声はやっぱりどこか寂しそうで、僕は「先生はわざわざ苦しむために帰郷したのだろうか」と不思議な気持ちになった。もしかして先生が僕を連れていきたがったのは、教え子だが妙に親しみのある人間を連れていくことで……都会での生活の一部を連れていくことで、この寒村を包んでいる陰気な気配から身を守り、正気を保とうとしていたからかも、しれない。
少しの間お茶を楽しんだ。香りの高いアールグレイだった。奇遇にも僕は紅茶ならアールグレイが一番好きだった。ゆっくり喫していると、再びドアがノックされた。
「お客様……」
やや高齢の女中がドアの隙間から身を覗かせる。先生が口を開いた。
「ミヨちゃん」
しかし女中は目を伏せたまま続ける。どことなく子犬を連想させるかわいらしい女性だったが、表情は暗かった。
「お客様をお部屋にご案内するよう言われて参りました」
「ミヨちゃん……」
全く相手にされないことにショックを受けたのか、先生は目に見えて落ち込んだ。僕は先生に訊ねた。
「親しい方なのですか」
「昔は一緒に遊んだもんなんだが……」
「恵様」
と、女中のミヨちゃんがつぶやいた。
「ようこそお帰りくださいました」
「そんな言葉づかいやめろよ」
するとミヨちゃんは、一瞬迷うような顔をすると、すぐに先生の顔を見つめてこう告げた。
「ご主人様はもう長くないわ」
それは砕けた、親しみのある口調だった。
「ああ」
先生は頷いた。
「だから会いに来た」
「来ない方がよかったわ」
「さっきは『ようこそ』なんて言ったのにか?」
「そういうもんでしょ。でも私の本心は違うの」
こうして親しい間柄、ということはミヨちゃんの方も五十そこそこだろう。皺の刻まれた顔はどこか不安げで、僕は二人の間を流れる妙な空気を肌で感じた。ミヨちゃんが口を開いた。
「ご主人様の危篤から、妙なことが多くて」
「妙なこと?」
先生が訊ねる。するとミヨちゃんが口を開く。
「うん。何かお屋敷中で……」
「お
急に、ドアの向こうから冷たい声がした。ミヨちゃんがハッと息を呑む。するとドアの隙間に、濃い灰色の着物が見えた。ゑいかさんか……ゑいかさんだろうか。
先程まで僕に対して好意的だった印象の女性の、仄かに暗い言葉の影に、僕は戦慄せざるを得なかった。
「お美代。あなた仕事は?」
ゑいかさん……と思しき女性の、冷たく厳しい声。
「大変失礼いたしました」
丁寧に頭を下げるミヨちゃん。
「お客様。お部屋までご案内します」
「あ、ああ」
僕は静かに頷くと紅茶の最後の一口を飲んで立ち上がった。手にしたカバンが妙に重い、そんな気がした。
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