誇りの象徴のようなものの名前を嫌いと言われても、嫌な顔一つされないのも、なんだか複雑というか居心地悪い気がするな。時曽根先生にはどうってことないことかもしれないけど。
前話で魯迅の『故郷』を思い出したけど、よく考えてみれば現代日本では、炎上もののやり取りだったんですよね。『故郷』のような希望もなさそうなくらい閉鎖的で、救いのなさそうな雰囲気が漂ってますね。
村だけで完結してるぶんには平穏なところに、完全に外部の飯田先生がやってきちゃったのかぁ。何も起こらないわけがない。
作者からの返信
ちぐはぐな雰囲気、感じてくれたなら嬉しい。ゑいかさんは時曽根先生のことを受け入れているからどんな態度とられても平気だけど、自分が大事にしているものは譲らないというか。またはどんな先生も「かわいい」と思っているとか。この気持ちが噛み合ってない感じ、伝わってるなら嬉しいなぁ。
魯迅の『故郷』、名作だよね。大人になったからこその寂寞、社会性ができてしまったからこそ乖離が起こってしまう。確かに、隼峯村の中の雰囲気では余計に閉鎖的に感じるかもね。
この寒村に、飯田先生の落とした波紋がどう広がるか。あるいは、時曽根先生の父親の死がどんな波及効果を生むか。
引き続き楽しんでもらえたら嬉しいなぁ。
当時の個人の屋敷で電話があるって、珍しい気がしますね。
やたらと長い廊下。何かどこかに隠し部屋とかありそう。
そしてグランデイビーハウスの名の由来がなかなかですね。
生まれたばかりの赤ちゃんを殺す方法はいくらでもあると思うんですが、わざわざ臼を使うことには何か理由があるのでしょうか。東北地方の風習。場所的なこと(気候とか)が関係しているとか……?
>助産の仕事の中でも特に良心と技巧が試される『うすごろ』が世界に認知された。これは嬉しいことでございましょう?
このセリフ、ゾッとしました。
奇形児を間引くのは仕方ないとしても、ゑいかさんはそれを良い事として誇りに思っているんですね。
作者からの返信
当時の基準で考えると、電話室があるお家ってかなり裕福ですよね。推して知るべし時曽根家の繁栄具合。
臼殺《うすごろ》と座敷童の関連性については民俗学者の佐々木喜善さんが研究してるので、よろしければそちらもぜひ。Wikipediaにも載っていると思います。
これについては一応個人的な解釈を入れて作中で触れるつもりですので、気が向いたらお付き合いください。すずめさんの意見も聞いてみたいです。
時曽根先生の良心と、ゑいかさんの歪んだ認識との(仕事への忠誠心故の、ですが)対比を書きたかったので、このセリフが刺さったなら嬉しいです。
障害児は「産まれる前に対処する」or「産まれてからも幸せに生きられるよう努力する」の二元論がありますよね。ゑいかさんは前者だったようです。「産まれる前に対処する」は命への冒涜なような気もしますし、「産まれてからも幸せに生きられるよう努力する」は障害の程度によっては理想が高すぎてついていける人間が少ないかもしれません。
この議論は未だ世界各地で議論を呼んでいるので、根深い問題かな、と思います。命についてですからね。簡単には結論が出ない。
中庸を行くべきかなとは思いますが、ちゅうぶらりんは定義が難しく範囲も広いからどうしても議論が生まれる。
なんて、書きながら色々思った回でした……(長くなりすみません)。
ひえーなんと恐ろしい…
けど、そのような話は世界中でよくあるよね……なんで駆け落ち後によく生まれるようになったんだろう…気になる……
作者からの返信
まだ障害者への理解やサポートが充実してない世界だからね。産まれた時から「この子は苦労する」と分かってたら生きながらえさせない方がいいこともある、という感覚なのかな。確かにいろんなところで聞く話。
駆け落ちの後に産まれるようになった理由、特に深くは設定してないけど、強いて言うならこの物語の結末にある「とある行為」が文化的に根付いていたのかもな。そういう読み方はできる。
寒村はさ、人の流れが悪いから同じ人がずっと村に残り続けるのよね。となるとみんな親戚になっていくというかさ。そんなところあるよね。
さてさて、ちょっとダークな本作、楽しんでもらえますように。