本編

第1話 時曽根先生

 遠野の奥地にある。早池峰はやちね山の近く、神社の南西にあるそうだ。

 僕が時曽根ときそねめぐみ先生にお声がけいただいたのは、十月が終わり十一月に入ってすぐのことで、まだ秋雨前線は明け切っていなかった。よって先生の訪問も雨の日のことだった。雪が降るには少し早かったが、しかし身を切るような寒さを連れてきた雨だった。朝にはパラパラ降る程度だったのが、先生が来る頃にはバッサリ篠つく大雨に変わっていた。

「おう飯田。久しぶりだな」

 先生は僕が高校時代にお世話になった御人なのだが、当時から髭面にサングラスという出立ちで周囲の生徒を怖がらせていたものだった。今もその強面具合は健在、相変わらずガラが悪かった。悪天候の中ということもあり、妙な迫力というか、変なものを持ち込んできたぞ、という感が強かった。

 そして実際、厄介ごとだった。

隼峯村はやみねむら……?」

 初めて聞く村名だった。いや、まぁ、そこら辺の村に聞き覚えがある方がおかしかろうが、しかし、ピンとも来ない村、というのは存在するものだ。何県に存在するのかどころか、どの地方に存在するのかも分からない。強いて言えば「峯」の字が入るので山間の村であろうことは予測できた。だが、その程度だ。

「まぁ、知らねぇ村だよな」

 先生は笑った。

「遠野の奥地、早池峰山の近く、早池峰神社からは南西の位置にある。俺の生家があるんだ」

「はぁ」

「こんなんだが俺、長男でな」

「はい」

「この度親父が……」

「ご愁傷様です」

 言い切らないうちに僕は返す。こういう暗い話は嫌いだ。

「遺産問題が発生した」

「それは難儀な」

 僕は最近ハマっているルイボスティーを勧めながら話を聞いた。先生はお土産のチョコ菓子を僕に勧めながら話した。

「いや俺、実は勘当されててよぉ」

「何やらかしたんですか」

「いや何、家を継がないで東京に出ていくって言ったら『お前とはもう親でも子でもない』だよ。実際神奈川に来てるんだから世話ねぇが……」

「ご実家は何を生業に?」

「主に農業だなぁ。酒蔵なんかもいくつか持ってて、日本酒の商売もしてるんだが」

 白文はくふって知ってるか? と訊かれた。知ってる。赤武あかぶと並ぶ、岩手県の有名な日本酒だ。僕が大学に入る頃だろうか、ヨーロッパで開かれたアジアグルメコンテストの優勝チームが食前酒として使っていたことで脚光を浴びて以来、海外でも人気を得たような話を聞いたことがある。そんなこともあってかヨーロッパの、それも日本の文化があまり知られていない地方では「rice wine」と言うと白文のことを指すらしい。

「あれ作ってるのウチ」

「はぁ、それは……」

 なかなかに、儲けていそうな。そもそも日本の市場だけでもかなりのシェアを得ているし。

 そんな御家の遺産相続ともなれば大変だろう。

 しかし、どうして僕が時曽根家の遺産問題に駆り出されなければならないのだろう? 

 そのことを素直に、そしてなるべく嫌味にならないように訊いたところ、先生は「お前作家だろ? 『先生』じゃん。『先生』と名のつく人間連れていきゃあ、勘当された俺の扱いも多少マイルドになるかなって」と返してきた。僕は先生に白い目を向けた。

「どうせ他にも何かあるんでしょう」

 大体「先生」がつけばいいのならこの人だって教師だ。

 すると先生はすぐ白状した。

「姉さんがな、お前のファンで」

 どうも先生にはお姉様がいたらしい。

「俺に代わって家のことは何でもやってくれている御人だ。俺も尊敬している。俺が親父と勘当された後も半年に一回は手紙のやり取りをしててな」

 先生は意外とお姉ちゃんっ子、というわけか? こんな強面じいさんにそんな属性つけられてもな、とは思うが……。

「姉さんもとっくに還暦迎えてるからなぁ。何か楽しみを作ってやりたくて」

「とっくに還暦迎えてるって、先生おいくつでしたっけ」

「ちょうど五十だが?」

「十歳差?」

「十五だな」

 もっとすごいんだが。

「まぁ、その辺の家庭事情は複雑でよぉ」

「説明してくださいよ」

「まぁ、追々な。それよりまずは目の前のことだ。お前来てくれんのか?」

 目の前のこと。

 その言葉で僕はふと思考が止まる。

 ――目の前のことをやり切れねぇ奴に、将来のことを語る資格はねぇわな。

 記憶の奥から光が差し込んでくる。僕は鮮明にあの時のことを思い出せる。

 小説家になりたいという夢に先走りすぎるあまり、学業を疎かにし、大学進学を無為に捨てようとしていた僕のことを。

 そんな僕を良き方向に導き、僕の人生に新しい道を……正しい道を示してくれた先生のことを。

「どれくらい滞在するんですか」

 まぁ、一日二日は拘束されるだろう。そう思って訊ねたのだが。

「短く見積もって二週間、いや十日くらいかな。もっと長くなりそうなら途中で帰る」

「十日?」

「まだ死んでねーんだ」

 早まったな。どうもお父様は生きているらしい。

「三日後の土曜日に立つ。行けるか?」

「急な話ですね……まぁ、パソコンさえあればあっちでも書けるでしょうし、無理ではな……書けますよね?」

「手配しておくよ」

「〆切近いものはクリアしてあるんで、最悪書けなくてもいいっちゃいいんですが、手配していただけるならそっちの方がありがたいです」

「じゃあ、決まりでいいな」

「交通手段は?」

「それも手配しとく」

 これにはありがたく甘えよう。

「お願いします」

 かくして、僕は隼峯村へと旅立つこととなった。


幸田こうだ一路いちろは認めない』

 僕が書いている推理小説だ。民俗学者幸田一路が、フィールドワークや研究で出くわす様々な幻想的ミステリーを、民俗学的知識と度胸とハッタリで解決していくというようなあらすじの作品だ。実はこの度本作、初めての大長編を書いてみてはどうだというオファーが来ていた。それも映画化を見据えたかなり大規模な企画だ。

 民俗学の話を書くなら、ということで、僕にはやってみたかったことが一つ、あった。

 この手の話にある程度詳しければ……そして日本という風土に多少なりとも関心を持っている人間ならば、民俗学、と聞けば柳田やなぎだ國男くにおを真っ先に思い浮かべるだろう。民俗学の第一人者にして開拓者。この学問は彼が生んだと言っても過言ではない。

 そんな柳田國男と言えば『遠野物語』である。柳田國男を知らなくてもこの本の名前くらいは聞いたことがある人もいるのではないだろうか? 岩手県の地元に伝わる伝承や怪奇譚などを集めて体系的にまとめた本。その収集先となった地、遠野。そう、遠野は民俗学のメッカなのだ。

 そしてその遠野と言えば、誰もが知っているあの妖怪の聖地であることでも知られている。

 その妖怪がいると家に富と財と幸福がもたらされるらしい。

 おどろおどろしい見た目をしておらず、かわいらしい、愛くるしい、とも取れるそうだ。

 いたずらが好きで、大人たちを困らせ、子供たちとよく遊ぶ。

 何人かの子供がうちに来ていて、お菓子とお茶をあげたら、どうにも一人分足りない、なんてことがままある。

 そう、あの妖怪児童、〈座敷童〉の伝承地、聖地なのである。

童座わらべざの怪 ~幸田一路フィールドワーク~』

 仮題はこんな、ところだろうか。

 何だかパッとしないタイトルだが、僕は何度も何度も考案と見直しを重ねてブラッシュアップしていくスタイルをとる作家である(とある先輩女性作家に倣ってのことだが、その話はまたいずれ)。

 叩き台としては、十分だろう。

 何より大事なのは中身である。

 さて、これは時曽根先生の……時曽根家の物語でもある。

 岩手県、遠野市、隼峯村。

 そこで僕が体験した、奇妙で、不気味で、おそろしい話。

 ああ、この後に遭遇したあの事件ほど凄惨な事件を、僕は後にも先にも、まったく、知らない。

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