第19話 決着(4)―紅蓮の恋〈1〉

リチャード・ホフマン――10歳の春。

近所のスイミングスクールに入った彼に、人生を変える転機が訪れる。

それは、雷にも似た衝撃だった。

刹那の間に、彼の脳天から足の先までを撃ち抜いたそれが、恋だと気づくのに時間はいらなかった。

心地よい痛みと苦味が、彼の胸を締め付ける。

俺はなんて幸せなのか。

こんなにも苦しくて嬉しいのは、生まれてこの方、初めてだ。

初恋の人の名はイヴリン・アイザック。23歳の、スイミングスクールのコーチであった。

競泳水着という装いの都合上、その締まった肉体は素人のリチャードからしても一目瞭然。その体を手に入れる為の並々ならぬ努力が想像できる程であった。生まれついての金髪が、塩素のせいで痛み脱色されかかっていたが、それも当時の彼からすれば艶めかしく思えた。

少年期から青年期。そこに位置する彼らが抱く〈好意〉は、時として〈性欲〉と混同される。相手が水着姿ならば尚のこと。

だが、リチャードにはもはや彼女しか見えていなかった。誰が見ても明らかな純愛であった。

イヴリンの勤務日は毎週月曜日から木曜日、それから日曜日。リチャードは親に頼み込み、イヴリンのいる日を全てスイミングスクールに行くことになる。

初恋の熱。

それが冷めることはなく、リチャードの頭の中には常に彼女がいた。

優しく手取り足取り教えてくれる姿。

水中でふざけていると厳しく叱られるのだが、その叱り方も不慣れで愛おしく思えた。

いつも〈想い〉を伝えようと思うのだが、俺みたいな子供――と諦めて帰宅。そんな生活が5年は続いた。

時は立ちリチャード・ホフマンは15歳になった。イヴリンも28歳だ。そろそろ彼氏ができても――否、結婚してもおかしくない歳だ。

イヴリンは変わらず初心者コースのコーチ。一方、リチャードは上級者コースの課程も終え、強化選手育成コースへと入っていた。

受付やプールサイドで会った時には挨拶をしてくれるが、きっとイヴリンは俺のことを見ていない。数多くいる子供の一人、程度の認識だろう。

リチャード・ホフマン――16歳の夏。

人生の転機が再び訪れる。

大会を2日後に控えた木曜日。彼はスイミングスクールの営業終了ギリギリまで練習をしていた。時刻は午後8時30分。あと30分で閉業の為、これをラストの泳ぎにしよう――そう思っていた。

飛び込み台に上がる。種目は100メートルバタフライ。

スイムキャップを被り、ゴーグルを装着。魔法が発達していても、この装備は変わらない。

呼吸を整え、飛び込もうとしたその瞬間。

「ふざけんな!!」

どこからか男の声がした。

「だ、誰が来て――」

続けて聞こえたその声。聞き間違えるはずもない。6年の片思い相手の声だ。

プールサイドにある職員の休憩室。椅子とタオル、暖房器具があるだけの部屋。曇りガラスになっていて中は見えないが、とにかく彼女が困っている。

イヴリン・アイザックが、助けを求めている。

飛び込み台から降り、リチャードは職員の休憩室へ走る。

〈プールサイドは走らない〉の注意書きなど知ったことか。今はそれよりも、イヴリンだ。

積もりに積もった想いが。

募りに募った感情が。

高まりに高まった恋心が。

リチャード・ホフマンに

16歳、夏。

彼は固有魔法に目覚める。

「イヴリン先生に、何してんだっ!!」

休憩室でイヴリンに乱暴しようとしていたのは、館長であった。そんなもの関係ない。

相手が誰であっても、リチャードは許さない。

振り抜いた拳は酷く赤熱し、焼け爛れていく。が、気にならない。

彼はそのまま館長をぶん殴り、弾き飛ばす。

「イヴリン先生――っ!?」

次に目に入ったのは、競泳水着の上に羽織ったジャージを切り裂かれ、顔に殴打の跡が残る悲惨な彼女であった。塩素で傷んだ髪のせいか、強く引っ張られたせいか。綺麗な金色の髪はボロボロに。涙を浮かべた彼女に駆け寄るが、そこで初めてリチャードは自身の腕の異変に気付く。慌てて休憩室から飛び出し、プールに腕を付ける。

だが、火傷の跡は消えない。

「り、リチャードくん――ごめんね」

イヴリンは腕を冷やして痛みを堪えるリチャードに謝罪する。

「大丈夫です。それより、イヴリン先生は?」

顔を上げたリチャードの目に入ったのは、イヴリン。

それから、その背後に迫る館長の凶影。

「危ねぇ!!」

急いで体勢を立て直し、リチャードはまだ熱の残る腕でイヴリンを突き飛ばす。

〈ジュッ〉というイヴリンの肩の焼ける音と、館長の手にしたハサミが、長いこと水に浸かって柔らかくなったリチャードの腹部を貫く音が重なる。

「テメェ――」

リチャードは痛みに耐えかね、後退する。が、その先はプール。抗えるはずもなく彼は背中から水へ落ちる。

(イヴリン先生――イヴリン先生!!)

尚も彼の頭の中には愛しの彼女の名が。

その強い想いに、彼は更なる力を手にする。

魂の写し鏡――〈極〉の発現。

「〈火炎の極〉――」

幸いなのは、ここが水中であること。プールサイドにいる館長からすれば、リチャードの言葉はただ溺れてもがいているようにしか聞こえていないこと。

猛炎もえあがれ――〈火群灰燼紅蓮回禄ブレイズブルバースト・イクス〉」

腹の底から湧き出る声で、リチャードは叫ぶ。

刹那、プールの水が全て蒸発する。

その異常性に館長が気付くが、既に遅い。

彼の体中の水分も一瞬で消え失せ、ミイラと化す。

「今度こそ――終わりだな」

リチャードは極を解除。

「リチャードくん、ありがとう!!」

「いえいえ――というか、俺のこと覚えてるんですか?」

「当たり前だよ。君は凄く真面目だから。だから大会前はいつも最後まで残って練習してる。最後まで――ね。だからこそ――」

何か、違う。

何か、おかしい。

リチャードの本能がそう告げている。

だが心はまた別。

イヴリン先生が、と、心が訴えている。

「だからこそ、あのうっぜぇクソハゲ狸を殺すのに利用させてもらったんだよ!!」

豹変。

変貌。

否、これがイヴリンの本性だ。

「は?何を言って――イヴリン先生、何言ってんだ?え?えぇ――?」

リチャードの口からは困惑の声しか出てこない。

「あのクソ館長、私に愛人になれってよ。寝る度に5千ポンドもくれんだ。そりゃあ愛人になるにきまってんだろ。けどな――私に飽きたってよ。だから殺してやろうと思った。ふざけたハゲだ。黙って私だけ抱いてりゃ良いものを。それを他に女作って――で、前の女に殺されて。哀れってのはこのハゲのためにある言葉だよなっ!!」

彼女の口から語られるのは、衝撃の事実。

「おかしいと思わなかったか?館長が急にハサミを持って出てきたこと。そりゃあ、テメェを殺してもらうためだよ!!そのために、館長が殴られて飛んだ先にハサミを私が落としたのさ。ついでにテメェが館長に殺されてくれれば良かったのに。生き残っちまいやがった」

あ〜あ、とイヴリンはため息をついて。


「リチャード・ホフマン――16歳。熱力学の分野に於いて多大なる功績を残した、レイリー・ホフマンの息子。リチャード自身も父に期待され、幼少期から科学の英才教育を受ける。小中の課程をわずか2年で修了し、高校は飛び級で2年で終わり。11歳には既に大学へ入学し、将来の活躍を期待される。だが思ったような研究成果が出せず、父と比較される日々。逃げるように水泳に打ち込み、〈泳げる科学者〉としてたまにメディアに取り上げられる有名人。それが今の君だ――リチャード・ホフマン。けど、実際は違う。君はリチャード・ホフマン。そして飛び級して大学に行ったのは双子の弟のライン・ホフマンの方だろう?双子なので誰も見分けがつかない。それどころか、君の父親は君が双子であることさえ知らない。そうだよね?」

それだけの情報を、噛むことなく淀みなく口にするイヴリン。そこにはもはや、恐怖すらなかった。

リチャードの中にあったのは、ただ1つ。

それだけのことをしても尚、消えることのない恋心であった。

「イヴリン先生――ずっと好きでした。6年前、初めて会ったときから、ずっと」

何故、今なのか。

どうして今になって――否、気持ちが口から溢れるのか。リチャードにも分からない。けれど、その言葉は真実だ。涙混じりに口から出たその気持ちに嘘はない。

彼女の本性を知っても、それでも俺は好きなんだ。誰が何と言おうと関係ない。

リチャード・ホフマンは、イヴリン・アイザックを好いていた。――心の底から愛していた。

「知ってた」

最後に見たイヴリンは。

イヴリンの笑顔は。

リチャードの良く知る、優しい彼女のそれであった。



***



「何やここは?」

思わず口から言葉が漏れるベルナルド。

長閑、暦診、白恋を置いて先に進んだ彼らが次に辿りついたのは、〈遺体安置所〉であった。

あの長い廊下を進んでいて、初めての扉を開けたら死体の山と遭遇した。

「引き返そう、ベルナルド。この部屋はヤバい。何か分からねぇけどヤバい!」

中国支部へ来てから〈ヤバい〉しか言っていない気もするが、リチャードの言う〈ヤバい〉は本当にヤバい。

〈十大魔皇〉イチのバカではあるが、野性的な勘は鋭い。頭ではなく体が先に動く。

体と直感。それだけで彼は十分に〈十大魔皇〉の責務を果たせるだけの力があるのだ。

「ビビりすぎだ、リチャード」

ミリアは目が発光する異形を生み出し、遺体安置所の中を照らす。

だがそこには、遺体の詰められた麻袋があるのみで、特に異常はない。

その異常性に気づけたのは、リチャードただ一人。

「マルコ・テイルズ。マルコ・テイルズだと?」

顔を顰め、眉をひそめ。

リチャードは記憶の奥底をほじくり返す。

否、奥底ではない。最も取り出しやすい場所に封印した、10年前の夏の記憶だ。

「クソハゲ狸――」

イヴリンがそう呼んだ館長の名が、確かにマルコ・テイルズであった。

「私が10年前に、君の前で1度だけ呼んだ館長のあだ名を覚えてるなんて、どれだけ私のこと好きなの?」

暗闇の中、発光する異形を踏みつけて現れる女性。

リチャードは、その声を忘れたことはない。

「イヴリン先生――?」

口をついて出たその名は、初恋の人。

リチャードの目に間違いはない。

確かにイヴリン・アイザックである。

「久しぶりだね、リチャードくん」

手には

ノースリーブの服から覗く肩には、確かにあの時つけた火傷の跡。

「あの日の答え合わせをしようか、リチャードくん」

「答え合わせ――だと?」

リチャードの腕が熱を帯び始める。それは誰が見ても明らかな警戒――否、。リチャードのその反応を見て、残る〈十大魔皇〉のメンバーも臨戦態勢に入る。

「私がから関係を断ちたいと言われたのは、私が〈観察者グレゴリオ〉のメンバーだったからよ」

マルコ・テイルズと書かれた麻袋を蹴り飛ばしながらイヴリンは答えを喋る。

鳥肌なんてもんじゃない。リチャードの脊髄には、まるで液体窒素を流し込まれたかと錯覚するほどの嫌な寒気が走る。

「〈中国支部〉に〈十大魔皇〉が来るって聞いて、慌てて〈イギリス支部〉から駆けつけてみれば――大当たり。リチャードくんに会えて嬉しいよ」

彼女がリチャードに笑みを向ける。

だがそれは愛しさ故でも、再会の嬉しさ故でもない。

かつて取り逃した、〈あの日の真相を知るもの〉に出会えた喜び故のもの。


リチャード・ホフマン――26歳の春。

何度目かの人生の転機が訪れる。


「お前らは先に行け。俺は決着をつけなきゃいけない。10年続く――いや、16年続く片思いにな」

リチャードの言葉に嘘はない。

彼女の本性を知っても、それでも想い続けた10年間。積年の全てをぶつけて終わりにしよう。その決意に首を突っ込める者などいない。


「俺は貴女に全てをぶつける!」

紅蓮焔将ボルカノン〉―リチャード・ホフマン。


「私に貴方の全てを見せてよ!」

死霊幽魂ルーインズ〉―イヴリン・アイザック。



時は移ろい、国を跨いだ。

けれど変わらぬ想いが交わる。

互いに正しい道を歩んでいれば、とうに通じ合っていたはずの思いが、想いが、願いが、祈りが――恋が。今ならきっと届くと信じて。

歪んでいながら、けれども確かな愛を手繰るように。

2人の視線が交差した。



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