第4話 ゆりかの夢 其の三
何分、何時間、もしかしたら数秒のことなのかもしれない。これ以上はだめだ、というラインをいくつも踏み倒された気分だった。
何かの基準があったのか、それとも彼女が満足しただけなのか。
一つ確実なのは彼女が顔を上げたとき、私は確かに安心していたということだ。
だがそれと同時に、それだけではないことも薄々分かっていた。分かった上で拒否できなかったのは、期待していたからだ。
「よし、そろそろかな」
ああ、始まるのか。
「心の準備は、て言っても分かんないよね。とろけてるし」
とろけてる?なにが。
思考が纏まる隙もなく、肌に侵入する冷感。なぜか痛みはない。だが、肌の内側を抉る不快感が走る。
視界はぼやけ、何がどうなっているのか分からない。彼女の牙に触れている部分と触れている液体が血であるのかどうかすら、確かではない。
それでもまだ、牙の一部が皮膚を侵入しただけだ。
彼女はじわじわと、奥へ奥へと何かを探るように進んでいく。
裂けた皮膚、その下の肉がはがれていく。
無理やり繊維を断ち切るような強引さは無く、母が子を抱くような優しさに満ちていた。
思考は疾うになく、滲んだ感情が染み出すだけ。彼女の優しさと加虐心に揺さぶられ、何かが零れていった。
余裕、理性、常識、私を保つために不可欠な全てが徐々に見えなくなっていく。
それらは必要であると同時に、私にとって重荷でもあったようだ。失っていく頭は軽くなっていき、その実感は快感に変わっていく。
快感への警鐘は思考に昇る前にふるい落とされる。脳内は単純な快楽に塗り替わった。
力が入るはずもないが、全身の筋肉が痺れて脱力していることすら気づかない。
椅子に座っていなければ倒れていただろう。
運が良かったと思う反面、ここで無理やりにでも中断していれば私の平穏が壊されずに済んだかもしれない、なんてことも考えてしまう。
彼女は前戯の長さに対して、以外なほどあっさりと牙を抜いた。
入ってくるときは微塵も痛みを感じなかったが、出ていくときには尾を引くように痛みが走った。
咄嗟の痛みに適応できず、涙が頬を伝う。多量の出血を覚悟しながら目をやると、小さな赤い線があるだけだった。
口をもぐもぐして、恐らく牙に付いていた血を舐めていたのであろう彼女と目が合う。
「ごめんごめん、最後ちょっと痛かったよね」
なんとか頷くことしかできない。
「ていうか、美味しい!そこらの運動部とかより全然いいよ!何が原因なんだろう。食生活?単純に体質の問題だったりするのかな?」
運動部に所属する人間の血が比較的美味しいことをなぜ知っているのか。疑問は増えるばかりだ。
彼女は基本的に元気に話し続けていたが、増々興奮した様子だった。ちなみに私に相槌を打つ気力はない。
「ねえ、もう少し貰っていい?もう絶対痛くないからさ。いいよね?ありがとう!」
一息に言い切ると、再び腕に嚙みついた。が、牙が突き刺さる感覚はない。
天坂さんはたしか血を飲む、と言っていた。傷はもうある。新たに開ける必要もないわけだ。
それにしても流石に強引すぎる。痛くなければ何をしてもいいわけじゃない。
その程度のことはわかっていたはずだ。
要は、結局のところ彼女も冷静ではなかったということなのだろう。
興奮した人間は何をするかわかったものじゃない。酒、麻薬、エトセトラ。これらが厄介なのはそれ故だ。
何をしだすかわからない存在、未知な存在は恐怖の対象にしかならない。
「や、て」
乱れた呼吸でなんとか声を出そうとしたが言葉にはならなかった。
だが何を言おうとしたのか、彼女には伝わっていただろう。
その上で一瞬も迷いがなかった。むしろそう言われたことでより力が入ったようにも見える。
彼女も私にとって恐怖すべき存在だった。事実、逃げ出せなかったのは逃げたらどうなるかわからないという明確な恐怖があったからだ。
だが、先ほどから膨張し続けている感覚があることもまた事実だった。
例えるなら、飼い主すら噛むような猛犬が私の手から餌を食べているような気分。お腹の上にのっている猫が喉を鳴らしているときのような気分だ。
愛着、とでも言おうか。少なくとも、私の意思を揺さぶり続けるだけの力を持ったものだった。だが、単純化してその思いを認めてしまうのはなんとも癪だ。
しかし、その感覚がどんなものであれ、私には言葉で拒否することしかできない。
その拒否が効果を発揮しない以上、私にできることなどない。
落ち着いて覚悟を決めると、少しずつ冷静になってきた。無駄な混乱、恐怖が無くなったみたいだ。
考えてみれば噛まれたことすら、だからどうということもない。
ほぼ初対面の人間から血を吸おう、だなんて非常識極まりない。だが、非常識なだけだ。
誰にも迷惑はかからず、恐らく天坂さんにはメリットがある。私とて、急にあんなことをされたから驚いただけで、拒絶感はそれほど強いわけでもない。
今だって、噛まれた跡が少しヒリヒリしているが痛くはない。何となく血が抜けていく感覚はあるが、どちらかというと心地良さに分類される感覚だ。
噛み跡に時々舌先が触れるのがたまらなくくすぐったい。本当に微弱な痛みをそう感じるのかもしれない。
撫でるような動きではなく、舌で小突くように舐めている。
わざとしているのか、自然とそうなるのか。血を舐められるという経験を知らないためそれは必要な工程なのか判断はつきかねる。
彼女はひとしきり、噛み跡の感覚すらほとんど無くなるまで舐めた後、なんとも美味しそうな音とともに顔を上げた。
「、ぷっはぁ!旨い!」
口元を豪快に拭いながら笑って言った。爽やかだなぁ、となんとも他人事のようにそう思った。
声も心なしかハリがあるように聞こえる。テンションの高さによる変化とも違う、ある種の潤いが宿ったようだ。
余韻に浸る彼女を眺めているとチャイムが鳴った。
目は開いていたが、居眠りから急に起こされた気がした。その結果机を蹴り上げた。生理現象であるため、抑えようもなかった。
彼女はどちらかと言うと私の驚き様に驚いていたみたいだ。
「びっくりしたー。なに?そんなにびっくり?いつもよりも時間が速く進んじゃってて驚いた?」
恥ずかしさが訪れる前に煽ってくれたおかげで赤面せずに済んだ。耳が熱いのは怒り故だろう。
「帰りますよ」
左手で鞄を持ち上げようとするが落としてしまう。少し血が減っただけと思っていたが、案外影響は大きいのかもしれない。
右手に持ち直し、早歩きで教室を立ち去る。天坂さんとは目を合わせない。
廊下へ出て後ろ手にドアを閉めると、ガラガラという音に重なって声が聞こえた気がした。
聞こえなかったことにしておく。
「また明日」
階段を駆け下りていると下から担任が上がろうとしていた。
「あれっ、源さん残ってたのぉ?じゃあさっきの音はぁ、源さんだったのかしらぁ?」
間延びした声なのに優しい印象がない。口調の奥の性格が透けてしまうのだろう。
「あー、はい。まあ。すいません」
「いいのよぉ。気にしないでぇ。それじゃあまた明日ねぇ」
「はい。さよう、あっ。先生、上にまだ誰かいた気がします」
「そぅ?じゃあ見てくるわねぇ。さようならぁ」
会釈をして下駄箱を目指す。
天坂さんはすぐに帰る気がなさそうだった。教室で先生と鉢合わせる。
口元には滲んだ血液、床と机にも赤い雫が垂れている。
これで面倒くさい話にならない方がおかしい。だがまあ、このぐらいの仕返しならしてもまだお釣りが返ってきてもいいだろう。
校舎から出ると丁度太陽が遠くの山に沈みかけていた。一番鮮やかな赤になる時間帯だ。
彼女の眼と重なりかけたが、どうにも合わない。
彼女の眼の赤はもっと深いんだと、気づいた頃には家に着いていた。
吸血鬼の甘い血 そらふびと @sorafubito
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。吸血鬼の甘い血の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます