第3話 ゆりかの夢 其の二
「で、結局ゆりちゃんはこんな時間まで何してたの?」
彼女は教卓に座っている。私は何となく自分の席に座った。
いつもの教室で、いつもはうるさい彼女が黙ってこちらを見つめているという異常。どうやっても落ち着くはずがない。
「それよりも、なんでこんな時間まで寝てたんですか?」
「ふーん、まどろっこしいのは嫌っていう割に、自分についてのことはすぐに話してくれないんだ。へえー」
明らかな煽り口調とそれに合わせた表情。はっきりとそう言い切れるのに、どこか憎めない要素がある。
それに、ある意味最も意思の伝わりやすい発言ではある。
「言いたくないです」
私が入り浸っている部室のことがばれるのは好ましくない。この人なら尚更だ。
交友関係の広い天坂さんに知られれば、他のクラスメイトに伝わるのは速いだろう。
「そっかー。言いたくないなら仕方ないなー。でも、そしたらゆりちゃんが使ってる部室に行って何してるか、直接見るしかないね。いやー、仕方ない」
どうやら、私にとっての安寧は既に崩れていたようだ。
そもそも薄い岩一枚の上の日常だったのだ。いつかはこうなる運命だったのかもしれない。
久しぶりに、意識せず感情が表情に表れていた。
「いや、皆に広めたりしないよ?コミュ力にはモラルが一番大事なんだから。そんな怖い顔しないでよ」
まさか信じられると思った発言ではないだろうが、彼女にそういう価値観が存在していることで少しの希望が見えてきた。
というか、その発言自体モラルが欠けている。
「お願いします」
「もうっ、心配しないでいいのに」
どのみち、私は天坂さんを止めることができるだけの力を持ち合わせていない。
慈悲を乞うので精一杯だ。
「いつあの部屋のことを知ったんです?」
「結構前から気付いてたよ?部活してないのに帰るの遅いなーって」
「私を尾けたりしたんですか?」
「それは秘密。あっ、髪、なんかついてるよ。古い教室使ってるからじゃないの?」
やはりモラルはない。軽く髪を払っていると、彼女がこちらをじっと見つめている。そして、にやりと笑った。
いつもの人を美しく見せる笑みとはかけ離れている、心の内から漏れ出たような表情だった。
このときは無自覚だったが、初めて見る彼女のそんな表情がいつまでも頭から離れなかった。
「それ。袖の」
しまった。
「血だよね」
彼女の無駄の多い言葉、久しぶりのまともな会話で油断してしまった。
それら全てが彼女の想定通りだったのだろうか。そう考えると愛らしい表情も毒々しいものに思えてくる。
「けが、したんです」
「嘘はだめだよー。そんなに血が出る傷、簡単にはつかない。それに袖の位置に傷はなさそうだし」
なんでそんなことがわかるのだろうか。私たちは教室の電気をつけていない。
この薄暗い中、これだけの距離があればシャツの小さな染みなんて見えるはずがない。
「ねえ、ゆりちゃん。それ、切ったでしょ。」
彼女の目を見ることができない。
「いえ、えの、鼻血が付いただけです」
「ふふ、それもダウト」
教卓から降りた音がする。
顔を上げると、足音もなく目の前まで来ていた。
なんで、どうやって、数々の疑問が脳裏をよぎったが、結局頭に残ったのは彼女のまつ毛の長さだけだった。
「ぜんっぜん匂いがしないもん」
「匂い」
「そう。血の匂い。ゆりかちゃんの鼻からは血の匂いがしない。どっちかと言うともう少し下の、腕のあたりかな」
血の匂い?確かに意識してみれば多少の特徴はあるだろう。
だが、体のどの部位から出たかなんてわかるようなものなのだろうか。
「鼻血ですよ。何が聞きたいんです?」
貫き通せば否定はできない。そう思っていた。
仕方のないことだ。それが無駄であることを、あの頃の私が知っているはずも無かった。
彼女は姿勢を起こし、一つ前の席の机に座った。
「そっかー。嘘を貫き通そうってわけかー」
根拠のないはずの自信だが、私に信じさせるだけの力強さがある。
「いやね?私はゆりちゃんに聞きたいことがあるんじゃないんだよね。どちらかと言うと、お願い?」
聞かれても困る。
「うーん、なんか違う気がするなー。ま、いいや。ゆりちゃんにお願いなんだけど、」
さて、どんなことを要求されるのか。
天坂さんは私を脅せる材料を腐るほど持っている。
「腕、自分で切るくらいなら私に切らせてくれない?」
自分できるくらいなら、私に切らせる。天坂さんに切らせる。きらせる。
腕を、切らせる?
「どういう、意味で?」
真意を探ろうと彼女の目を見ようとするが、耐え切れず視線を落としてしまった。
恥ずかしさ、恐怖、彼女の目は私の感情を乱す。
「ゆりちゃん顔真っ赤だよ。意味かー。そのままなんだけどな。あっ、理由が知りたいってこと?紛らわしいなー」
紛らわしい、そう言いながら楽しそうに脚を揺らしていた。
「りゆうー?理由は血が飲みたいから。以上!」
そうか、天坂さんは血が飲みたいのか。確かに生血を飲む健康法、聞いたことがある気がする。
理解は不可能。できないことをしようとするんじゃなく、重要なのは妥協だ。いくつもの疑問を飲み込み、納得することにした。
「私が自分で切って、出た血をあげるのはだめなんです?」
「うーん、いいんだけど、鮮度が落ちちゃうんだよね。血って時間が経つと赤黒くなるでしょ?そうなるともったいなくない?」
鮮度。もったいないと言われても、鮮度が落ちるとどうなるかなんて知ったことじゃない。
本当に悩んでるところを見るに、鮮度は大事な要素なのだろう。天坂さんとて妥協の重要性を知らないでもないだろうし。
「あと、ゆりちゃん市販のカッターで切ってる?」
「専用器具なんてありません」
「だよね。でも痛いでしょ。たまーに全然切れないのとかあるし。それに汚い!膿んじゃったら大変だよ?」
それは、懸念していたことではある。刃の消毒はするし、絆創膏、滅菌ガーゼも常備している。
それでもプロから教わったわけでもない。完璧、というわけにはいかない。
「でも、それはあなたでも同じですよね」
もし、天坂さんに医師免許でもあるなら別だ。いつも点数一桁のテストを嘆いているのは才能を隠すためのカモフラージュだろうか。
「んーん。私がやれば膿んだりしないよ。専用器具って言っていいのかわかんないけど、それっぽいものなら持ってるし。試してみる?」
それっぽい、このときほどその言葉が怖かったことはない。ただ、あれだけの自信を持ったそれっぽさに、興味が湧いた。
少なくとも、ただのカッターのような杜撰なものではないのだろう。
「どうぞ」
彼女がミスすれば、それを引き合いに出して秘密を守れるかもしれない。という企みも無かったでもない。
「おっ、急にノリいいねー。おっけー。それなら腕、出して。傷も残んないからどこでもいいんだけどね」
覚悟はとっくに決まっていたため、躊躇なく今日切った方の腕を出した。今日の傷も、こうしてみると無数の古傷に紛れて目立たなくなっている。古傷自体が目立つことは仕方ない。妥協しよう。
「よし、じゃあ、いただきます」
彼女は言いながら、胸元のボタンを外し始めた。道具を取り出す様子はない。
この時既に、何かおかしいことには気づいていた。だが、私が言葉を発するよりも早く、彼女が動いた。
流れるような所作でそっと私の手を取り、真新しい傷を優しく舐めた。
想定外の事態に、私は手を引こうとする。しかし彼女の手は放してくれない。まるで力が入っていないように見えるのに、はずれる気配が全くない。
「逃げちゃだめだよ。大丈夫だから力、抜いて?」
顔を上げた彼女は、恐ろしく冷たい表情をしていた。
今すぐにでも声を上げて逃げるべき、そういう考えはすぐに浮かんだ。
でも、なんとなく、大した理由や根拠もなく、委ねてみたくなった。恐怖を掻き立てようにも、もっと深い部分で受け入れてしまっていた。
これから起こることがなんであれ、悪いこととは思えなかったのだ。
深呼吸をして、彼女の目を見る。一転、彼女はにやけるようにして、妖艶に笑った。
さっきまで目を合わせられなかったはずなのに、今度は目を離せない。
この時、私は彼女が何をしようとしているか、なんとなくわかっていた気がする。
こちらを向いて笑ったとき、異様に長い犬歯が口から覗いていた。
彼女はもう一度同じ場所を舐めた。最初よりも優しく、柔らかく。今度は私も逃げようとしない。
皮が薄く繊細な傷跡で、舌の感触をより鮮明に感じる。内臓が撫でられているような、痺れに似たこそばゆさが登ってくる。
ほとんど面識の無かった彼女との、無言の時間。それ以上の異常な状況。
想像もつかなかった非日常が、これまで経験した何よりも心地良かった。
それはきっと彼女のせいだ。その非日常は、彼女でなければならなかった。
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