第2話 ゆりかの夢 其の一
金属の刃が皮膚を撫でる。
コツは刃が動かないよう、しっかりと固定すること。
狙うのは周りから見えることのない、二の腕。根元から先端まで、一息に引く。
綺麗にできたときは、細い線がじわじわと広がるみたいに漏れ始める。痛みが来るのはもっと後。最初は熱しか感じない。
私は自分で出した血を、どうするでもなくただ見つめている。雫となって下に垂れるときは反射的にもったいないと思うが、思うだけだ。
血が美しいと感じたことはない。吸い込まれそうな赤は嫌いではないが、絵の具で作った色との区別はつかない。
なのになぜこんなことを辞められないのか。言語化どころか、曖昧な理由すら思い浮かびはしない。無意識に近い、潜在的な欲によるものだと思う。私にもその程度のことしか言えない。
そんな無責任な”私”に対して激しい怒りを抱くこともある。
消してしまいたい。押しつぶしてそのまま殺してしまいたい。一度着いた火は簡単には消えてくれず、”私”のすぐ隣にいる私にも燃え移る。私を責めずにはいられなくなる。
だが、そんな日とは逆に心が凪ぎ、あまつさえ心地良さすら感じる日もある。今日がまさしくそれだ。
こうして落ち着いていられる理由もまた、全くわからない。天気がいいから、授業が楽だったから、新品のカッターを使うから、そんな他愛もないことなのかもしれない。
曇り空の穏やかな明かりを堪能していると、ドアの前をどたどたと走っていく音が聞こえた。反射的に体が硬直する。
この約半年間、誰かがこの部屋に入ってきたことはない。頭ではそうわかっていても、常にリラックスしていられるほどの度胸はない。
なんにせよ、見られたら面倒なことになるのは間違いないわけで。だったら多少臆病なぐらいが丁度良かったりする。
今こうして簡易ビーチチェアで寝ている教室は、私の所属している文芸部の部室だ。この部室は、休憩時間だろうが放課後だろうが私以外の人が訪れることはない。
文芸部員が私一人なわけではない。ただ、私含め、活動している部員は一人もいない。幽霊部員どころか幽霊部活、というわけだ。
この高校は先生達の指導が緩い分、校則のアップデートが遅い。未だに、全員が部活に所属しなければならないらしいなんて、レトロな規則が残っているぐらいだ。
とはいえ、そんなルールを遵守してれば、生徒からも先生からも大量の不満がでることは間違いない。
これらの背景があって作られたのが、今の文芸部だ。
数年前まで文芸部は部員不足で閉鎖されていた。その部活を形式上の部活として復活させ、部活動に所属したくない生徒は文芸部に入部させるようにした、というわけだ。
校則を変える方が確実に早いと思うが、そのおかげで私が部室を独占できている。
文芸部にも部室があることを知っているのは、私と形式上の顧問だけだろう。その顧問がここに訪れたことは一度もない。そもそも大半の部員は自身が文芸部所属であることを知らない。
部室内には、教室でも使っている机が四個、椅子が五個、隅の小さな棚が一つ、家から持ってきた昼寝用の枕しかない。棚には先代達が残していったであろう小説や辞書、そして同じくらいの量の漫画がある。
広さで言うなら、授業で使うような教室の四分の一以下。机が中央にまとめられ、その外側に辛うじて歩けるだけのスペースがある。窓際に椅子を三つ並べて寝ていても、床に落ちるスペースすらない。私の背がもう十センチ高ければ、足を伸ばして寝ることすら敵わなかっただろう。
薄く差し込む夕日で目が覚めた。文芸部らしく漫画を読んでいたら寝てしまったようだ。椅子をずらしながら起き上がると、思っていたよりも暗くなっている。
この教室に時計はないため、現在の時刻はわからない。スマホは必要性を感じないため家に置いてきている。
グラウンドにはまだ運動部がいるだろうか。窓の外からは校舎裏の駐車場しか見えず、少しずつ不安が募る。
下校時間が過ぎていても私が怒られるだけならば問題はない。しかし、どう言い訳しようと部室で自由にしていることがばれてしまう。
入室禁止にされたりしたら最悪だ。そうでなくても他の生徒に知られてしまうことは避けられない。
様々な心配事が頭を巡り動けずにいると今日の傷が疼きだした。そういえば今日は、切ってそのまま眠ってしまった。制服の袖を見てみると、案の定血がついている。長袖シャツなのに、折り曲げただけで固定などしていなかった。
幸いなことに、出血量は多い方ではない。うまく折っていれば隠すことはできそうだ。
とはいえこういうときは、できるだけ早く水で洗うのが一番いい。
下校時刻は過ぎているかもしれない。誰かに見られてしまうかもしれない。
過剰な不安に嫌な汗をかきそうだ。
覚悟を決め、鞄を手に取る。落ちている漫画を棚に戻し、深呼吸した。
先生と遇ってしまったときはトイレで寝ていたと言おう。ドアを開け、廊下を覗く。
先生はおろか、生徒すら一人もいない。人の気配は一切なかった。アウトを確信する。
運動部以外の部室はこのあたりに集中している。運動部の部室はグラウンドの別棟だ。
彼ら彼女らは文化部のイメージを押しのけるように、いつも下校時間ぎりぎりまで部活をしている。
どれだけ静かな活動をしていても多少の会話はあるだろう。それ以前に、どの教室も明かりが付いていない。
はっきりと時間切れであることを自覚すると、不思議と冷静になってきた。どうせ過ぎているなら制服を洗うことの方が重要だ。
今なら明らかに不自然な言い訳も突き通せる気がする。
一番近くの蛇口はこの廊下の角、階段の前だ。念のため足音を殺して早歩きで移動する。通り過ぎる際に全教室を確認してみるが、生徒はいない。一欠けらの小さな期待が粉砕される。
なんとか廊下の突き当りまで、何事もなく辿り着くことができた。
廊下を曲がった先は部室ではなく、一年生の教室となっている。学年が上がるごとに階段の距離が短くなっているのだ。こういう年功序列なところもつくづく遅れている。
見たところ、一年教室も電気がついているところはない。
無駄な確認に時間を費やすわけにもいかない。袖の血痕は乾きつつあるが、まだ触れると指に赤が付く。
できるだけ濡れる範囲は最小限に、且つ迅速に血を洗い流す。明かりのない学校は曇りの夕方ともなるとかなり薄暗く、ちゃんと流せているのかわからない。
これだけ擦っても変わらないように見えるということは、シミになることは避けられない。一旦軽く絞り、なんとか血の跡を見てみる。消えてこそないものの、確実に薄くはなっている。これなら気にならない程度まで
「源さん」
咄嗟に後ろを振り向く。流れる水の音のせいで足音に気が付かなかった。先生の警戒を怠ってしまったようだ。
だが、教師が生徒を咎めるような口調ではないように感じた。
暗くてはっきりとは見えないが、声をかけてきた人物は明らかに制服を着ている。先生ではなかった。とりあえずその事実にほっとする。
だが、こんな時間まで残っている生徒に、若干の不気味さを覚える。
私の名前を知っている、ということは少なくとも他学年ではないはずだ。私に縦のつながりは無い。
声を思い返してみる。女子の中でも少し高めの、甘い声。
思い当たる人物が一人、いた。
「天坂さん、ですか?」
顔はまだ薄っすらとしか見えないが、何となくの身長や髪型もそれらしい。それに、声は飽きるほど聞いている。本当に、飽きるほど。
「覚えてくれてるの?ちょっと意外だなぁ」
「同じクラスの人の名前ぐらい覚えてますよ」
雲が無くなり日が差し込み始めた。はっきり見えた天坂さんの顔は、いつも通り綺麗な笑顔だった。
彼女は何を言うでもなく、私を見ている。他の人なら気にならない。だがこのときだけはなぜか、何か話さなければならない、と思った。
「天坂さんは、なんでこんな時間まで?」
言葉足らずかもしれない。口に出してから不安になったが、少なくとも彼女には伝わっていた。
「んーっとね、寝ちゃってただけ」
「そうですか。では」
「えー。ちょっとくらい話そうよ。源さんは何してたの?」
これは、答えない方がいい。追及されたら面倒だ。かと言って無視するのもあまりに感じが悪い。
「下校時間は過ぎてますよ。早く帰りましょう。」
「えっ、まだじゃない?」
彼女はスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。画面いっぱいに韓国の女優風な人がポーズをとっている。
首あたりに表示されている時間は、十七時三十分。下校時刻は十八時だ。
「ね。まだでしょ。だからちょっと話そうよ!ほら、私たちあんまり話したことないし。源さんとも仲良くなりたい!」
良かった。こんなに緊張する必要はなかったというわけだ。
そういえば、今日は職員会議があるとかで部活がない、と言っていた気がする。真面目に聞いておけば、なんて後悔しても意味はない。
何はともあれ、彼女のおかげで時間はあると知れたのだ。多少の恩返しはしないと後味が悪い。
「私は冗長な話が苦手です。言いたいこと、聞きたいことはまっすぐ言ってください。」
ただ、一つ。基本的に好印象ではあった彼女に対して、一つだけひっかかっていることがあった。
彼女はなぜ、一目見ただけで私の名前を呼べたのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます