6章:病院で小話

 或日男は家に帰った。ドアを開けて靴を脱ぎ、リビングのソファにバッグを置いた。ソファに在る毛布を床に落とし、埃が舞う。その音で母親が目を覚ましてくる。「ただいま」と男は云う。母親は虚ろ気な目元で寝間着の裾から肌が見え隠れさせながら「お金は?」と云う。男はバッグの中からしわくちゃの封筒を取り出した。それを急いで奪う母親。「ねえわたし今度悠祐君に会うって言ったよね?」母親は封筒の中を床にばらまく。千円札や五百円玉や五十円玉が音を鳴らし飛び散る。「こんな少額でどうやって新しい服やバッグ買うっての?」母親は男に近づき髪の毛を引っ張る。「婆ちゃんのせき止める薬買ってきて…それで、給料は…」と男は口を動かす。母親はそれを遮り、「だからぁ!おばあちゃんのことより私のこと考えろよ。あんたに渡した学費がまだ返ってきて無いんだけど?!」と母親は叫ぶ。物だらけの部屋の中心で声が響き渡る…。







 もしも…人を愛することがこの世で最も尊い行為なのならば、どうして人は別れるたび、哀しみに目を潤わせ声を怒りで震わせるのだろう。


 何故愛した日々を忘れて身を衝動に任せられるのだろう。そして、愛した自分すらも嫌いになってしまうのだろう。


 分からない。だが、僕に彼女のことを分かってあげられるとするならば…目を見たり手を繋いだりした時に、逸らさないで居てあげたいのだ。彼女の甘い頬と苦味の灯る朱い目が…濁りの混じり合う僕の目と同一視される事が…何よりも辛いものだと知っても。


 甘い恋ばっかり在ると思いますか?


「いやしかし、とても彼女があんたの考えについてくるとは思えないけどね」


 包帯の男は、布団にくるまってこちらを覗き込むようにつぶやいた。まるで、洞窟の中で無遠慮に暗闇の奥から覗いてくるアブラコウモリの様だ。尤も其れは、此方も同じ様にあちらの方を覗いて無ければの話なのだが…


「昨日から気になっていたけど、多崎くんはまるで小説の主人公みたいだね」


「そうですか?僕にはよく分かんないです」僕は愛子さんこそが此の世界の主人公のように考えていたので、それに対し少し反発した。同時に、もし此の世界が僕のようなつまらない人間のものだとしたら…ゾッとするほどつまらない世界になりそうだ。


「俺はよぉ、昔はお前みたいにせっせと周りの云うこと聞いておいて内心、馬鹿にしてるような陰気な性格してたぜ」男は、数年前の実家住みで家族内にこき使われていた時のことを思い出していた…。


「つまらない話なんだが、聞いてくれるか?」


「いや、別にいいです」何だか長くなりそうな気がした。


「よっしゃ、ありがとう」と男は息をつかず話し始めた…。


 此の俺、堀田睦成ほりたむねなりが産まれたのは1が一つ、9が三つ付く年の事だった。赤ん坊の時の俺は、暴れん坊で助産婦さんも俺の足技には手こずったそうだぜ。


「ちょっと待って下さい、そこ迄遡るんですか?」


「当たり前だろ、俺の人生は濃く短く、スパスパ進んでやるから我慢しろ」


「未だ死んでないのに…」


 エヘン、と咳払いをし男はしんみりとした風貌で話し始めた…。産まれた時の泣き声も凄くてな、ちょっと壁にヒビが入っていたと聞いた両親は、冗談だと思っていたらしいが実際あたりを見回してみるとそこら中の小さい割れ目に気づいた時は年相応の控えめな転び方をしたらしい。そうそう、俺はへその緒も太くてな…。そこ迄云った所で、多崎君が又止めた。


「やっぱりもう少し進んだタイミングから話してくれません?」彼の話が脱線まみれの不良線路だと云うことに、早くして気付くのだった。


「何だと…職場で話したら大爆笑の俺の抱腹絶倒人生笑い話を途中でニ度も止めるとは…」


「それ多分、貴方の後輩だからですよ」


 そんな事を云いながらも彼の話を聞いて、心が熱くなるのも又事実だった…。多崎君は段々と盛り上がりの在るど根性男話を聞いて、自信の秘めたる冒険心に火が点くのを感じ取っていた。


「やめてくれます?ナレーション風に僕の嘘情報を話すの」


「なんだよ別にいいじゃん。そんなに俺の話に興味ないわけぇ?」


「その真実かどうかわからない人生談を聞かされるのも迷惑なんですよ…」


 病院室で昼間の内から、彼らの話は熱気を帯び、その声が廊下まで響き渡るほどだった。




 いつしか、その室の中に看護婦さんが入ってきた。「あなたたち、もうずいぶん元気ねぇ」邦題の男は「どこがですか、こんな包帯グルグル巻きやっていうのに」看護婦さんはふふふと笑って、「外から聞こえてきてたけど、あんたら兄弟みたいやねぇ」と言った。


 多崎くんは「冗談じゃないですよこんな阿呆事故男と兄弟なんてやってやれないです」と云う。それに包帯の男は「はーい、僕もこんな根暗高校生とは一緒に過ごせないでーす」と云った。


「でもこの部屋で一緒に暮らせてるやないの」


「そうですねぇ、でも洗濯とか掃除とかしなきゃならんて考えるとなあ」


 多崎くんは少し笑って、「そんな現実的なことから考えなくても…」と枕元をゴロゴロと頭を揺らした。


 実は、「兄弟みたいやね」と言われたことが少し嬉しかったのは内緒だ。


 兄弟ってどんなものなんだろう。隣の部屋で一緒に同じ家で寝泊まりして、怒ったり泣いたりする関係なのは分かるけど、どうしてクラスメイトの兄弟がいる人にどんな感じか聞くと「あんま仲良くはないよ」って答えるのかな。


 もしかして、皆んなあまり考えないのかな。自分たちが仲良いか悪いかなんて…。


「それじゃ、あんま騒がんようにね。他の患者さんもおるから」看護婦さんはベッドのシーツを直したり、点滴の位置を調整なんかをしたあと、室から出ていった。


「大変だよなぁ看護の仕事って」


「そうですね…命に関わる仕事ですもんね」と多崎くんが言うと包帯の男はこちらに振り向いて、違う違うと首を振った。「なんですか?」


「看護ってのは言ったら、身体を良好にして尚且つ精神面も安定に導く仕事だぜ。生半可な覚悟じゃ務まらねえよ」確かにそうかも知れないけど。「何で堀田さんが言うんですか?」


 包帯の男、堀田はオッと声を出した。


「漸く名前で呼んでくれたね、多崎くん」多崎くんはあっと喉のつばを飲み込み頭を捻った。「失敗した…」


 堀田は又にいっと笑って「何があ?何も間違ってないよ〜多、崎、く、ん」一文字一文字を唇の隙間から空気とともに覗かせるような言い方で呟いた。それはひどく不愉快な言葉だった。


「あ〜あ〜あ〜!もういいです。もう、いい、寝ます。もう昼から寝ます」と言ってバッと布団にくるまった。


 堀田はケタケタ笑い飛ばした。「逃〜げるんだ、逃げるんだ〜多〜崎くんが逃げるんだ〜!」


 布団の薄めのシーツに包まって、その外から堀田の声が聞こえてきた。なにくそ、出るものかと思っていたがいかに薄くても、夏場に布にくるまるのは思った以上に長い時間持続できるものではなかった。


 直ぐに頭だけシーツから飛び出た。「あっつ…」


「まあ夏やからなぁ」


 外は日差しが強かった。誰かが置いた金魚の彩る花瓶の赤と青の氷飴細工の色影が夏場の光に波状し真っ白なシーツの上に広がる。


 昔は、夏はあついだけだった。


 今はなぜか違うように感じるのは、誰のおかげなんだろう。愛子さんかな、堀田さんかな、いや、堀田でいいだろう、あんな奴。


 もしくは変わっていたのは自分自身だった?


 腐る程持っていた自己嫌悪の言葉は、いつの間にか思い出せなくなっていた。


 何の為に生きていたのかすら分からなかった筈なのに。愛子さんに話し掛けたのだって、あれ、何でなんだっけ。


 死にたいんだっけ?どうして死にたいんだろう。早川のせいかな。彼女はなんで死んだんだろう。


 むかし、あのビルで聞いたよな。「なんで?」って…彼女なんて答えたんだっけな。よくわからないこと言ってたよな。僕ってわからないことだらけだ。


 きっと2年前から何も変わっていないんだ。


 僕はあの頃の無知な自分とそっくりで、何も変わっていなくて、でもちょっと別人だ。


 多崎くんは太陽を眺めて、いろいろ考えた。でもその結果はまだ保留になった。何でかっていうと、嫌な予感がしたんだ。


 暗闇の海の中を泳ぐイメージ、想像、深く暗い海の底、山の展望台から覗く感覚、響く漣の合間に聞こえる音、それは、その音は、太陽、雨、夕焼け、空、天気、ずぶ濡れ、雪、肌寒くて、凍えてしまって、女の子を待ってる。その女の子はすごく可愛くて、魅力的なんだけど、すぐ死んじゃう気がする。肌が真っ白なんだ。茶色のコートで際立つ雪みたいに白銀だった。砂山を作って、掘って、のぞいた。


 たのしい思い出。だけど砂浜で手が汚れてしまって、僕はそれを服で拭う。何度も、何度も拭う……







 学校が終わって、いつもみたいに帰っていた。


 愛子さんは今日も多崎くんのことを考えていた。病院生活は大丈夫かしら。なんて柄にもないことを口に出していってみたりした。


 いつもは手が汚れるから触らないガードレールも綺麗な気がして触ってみた。案の定灰色になって汚れてしまった。


 いつ会いに行こうかな。何だか浮足立っている。まだ会うわけでもないのに、自分の気持ちを自覚してから、あの日から少しずつ心が躍っている。


 あ、でもこの前お見舞いに行った時は多崎くん、元気がなくて会話がぎこちなかったな。でも、あの包帯グルグル巻きの人もいるから大丈夫かな。


 包帯グルグル巻き、フフフッと口に出して笑った。ほんとに包帯グルグル巻きの人っているんだ。フィクションだけだと思ってた。


 あの男の人、優しそうだったし。多分多崎くんとも仲良くやってるだろうな。ああいう楽観的な人は有り難い。私では与えられないものを持ってる。


 本質的な優しさだったり…、そこ迄考えて止めた。嫌になりそうだったから。私は私のままで彼と一緒に居たい。と愛子さんは考えた。


 多崎くんは、私のこと待ってるかな。


 うわあ、本格的に想い人いるよ。私。ひゃー、ハズカシ〜!


 でも、そんなもんだよ。ホントにそう思ってるし。私の醜い取り繕いとかも、今度から多崎くんの前で出さなくていいかな。何々かしら、とか何々だと思うわ、とかあの恥ずかしいアレ。ずっと止めたかったよ。何よ、あれ。名前とかも相まって、天皇さまみたいじゃないのよ。


 うはは、私最近、ドンドン変わっていってるなぁこれも彼のおかげかな。


 彼のおかげで少しずつ前に進んでいってる。昔の自分に見せてやりたいよ、今の自分を。


 あんなに病気のこととか将来のこととかで悩んでるのがバカみたいだ。でもそっか。人って変わるもんね。


 もちろん今の浮かれてる私も、いつかは変わってるだろう。でもだからってないがしろにはできない。私は私だし、変わったあとも変わる前も『私』は変わらない。それだけは分かる。


 拙い過去とか、笑い話にしちゃえばいいんだ。何もかも背負っていくことなんて、そんなの、とてもつらくて出来やしないよ。


 もしかしたら以前の…それもつい最近までの多崎くんはそうだったのかな。昔のこととか、全部背負って行っちゃってたのかな。だから私の言うことも聞いてくれなかったんだ。ずるいよ、それくらい言ってくれれば良かったのに。


 彼女はふと足を止めた。不意に理解したからだ。多崎くんが、『私のことを大切に思ってるから自分を犠牲にしていた』ということに。


 分かった、分かってる。もう、幾ら考えたってきりがないよ。彼とはまた会えばいい。会ってまた話せばいい。


 時間はいくらでもある。少なくとも、彼には。


 前を向いて彼女は歩き出した。そしてスマホを取り出して、多崎くんに次のお見舞いのことを聞いた。


 直ぐに返事が返ってきて、愛子さんはスキップしながら帰っていった。


 ふと足が止まった。顔のおでこの方からプツプツと汗が出てきた。口元を手で押さえる。


「うっ、えっ、ゲホッゲホッゲホッ…」咳が3度住宅街に響き渡る。も〜焦った、吐いちゃうかと思ったと思いながら見ると、掌には血がついていた。


 赤と青が混じった茈色の血だった。







 夜、今夜は少し涼しい。ほんのちょっと開けた窓から風が入り込んでくる。


 多崎くんは、さっきボソボソ寝言をしゃべっていたから今は熟睡中だろう。


 入院代。堀田睦成はそのことについて何度も考えていた。


 実家に連絡しなきゃなんねーかな。あのクソ母親に…。

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茈色の血を舐めろ 静谷 清 @Sizutani38

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