5章:死んだねずみ
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天井の白い電気が目に映り、片側の目だけがその光を吸収し、反射した。時々、消毒液の匂いが鼻について、息を吸うと苦しく感じた。
静寂に近い病院内は、彼女の足音で大きく反響し た。
目まぐるしく、長い廊下にある無数の部屋を、目をかっぴらいて番号を見た。105B、105B、なんでこんなに部屋の順番が揃ってないのかしら。
あ、あった。見つけた、彼が入院している部屋。
今日、いつも通り学校に向かうと多崎くんが来ておらず、珍しいこともあるもんねと思っていたら、担任の教師が落ち着かない様子で朝のホームルームを始めた。
「えーあのー、その一件、大事なお話があります」私は直感で嫌なものを感じていた。もしかしたらとてつもなく嫌なことが起きるかもしれない、というような根拠もなく、そのくせ体を引きつらせる予感が。「今朝学校に通達がありまして、このクラスの多崎信朗くんが、昨日事故に遭い病院で治療を受けています」
それを聞いたクラスメイトはみんな、驚いて周りの友達とざわざわ無駄口を叩いていた。大丈夫なのかな、事故って轢かれたの?、重体だったらどうしよ、などと甘ったるい心配の言葉を放った。
出来ることなんか何一つ無いくせに。
それを聞いた彼女は勿論、早退して病院へ向かった。この近くの病院、いや多崎くんの家から最も近い病院はあそこだ。
そして病院のエントランスに着いたが、よくよく考えれば彼の入院している部屋を知らず、お見舞いしようにもどうしたらいいのかわからなかった。
すると後ろの方から「もしかして、あなた、信朗と同じクラスの子?」と声をかけられた。振り向くとそれは多崎くんのお母さんだった。
以前三者面談の時に少し話したので覚えている。向こうも私のことを覚えていたようだ。
「はい、学校の先生から聞いて…」
「あらありがとうねぇ、あの子は二階の105B室に居るわ」
ぺこりと頭を下げて、その場から離れる。助かった、お母さんが居てくれて。でも、つきっきりではないということは、命に別状はないのだろう。ひとまずは無事だと分かり安心した。
そして、彼が居る部屋を見つけ、扉を開けた。
中は天井の清潔感あふれる寒色の明かりと、窓から差し込む暖かな陽の光で、穏やかな雰囲気を醸し出していた。仕切りの白や壁の白、枕の白とシーツの白、そこら中にある綺麗な白は命みたいで、同時に裏にある死の匂いを感じさせる。
奥の方でベッドに横たわり、ボーッとした様子で本を読んでいる多崎くんを見つけた。
私は仕切りに隠れつつ彼に近づき、ワッと飛び出した。彼は「うわっ」と驚いた。
「担任から事故に遭ったって聞いて、大丈夫?」
「うん、しばらく入院になったけど…」
「昨日なんだよね?事故が起こったのは…わたしと別れたあと?」
「そう…あのあと、僕は帰り道で、死んだねずみを見つけたんだ、家の近くの路地裏で、猫に肩を噛み砕かれてた…それを何処かに埋めようとしてたんだ、そしたら不注意に道路に飛び出して、ドンさ」
「あのね、確認せずに車道に飛び出したら轢かれるなんて、小学生でもわかる事よ」
彼は私の言葉を、うん、うん、といった様子で、右の耳から左の耳へ流れるように聞き流していた。
「どうかしたの?」と私は聞いた。
「ん…なんでもない」と彼は答えた。
この期に及んでまだ隠し事をしようとする彼に、私は少し怒りを覚えた。
「嘘でしょ、目に見えて元気が無いわよ」
彼はえ、そうかなとこちらを向いて驚いた。そして、観念したようにこう言った。
「ねずみのことを考えていたんだ。あの死んじゃったねずみ…」
「ねずみ?」私は先程の会話で出てきたねずみのことを忘れていた。
「僕はまだ、墓を作ってあげてないんだ」
「退院したら、きっと作れるよ。私も手伝うわ」
「そうかなぁ…僕が轢かれた時に飛んでっちゃったんだ。きっと、もう側溝で蟻たちに食べられてるんじゃないのかな…」
彼は、その死んだねずみのことをまるで自分が飼っていたペットかのように、慈しみ、悲しんだ。
私には、その感覚が理解できなかった。一度会っただけの、思い出も何も無い、出会ってすぐ死んだねずみのことを悲しむなんて。
すると、部屋の扉が勢いよく開き二人の男が入ってきた。男は多崎くんのベッドから少し離れた入院患者の方へ歩いていった。
片方は金髪で黒のジャージを着ていて、もう片方は背の高く白いポロシャツを着ていた。
二人はベッドに座った男と楽しそうに盛り上がっていた。会話から察するにバイクで事故を起こしたらしい。この部屋は怪我などで短期間入院する人間の集まる場所のようだ。
「いやでも先輩、よそ見運転で事故は無いっしょ」
「馬ぁ鹿、あっちがよそ見してたんだ」
三人の男たちは楽しそうに話している。
私達もあんな風に笑えればな、と三人の男たちに少し嫉妬した。いつから、こんなにぎこちなくなっちゃったんだろう。
すると、ちらちら見てたのが背の高い男に気づかれたようで「どうしたの?」とこちらに聞いてきた。
「あ、えっと三人は友人なんですか?」何を聞いてるんだろう。
「俺らは仕事仲間だよ」金髪の男が答えた。「こいつらは同期、俺は先輩」今度はベッドに座った男が答えた。よく見ると、その男は右腕と両足に包帯を巻いていた。
「怖いですよね、事故。どんな言葉かけたら良いのか…」
少し間をおいて、男たちは笑った。私の言葉がおかしくておかしくてたまらないといった様子で、笑った。
「俺はね、事故らない為にバイク乗ってんじゃないよ。そうやってもしものこと考えてても、頭痛くなるだけだろ。だからもし、事故にあった時はみんなで笑ってくれればいいよ」と包帯を巻いた男は言った。私はその言葉の意味がよくわからなかった。もしものことがあるから、怖いんじゃないのか。
「先輩はそんな、無茶するための言い訳ばっか言って、だから右直事故なんか起こすんすよ」と金髪の男は言った。
「そんなもんなのかな…」と多崎くんが小声でぼそっと言った。もしかしたら、多崎くんもこうやって運が悪かったんだねって笑い飛ばして欲しかったのかな。
多分彼は周りの把握や管理は出来るけど、自分への評価が著しく低い人間なんだと思う。だから自分の失敗や言動なんかにウジウジ悩むし、今みたいに後悔を引きずるんだろう。
背の高い男は言った。「そこの君も、もしかして交通事故?」多崎くんは顔を上げて「交通…ってゆうか車に轢かれたんです。僕がボーッと車道に飛び出したら」
「なんだ、君もよそ見で事故ったの。駄目だよ、そのままでいたらこんな風になっちゃうよ」と金髪の男が笑いながらベッドの男に指さした。
ベッドの男が馬鹿野郎と言って、空いてる左手で金色の頭を叩いた。
私は病院で初めて笑った。多崎くんも笑ってて、お見舞いに来てよかったと思った。
病院から出たあとも、私はベッドで寝ている彼のことを思い浮かべた。
自分が助けられなかったねずみのことをいつまでも引きずっている彼。自分の行く末を自分では決められない彼。人生は悲劇だと本気で思っている彼。
気が付けばいつも彼のことを考えている。
それはさすがの私でも分かる。好きなんだ、彼のこと。
多崎くんに死んでほしくないのは、恋慕からくるものだったんだ。
いつから好きだったんだろう。何故かこういうとき、私は私を俯瞰してみる。私はいつから彼に恋愛感情を抱いていたんだろう。
最初にあった時は、なんとも思わなかった。挨拶をしてきた時も、どうせ暇つぶしだろうと思った。毎日挨拶をしてきて、ようやく興味を持った。
私が思う人を愛する理由とは、寂しさを埋めるためや物悲しさを紛らわすためだと思ってた。
けど、私の感覚が間違って無ければ、それは違うみたいだ。相手の思っていることや興味のあることを知ってみたり、相手が見ている世界を自分も見てみたいと思うその心が、興味であり恋なのだろう。
理解すると、ちょっと怖いな。
夕暮れの中、次はいつ来ようかと考えながら彼女は歩いていった。
■
夜が始まった。触れたら暑さで肌がべとつき、服の皺の間に汗が溜まる沸々とした熱気の散漫する闇夜の空気。
鈴虫の音―其れをかき消す、蜥蜴による捕食―そして蜥蜴が蛇の胃袋に収まる―又それを人が踏んで蛇の内臓が潰れる音―すらかき消す、巨大な無音。
しかし室内では電灯の明かりと入院患者の笑い声がその無音を無いものとした。
「多崎くんよお、昼見舞いに来てた女の子彼女?」
「違います」彼は下手なおべんちゃらを…とも思ったが、もしかすると我々のことを他人が見れば恋人風に思えるのだろうかと考えた。
バイクで事故を起こした男は「つれないねぇ、多崎くん…もっとガツガツいかんと、誰かに持ってかれるで」と笑いながら言った。
「どうせ僕のものじゃないし…彼女は僕のことをなんとも思ってないですよ」
「いやあそうかな、惚れてる目だったぜ」
「ホントですか?」彼は目を見開いた。
「馬ぁ鹿、期待してんならハナからそう言えや」と男は茶化した。
両方の見舞い人が去ったあとも、暇そうな様子でべらべら話しかけてきて、段々多崎も乗り気になりすっかり夜が更ける迄、話し込んでいた。
「ところで先刻話してたことなんだが、ねずみって何だ?」男は多崎が昼間、愛子さんと話していた事故の際手元から離れていったねずみの話を聞いていたらしい。
「ああ、僕飛び出し事故のときにねずみの死骸を手に抱えてたんです」彼は思い出し、また陰鬱な気持になったが、男は話し続けた。
「それがどうして――そんなに気になる訳?」
「墓を作ってあげようと思っていたんですよ。でも僕の手から消えちまって…」彼は其の地面でズタズタに皮が斬り裂かれたテープで巻かれて隠されている掌を見つめていた…。
「どうなんだ。それ、そんな気になる事かな?」男は多崎の周りの空気に在る不幸感大量の空気を見つめ、其れを知り得ながらわざとこんな事を云ったのだ。優しさが男の口から洩れ出たことに、多崎はおろか、男すらも気づいていなかった。
「でもね、僕にとったら死にたいくらい不運な出来事だったんですよ…」
「ああ、マジか?そんな大事?」男は失笑よりもため息が出て、こうつぶいた。「そんぐらいの年にもなると色々考えるかぁ。何つーか、そういう年頃のことは、そういう年頃のやつにしか分かってやれないもんなぁ。分かるかなあ、人って昔できてたものが大人になると急にできなくなるだろ、それって只の老化じゃないんだ、やれてた事がやれなくなるっていうのは、時代が変わっていくってことなんだ。それに伴って自分も変わってゆくし、変わる前の自分なんて一々覚えてられない。それを『知性の獲得』と呼ぶか『心情の変化』と呼ぶかはその人次第だったりするけれど、とにかく多崎くんの思ってることは今の多崎くんにしか理解してやれないことなんだよ」
確かに、その男の説教なのか只の返答なのかはわからないが――長ったらしく、多崎くんには理解ができない何かではあった。
でも、だからその、真摯に受け止めることができた。それは、包帯男の『優しさ』だった様に感じる。
「ありがとう」気付けば多崎くんはそんな事を男に言っていた。
「いいってことよ」男にとっては何かした気も無いのだが、感謝も受け取れないみみっちさは持ってないのでこんな恥ずかしい言葉で返した。言ったあと男は少し後悔した。
何か、心のなかに在る優しさの粒の様な淡いなにかが、この状態において気泡のような儚さと湯船に沈む青緑色の洗浄液に似ている……其れと云ったことでは無いが当に心地良い気分で白い薄敷布団の上で高揚した己の分身が彷徨っていた。
光灯で遮られた月夜の晴。「愛子さんは今何をして何を思っているのだろう…」そう云った脂ぎった脳の傾き、余っ程思考に赴く崩れ落ちた尊厳の響き。更に彼は、多崎信朗としての考方の全てが夜を追うごとに消え去ってゆく感じがした。取れ行く実像の形から、色のある虚像…時計のコチコチとした音の何々。その感じ方其々から覚え方迄問い掛けなければ体から消え去るのだ…と、云うより思考自己某は愛子さんに会った其時より進んでいない気がした…。
行く末を案じ慄えていても、とても誰かに話す気は起きないし、抑、個人の悩み等は考えるだけ考えてしまえば…悩むだけ悩んでしまえば…其内片付くことなのではないか、そう誰かが言っている気がした…
同じ時、同じ空間で又、包帯の男も悩んでいた。或る部下のことである…。昼の内、彼の周りで話し込んでいた背の高い黒髪の男…彼は多崎君に似た破滅思考の男であった。一度決めたら強情で、思考に入り込んできた曲者に対しては徹底的に非情であり、尚且つ思い込みが激しい…くせの強い、云ってしまえば何処迄も面倒くさい男なのだ。昼時、かち合わせたが今考えれば面倒な状況に陥ってもおかしくは無かったな…其れ程迄、彼と多崎君の相性は最悪だと、気付いていた。実際其れは合っているのだ。末恐ろしいことに、此の男は論理じみた思考は得意ではないが、直感的な地道な行程を蔑ろにする(或いは野性的な"カン"と云う奴)事は大の得意なのだ。其れは良い場合も在れば悪い場合も在る…今回は最悪の事態を予想して、胃が痛くなる現実だけを見るならば大外れだろう…然し、故に腹が決まり、積み立てた人生の重みとやらで言葉を重くし、多崎君を説得してみようとも考えたのだ。この室は今湿度に似た難解な考えの其れが合わさり、不条理な眠気をもたらした…夜も更け、十二時半の闇空の事だった。
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