4章:多崎くん

 助けられないのなら、せめて眠っていたかった。死んでしまうのなら、せめて遠くで死んで欲しかった。死ぬ瞬間を見せないで、でも死んだ時の顔は見せて。死んだ音は聞かせないで、でも君の鼓動は聞かせて。


 血が流れてる。腕から、頭から、死体の上に桜が落ちる。肉はもう、早川ではなくなっていた。


 既に生きていないと知らせる、目の前の事態をどうにか消し去ってくれ。お願いだから、もうこの場に僕を存在させないでくれ。







 空気は桜の匂いを含んで、息を吸うたび春が鼻腔から体内に流れる。3月の世界は始まりの場所だ。彼を回る空気の層が、これから始まる事象に警告していたというのに彼はそれを無視した。


 だって、目に見える規制や危険な真実は世界の一端を切り取っている重要な欠片なのだから、それを自身と切り離してしまってはあまりに勿体無い。だけど重要な事実を知らないということが、安全なんだと、その時は知らなかった。賢い人間は、そうやって気付いた真実を自身の中に隠し持つ、危難の世界から、逃げる賢さを持っているんだと。


 何歩か先の早川は、笑顔で、しかし決して本音は見せないよう心がける表情をしていた。先程家にやってきて、「死にに行くんだ」と早川は言ってきた。そして「ついてくる?」とも。別に死体を見たいと思ったことはないから、どちらでも良いと思ったが、何故か彼女が裸足だったので、ついてきた。なんでだろう。理由は分からない。分からないのだとしたら、僕の中に理由はないのかもしれない。彼女の中か、それとも桜の花びらの中か。


 ちらちらと目の端に映る、桜の木がこちらに呼びかけてくる。「おお、こんな日に自殺とはもったいない。およし、空は白が混じった青色で、とても綺麗だろう?私たちの花びらを見て、笑顔で生きていきなさいな」と悠然とした立ち姿で言ってくる。


 そろそろ気になって「どこへ向かうの?」と聞いてみたら、早川は「私の家」と答えた。「早川の家でなにするんだ」と問うと、「内緒」と答えた。


 通ったことのない道をぐねぐね歩き、それでも桜の木は公園などで見つかり、ここでも人は桜を見るのかと思ったが公園に人はおらず、人工物だけが残っていた。遊具に花びらが何枚か乗っていて、子どもたちが姿を変えて遊んでいるようだと感じた。その公園を越えて、また歩くと早川の住むアパートが見えた。


 アパートの中は沈黙していて、言葉を発することが犯罪を犯すかのような雰囲気を纏っていた。入口から駐輪場を抜け、多くても3人程しか入らないようなエレベーターに乗って、3階で降り早川が住む317号室に向かった。


 早川は我が家へ帰ってきた時の安堵に似た表情を全く浮かべず、むしろ忌避の表情でドアの鍵を開け、僕を中に入れた。中は特に変わったことはなく、平穏な当たり前の人が住む家、といった様子だった。こんなところに来てまで、死を選ぶとはどういったことだろうか。まさか、こんな場所で首をつるまい。


 彼女は自室に入り、何やらバッグをガサゴソと漁り、あっちやこっちや家の中をぐるぐると回ったあと「これで準備よし」と言った。「何の準備なんだ」と僕が聞くと


「自殺だよ」と彼女は当たり前のことを聞くなといった風に答えた。


「ここで自殺するつもりじゃないだろうね」


「まさか。近くに誰も立ち入らない建物があるんだ。そこでするよ」僕は、彼女が本気なんじゃないかとこの時気づいた。


 アパートからまた少し歩くと、木々が立ち並び人を寄せ付けない廃墟に着いた。「こんなところで飛び降りるのか」と心の中で戦慄したが、彼女は平然と建物の中に入ってしまった。僕は、本当について行って良いのかと悩んだ。


 人の自殺を見たい。そんなことは生まれてから一度も考えたことがない。死ぬことは怖い。いや痛みの中死んでゆくことが怖い。どれだけ世界がつまらなくても、どれだけ人生に失望したとしても、死ぬことで苦しみたくはない。あの世へは安らかに逝きたい。眠りについて、起きた時には既にあの世だった、となりたい。こんな人の居ない鳥やネズミしか住み着いていない、廃墟で死にたくはない。目の前で廃墟に入ってしまった彼女の背中を見つめて、僕は早川を死なせたくないと思った。 


 足音が下から鳴り響くとほぼ同時に周りからも音がする。人がいた形跡などは、見当たらない。


 簡素な作りの階段を上り、タイルが所々禿げている手すりを掴んで、そして気づけば屋上への扉があった。


 扉は数十年経った今でも強固に道を閉ざしていた。ドアノブは鍵がかかったままなのか、ガチャガチャと音を鳴らすのみで、その役割を放棄するばかりだった。


 しかし、その閉ざされた道は早川を拒絶しているようでもあり、招いているようにも見えた。そしてその暗闇と一体化した扉に、早川は近づいた。


 ドアノブに手を掛けると、勢いよくドアを踏み抜いた。衝撃が壁にも走り、ボロボロと欠片が崩れ落ちた。そして、ドアは屋上への道を開いた。


 たかが生命の生き死に位で、こんなに苦しむことはないと思ってた。いや、早川と出会ってしまったからそんなふうに思うのか。分からない。分からないが――せめて、目の前にある生命活動ぐらいは助けてやりたい。


「結構たかいね。下からみてると、そんなふうには思わなかったけど」


「なんで、死ぬの?」と多崎は言った。それは、自分自身も驚愕する一言だった。


「なんでって、私が死にたいと思ったから?」と言って、また少し悩んで「いや違うかなあ。私はね、いつも私のことが正しいと思ってた。私の言動だけが信じる指針だった」


「それは、なんとなく気づいてたよ」


「うん、だよね。他にも私のことを知ってる人の中には気づいてた人もいたよ。でもね、私はそれがすごく気持ち悪かったんだ」


 それは、本心に見えた。早川の鼓動と思考が自分にも分かる気がした。だからこそ――…


「なんで?」と聞いてしまった。


「私のことは、私だけがわかっていればいい。他の人に私を知ってもらいたくない。みんな、自己中でいてほしい。だって私は人のことを知りたくないのに、周りの人たちは私のことを知りたがる」


 汗が伝った。その場をしのぐ言葉を思いついた。そしてそれを破棄した。空からいつしか、雨が降っていた。僕はそれをきれいに飲み込んだ。


「全部いてくれなくていい。私だけの世界でいいのに、世界はそれを否定する。それに抗えない自分を、また少し嫌いになる」


「結局、人生ってそれの繰り返しなのかもね」


「みんな痛い思いを無視して息をするんだ」


 もう僕には何もできなかった。無言で彼女の話を聞く僕を見て、早川はちょっと笑い、その後屋上から飛び降りた。


 重い何かが潰れるような音がして、ゆっくりと下を向いた。そこには、頭から血を流し顔面を醜く潰した早川がいた。


 そして彼は、その崩れた顔面に嘔吐した。




 何日も経って、ようやく状況を理解し始めた。どうやら僕は一人の人間を、見殺しにしてしまったらしい。


 学校には何事もないように行った。そしたら、クラスメイトから「不人情だ」なんて言われた。僕の周りに居たこともなく、僕らのことを知りもしない連中が口を揃えて一つの死を悲しんでいた。


 早川はこういう状況を望んでいたのだろうか。そんなはずはない。だって早川は死ぬことを望んだのではなく、この教室に立ち込める、感情と言動の入り混じった気色悪い静粛を拒んだのだ。


「今日から、私達は変わらなければならない」と担任の女性教師が言った。


「この場所にある、少しの…一つの悪い言動が、積み重なって一つのだいじな…命をうばったのです」


 教室は静まりかえっていた。まるで、映画の感動する場面のようだ。


 嗚咽を押し殺し、誰かが「じゃあ僕達はどうすればいいのでしょうか?」と言った。それに対し担任は「私も、あなたも、この教室の一つ一つのすべてから、変わるべきなのです。そうすることで、大切なものを失わずに済むのなら…」


 僕は黙って聞いていた。


 ほんとうに感動する。なんて奴らなんだろう。まるで喜劇だ。嘘偽りなくこんな台詞を吐けるのだ。まるで夜中にやっている、つまらない友情ごっこをしている気色悪いラジオみたいだ。


 平静を装って悲しむ奴らも号泣しているふりをしている奴らもおんなじに見えた。







 家に帰ったら後悔が沸いて出てきた。私は死ななくていいとかそんな事を言いたいんじゃない。


 彼に…多崎くんに言いたいのは、後悔してほしくないってことだ。


 私みたいに死んでほしくないんだ。なんでこんなに嫌な、生死のことについて悩まなければならないんだろう。いつか、やってくる結末だから?それなら今は気づかなくていいじゃないか。私みたいな、確定している結末の人生じゃないのに、なんで彼はそうやって終わりのことばかり考えてしまうんだろう。


 ダッダッダッと階段を登る音が聞こえた。そしてドアが開いて父親が現れた。


「愛子、さっきから呼んでるじゃないか。夕飯だよ」


「うん、分かった」


「どうした?…なにか悩み事か?」


「いや?なんでもない」


 そうか、といって父親は降りていった。私も後を追って下に降りた。


 夕飯を食べてる途中、父親が話しかけてきた。「さっき、ベッドの上で深刻そうな顔をしていたから、好きな人に振られたのかと思ったよ」


「ふっ、はあ?」少しの笑いと驚きで空気が吹き出した。


「いや、なに愛子ももう年頃だからな。最近は楽しそうに学校に行っていたじゃないか」


「だから好きな人ができたんじゃないかって?」


「で、いるのか?」


「いや…別にいないよ。異性の友だちはできたけど」


「そうか。それはよかった」


 また沈黙が始まって、時間は流れた。こんなふうに父親と話すのも久しぶりだなと思った。


 夜になって自室で寝転んでいたら、ふと先程の父親との会話と多崎くんのことが同時に思い浮かんだ。もし、彼に対する感情が恋慕だったとして、それで簡単に解決する問題なのだろうか。


 それなら、ひどく難しくなったなと彼女は思った。十五年生きてきて、何度も挫折した問題だ。人を愛することの、正解がわからない。


 ましてや当事者になってしまっては。


 真実にたどり着くことが少し難しくなったような気がしながら、彼女は眠った。この世界から拒絶されるように、眠りについた。


 起きても休みの日なので、何もすることがなく、ただ窓の外から刺す光を浴びようと、カーテンを開け、無罪のものだけが浴びることのできる祝福の光を浴びた。この暖かさは罪を負うごとに疎ましく感じる。


 私はまだ綺麗に感じる。この祝福のことを。


 階段を降り、顔を洗って、歯を磨き、喉を通った食パン。時刻は七時二十七分。私は何もすることがない待機兵みたいだ。応答せよ、応答せよ。私に命令を下さい。誰でも良いので私を動かして下さい。


 昼過ぎになっても暇を持て余していたら、スマホから通知がなった。見てみるとそれは多崎くんからだった。


 呼び出された場所の喫茶店に着くと、彼は暗い顔で窓際の席に座っていた。


 一瞬、帰ろうかとも思ったが私に気づいた彼が、すぐに表情を変えて笑顔で「こんにちは愛子さん」と挨拶をしてきた。なので少しくらい良いか、どうせ暇だったしと思い彼の前に座った。


「ごめん、この前は。ひどく不機嫌にさせちゃって悪かったよ」


「別に気にしてない」私は早く、なぜ呼んだのかが聞きたかった。


「それより、なんの用?」


「うん、ちょっとね…言わなきゃならないことがあって」


 彼はあの日のあとも、あの場所で悩んでいたのだろう。私に言いたい事とは、その悩みの答え合わせのようなものらしい。


「なに?」


「僕はこの前、生きるくらいなら死んだほうがましだと言った」


「うん、言ったわね。…今でもその考えは、変わらないかしら」


「それは少し間違いだと思った。今は、違う」


 それを聞いて、自分でも恥ずかしくなるくらい顔に出ていたと思う。実際彼は私の顔を見て少し目を逸らしたし。


「ごめん、でも僕は今も死にたいと思っている……かもしれない。でもそれは、今までの死に向かうことが正しいとか思っている訳ではなくて…ただその、自分の周りにある人間の悪的部分を、嫌っていて…」


「ごちゃごちゃうるさいわね。結局なにが言いたいの?」


 彼は冷や汗を流し、手元にある珈琲を飲んだ。今は飲みたい気分なのだろう。


 店内は人もちらほら居て、話し声が響き渡ることはない。それを知る愛子さんの強い言葉が、彼の乱雑した脳の中身を強引に整頓した。


「僕はつ、つまり、君みたいな死ぬ理由が決まっている人間を羨ましく思う」


「は?」


「でも、ただ漫然と生きていけるならそうしたいとも思う」


 彼は何を言っているのだろう。さっきから言っていることがめちゃくちゃだ。私はただ彼を死なせたくはなくて、それは彼みたいな終わり方が決まっていない人間が死のうとすることがわからなくて、わからないのは彼への感情が恋愛感情なのかどうかで私は、あれ、私はなにがしたいんだっけ?


「意味がわからない。結局私を呼んだ理由はなんなの?」


「あなたは頭が良いし、人のことをその人以上に分かってる」


「だから、僕はどうしたらいいと思う?」


 彼は、私に結末を決めてほしいらしい。人の人生は物語だが、終わり方だけは作者が決めれない。決めるのは自分以外のだれかだ。


 病気や事故や他人や、環境だったりする。彼の終わりは私が決めるらしい。


 私には人を決める権利なんてない。自分のことすらもう諦めてしまっている。責任能力なんてない、早く楽になりたいとだけ思って、毎日を生きている私には。


「前も言ったわよね、私」


「ああ、だけどこの前はどうやって生きていけばいいかと聞いた。今度はちがう」


「どうやって死ぬか…ね」


「人はいずれ死ぬ。だから、決めてほしいんだ。いずれくる…予定調和のような死を望むべきか、それとも身勝手のようにみえる死に方をすべきか」


「じゃあ私と一緒に生きて」


 彼は「え」と面を上げた。瞳はゆらゆらと私の姿を収めていた。


「毎日を退屈に生きて。寝て起きて、味がしないおんなじものを朝食に食べて…不自然なほど何も無い一日を私と一緒に、死ぬまで生きて」


 面と向かって初めて私の本音を伝えた。言うはずの無かった言葉は空気のように軽く口から漏れ出て…それでいて彼と彼の周りの空気を激しく揺らした。


「僕はそうすることで、どうなるんだ?」


「私みたいな人間になるよ」


 それは嫌かも?と顔に出して彼は窓の外を見た。私もつられて見ると、外は空が濁り今にも雨雲がでてきそうな色をしていた。


 二人で空を黙って眺めていた。そのうち雨が滴り落ちた。流れてゆく雨粒がねずみ色の電柱に降り注ぎ流れ、数々の足跡を映してきたカーブミラーや鳥が停まる瓦屋根から歩いていく傘の頭にぶつかってゆく。そのさまを眺めるごとに、また一分また一分と時間が過ぎてゆく幸せを感じていた。


 そして雨が止むまで二人はそこにいた。彼も彼女も満足げに日曜日を過ごした。


 





 足元を濡らしながらも、多崎は満足げに水たまりの道を歩いた。


 前の方から急ぎ目に車が走ってきていて、避けようとしたが間に合わず、泥水が散ってきた。傘で少しは弾いたが、それでも彼のお気に入りの上着が少し土色に汚れてしまった。


 この飛び散った水滴もやがて乾き朽ちていくように、自分の頭に依然として残るこの感情も眩しく光る太陽によって焦がされ、死んでいく。


 雨で増水した川の上を繋ぐ橋を渡り、何気なしに勢いよく流れる水を見た。


 結局のところ僕は人生に行き詰まっていただけなんだな。晴れやかな出来事だけが起こり続け、生きるだけで幸せになれるはずと思っていたらしい。頭の中で創る未来と現実との乖離が、ここ数日の僕の一辺倒な思考を起こしていたのだ。


 そうだ、浮かれてたんだ…只々。愛子さんの言葉で目が覚めた。死ぬことばかり考えていたら生きる理由も見つからない。


「ふつうの生き方ねぇ」


 彼は足元に落ちていた小石を川に投げ入れた。空気を貫き落ちていくさまは、一つの理想的な生き方に見えた。小石を落とされた川は水しぶきをぽちゃんと上げ、すぐに何事もなかったようにまた元の状態に戻った。


 真に実在する社会とは、この川のように小石を投げ込まれても何事もなく世界を動かすものなのかもしれない。とするなら――恥ずべき行いをした誰も彼もが、その尊い命を小石と変え、生涯を虚無に身を落としたということなんだろうか。


 多崎信朗たさきしんろうが十六年も世界に存在し続けた理由は一体何なのだろうか。


 彼は悩みながら歩いていた。歩いて悩み、悩み歩いた。足が止まることはあっても、脳が止まることは無かった。


 やがてすぐ家に通じる路地裏を歩いていた時、小さな声が聞こえた。猫が蹲って何かをしていた。近づくと猫は驚いて逃げていった。


 猫がいた場所を見ると死にかけのねずみが手足を時折動かし、体を痙攣させていた。右肩を噛み砕かれたのか、動かしているのは左半身のみであった。


 彼はそのねずみを何もせずただ眺めていた。思えば自分は今迄何もしてこなかったのだ。考えぬまま早川は目の前で死んでしまい、考えぬまま地元の中学から地元の高校へ行き、そこで愛子さんに出会い今日迄おんぶにだっこで道程を歩んできた。


 そんな自分が今更何をしようというのか。ここで死んでしまい朽ち果ててゆくこともまた、あるべき命の形なのだ。


 またも雨が降ってきた。勢いは強まり、濡れた服は肩を瞬時に重くした。路地裏の狭い空間の中、木の塀とコンクリートのブロックとねずみと男。ここに在るものは軒並みごみばかり。何の役にも立たない掃き溜めだ。


 命を失いかけながら雨で体を濡らしていくその小さな命が、急に愛しく思えたのか持っていた傘を開いて、ねずみがいる地面に置いておいた。


 せめて濡らさずに生きていてほしいと。彼はずぶ濡れで路地裏を歩いていった。


 帰って体を拭いて自室の窓から外を眺めていた。まだ雨は降っていて勢いを強めていく。ねずみのことが心配になり、寝巻き姿で傘をさして歩いていった。


 路地裏に着くと傘はまだそこにあり、ほっと胸を撫で下ろした。傘の下を覗くと、ねずみは既に息絶えていた。


「しんじゃったのか。お前」


 傘を閉じてねずみをよく見るため屈んだ。背中の冷たい感触を感じて、ねずみの死に方を思い浮かべた。こいつは幸せだったんだろうか。


 彼は苦しみながら死んでいったねずみをかかえて歩いた。どこかに墓をつくってやろうとしたのだ。誰にも知られない命の終わりを、何処かで鎮魂させてやりたかった。


 彼はそこで、ネズミの死を経て命の終わりというものは実際、あっけなく始まるものなのだと気付いた。


 知らぬ間に始まっていた命だ。いつ終わっても不思議ではあるまい。


 ねずみに自己を投影させたまま、路地裏から道路に出て墓の場所を探そうとした。


 しかしその瞬間自身の視界が大きく揺れて動き、回転した。体に強烈な痛みが回ったかと思うと肉体が宙に浮いた。


 自身が感じたことのない痛みを覚え、考えも及ばぬうちに3m程吹き飛ばされた。頭が地面にぶつかり、空が何度も視界から消えた。


 血と肉と骨で出来た脆い体のパーツが取れてしまったように感じた。空から降っている雨粒が冷たいと思った時、漸く自分の体に何が起こったかを気付いた。


 車のエンジンの音が聞こえ、足元からなにか叫び声がする。


 頭を上げると白い普通車のバンパーに血がこびりついていた。「あれ何の血だ?」と思って体を見ると右肩から大量の血が流れていた。あと思って立とうとするも何故か立ち上がることができない。脳と体の神経が切り離されたかのように感じる。


 右腕も動かすことができず立てもしないため、彼は地べたに寝転がった。そして段々と痛みがし始めた。何故か急に眠たくなってきた。瞼が異様に重たい。


 雨音で周りの音が聞こえなくなり、ぼやけた視界の自身の心臓の音だけが鳴り響いていた。事故ってこうなるんだ。頭を打ち朦朧とした意識の中、目の前のぼやけた視界で映る車から飛び出てこちらに話しかけてくる男性と後部座席から降りて通報をしている女性だけが見えていた。


 そして彼はすぐに意識を失った。


 思考が暗闇に落ちる直前、彼が最後に思ったのはねずみの墓のことだった。

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