3章:自殺
「謙虚も慎ましさも、善人になるための道具で。私、本当の悪人は善人の皮を被っていると思うんです」
彼女のそんな話を聞いたのも、2年前のことだ。僕が中学2年生の、阿呆で未熟な人間だったころ。
彼女は、いつも卑屈な態度で周りを見下して生きている、亀虫のような人間だった。そんな人間だったから、友達は一人もおらず、いつも一人でいた。だから――あの時話しかけてあげたのは僕の、優しさだった。
□
「あの日のことは、全部本心だったの?」休日、公民館の近くの公園で多崎くんと話をしていた。多崎くんは、まるで従兄弟の子が泣いていて、それをなだめているかのように、淡々と話し始めた。
「本心じゃなかったら、僕は笑顔であそこの遊具で遊んでいるよ」
「子供みたいね」
「子供だよ。だから死にたいなんて考えるんだ」
「そうなの。だったら、私も子供ね」そう、子供だった。だから、あの日も「死にたい」と言った彼に同調することで、彼を救おうとした。
本音じゃない、と言ったら嘘になるけど。でも簡単にそう言えない。なんであの日はそんな簡単に言えたんだろうか。普遍的な夜のかがやきがそうさせたのか?私は、あの日の夜から抜け出せていない。彼を救えていない。
「君まで付き合うことなかったのに」彼は悲しそうな目でそう言った。
「付き合うんじゃない。私が私をどうするかなんて勝手でしょ?今はそんなことより、何をしたいかなんじゃない?」本心と嘘が混じり合う、恐らく最低な言葉を吐いた。しかし、それでもそうしたかったのだ。彼が言う、『死』はありえない程簡単に実行できてしまう。大変な事象で、用意に達成できる。ならば私にできることは、ただ一つ。死ぬ気で彼を死から救うことだ。
「何をしたいか…僕は今まで何をしたいかなんて、考えたことがなかった。それは単純に生きることがつまらなかったからだ。本当に楽しいことは、生きていくうえで見つからない」
「そうかな。私達が生きてきた時間なんて、ほんの数年だ。人生に意味を説くことなんて、出来たもんじゃないよ」
「いや、わかるんだ。きっと世界は思ったより単純で、醜く、そしてくだらない。公園でブランコするみたいに、空虚な時間が流れてゆく」
決して同意はできない。それだけくだらない世界なら、皆もっとつらそうにして生きているはずだ。苦しい世界なら、皆生きることを諦めているはずだ。でも彼の言うことに、すべて否定することは出来なかった。だって私達は所詮数多ある生命の一つで、この世のことを理解するにはあまりにもちっぽけな存在だからだ。ならばどうしたら、どうしたら人は生きることに価値を見いだせるのだろう。
「私は、公園でブランコするくらいなら、いっそ公園から出てって外の世界を見に行くよ」
「そうだ。そしてそれこそが死なんだ。よくある人生の素晴らしさなんてのは、それを信じなければ生きていけない弱い人間の防衛で、僕はそれをするくらいなら生きることを諦める」彼こそ、弱い人間の象徴だ。そして私も。生きることを諦めるということは、人間に代々受け継がれてきた強さを捨てるということだ。
私は座っていたベンチから立ち上がり、すべり台へ向かった。後ろから、多崎くんがついてくるのが分かった。
軋む音がすべり台へ上がる、階段から響いた。それはかなり大きく、私は後ろを向きこう言った。
「これは、私のためじゃなく階段が古くてボロボロだから、鳴ったんです」そう言うと、多崎くんは当たり前のことをさも大事そうに伝えるなぁ、といった表情で、おかしそうに笑った。
頂点に上がり、少し高くなった目線から木を見つめ、そこへ住む虫や鳥なんかのことを考えた。私達が今行っている、死ぬ死なないという話題は彼らからすれば果てしなくどうでもいいことで、それを必死になって悩んでる人間のことを馬鹿にしているのだろう、と。しかし鳥くん、私達だって愚かじゃない。いつかはこの問題も自分たちでくだらないということに、気づくよ。でもね、それはずっとあとの話であって、今私達は悩んでいるんだよ。だから今を必死に生きている私達にとって、これは凄く大事で苦しい問題なんだ。それが伝わったのかどうか、鳥は木から飛んでいった。
それを横目に多崎くんはぼぉっとした様子で、何かをじっと見つめていた。それは、公園に来てブランコで楽しそうにしている親子であった。先程の会話を思い浮かべると、それにも何か意味があるのではと思ってしまったが、多崎くんはそんな思惑など一切無いようで、穏やかな顔持ちで見ていた。
「僕だってさ、死なずに生きていけるならそうしたい。でも、生きていくためには死んだほうがましな事が多すぎる。そういうことに直面した時、どうしたら死なずにいれるだろう」彼は、なにか今までの人生であったのだろうか。死ぬに値するなにかが。
そこでふと――なんてことなく、ただふと。
「私は、もう長くないんだ。病気で、あと3年も生きられない」
「うん、知ってた」
「これは死ぬに値する問題かな」
「さぁどうだろう。少なくとも、生きるに値する行為はそう出会えるもんじゃないからな」
それから少し黙って、多崎くんは言いづらそうに言った。
「ごめん。君が死ぬことは、知っててそれを見て見ぬふりをした。僕のことを気に入ってもらうために、それを後回しにした」苦しそうに、言った言葉は案外、想定していたものだった。なんの特にもならない、私と仲良くするという行為は他の思惑があるからだというのは、予想していたことだった。
「でも何で?」
「君はずっとこの世の中をずっとつらそうに生きていて、それで――なんだろう。分からないや」
「うん、でも私はいつも一人だったから、そう言っても仲良くしてくれたのは嬉しかったよ」
「ごめん、ありがとう。そう言ってくれて、少しは良かったよ」
二人は楽しそうに、笑った。公園の隅っこで話す老人たちも笑う、その声が耳から入り、すり抜け、体内に巡った。可笑しさは私達のことについてか、人生についてか。分からないが、私たちの道は他の人より面倒臭いものとなっただろう。
公園から出て、二人は何をするか決めかねていた。脳を働かせ、決めたのは近くの図書館に入ることだった。この中の膨大な本は、私達に救いをもたらしてくれるかもしれない。
「死ぬって言っても、どう死ねばいいのかな」図書館内で多崎くんが、声を小さくして話した。
「Googleとかの検索エンジンで調べると、大体心の健康相談みたいなのが出るわ」
「なら前例だ。いかにして若者が、死を選んだのか調べよう」
少し楽しそうだった。もしかしたら、今までの人たちも楽しんでいたのか。そうするしか、前を向いていられなかったのか。
「自殺、若者、方法、…なかなか無いな」私もキョロキョロと探してみたが、あまり見つからなかった。自殺というとそれを示すより、知らないままで居てくれた方が、都合がいいからか。あったとしても、何故若者は自殺するのかなど社会での傾向から自殺の意味を問う本が多かった。でも、理論的に問うなら自殺なんて選ぶ人は少ないんじゃないのかな。しかし生きる理由も――そう思っていたら彼が何かを見つけたようで、私を呼んだ。
それは自殺する方法についての本だった。
「この本によると、今最もポピュラーな死に方は飛び込みで、理由は準備や手順に手間取らず簡単に死ねるからだと言う」
「ニュースでもよく耳にするしね」
「逆に自殺するうえで最も選択してはならないのがクスリ。市販で手に入れるにも何万とかかる上、最低でも300錠以上服用しないといけないし、一週間以上苦しみ抜いて死ねないケースがほとんどだという」
「へえ、そうなんだ。まぁ医療の進化もあって市販の薬でも安全性は重視されるし、何より自社の製品で自殺者が出たとなると、経済的損失は免れない」
「つまり、クスリで死ねない様対策されているというわけか」聞いたことがある。安らかな死、どころか致死量の市販薬を飲んで、呼吸困難や腹痛で苦しみ抜いて、脳に後遺症を残して生き残るんだとか。
「それなら、死ぬことはほぼ不可能だろう。それに比べ電車での飛び込み自殺は、どこの地域でもある電車のホームでタイミングを選んでぶつかりに行くだけ。実にローコストだ」
「でもそれなら、電車の飛び込み自殺も対策されてるんじゃないの?」
「それはある。人身事故なんて起きたら、交通の妨げになるし。何より何度も起きたら被害額も尋常じゃない。そうならない為に駅側も警備員なんかを配置して自殺するやつが居ないか注意してるだろう」
いつか、電車で人身事故が起こり遠出が中止になったことがあったな。その時は小さかったからわざわざ駅で自殺するなんて、迷惑だとは考えなかったのかと思った。そりゃあ自殺する側からしたら、逆に飛び込み以外で死ぬなんて嫌に決まってる。だからといって、私が自殺するとなった時飛び込みを選ぶか?自分の手足がバラバラに飛び散り、それを眺めながらあの世へ行く。う〜ん、嫌だな。
「でも、飛び込みはちょっと。キツイな」
「そうなの?まぁ私もそう思ってたけど」
「だって幾ら自分が死ぬだけとはいっても、周りの被害を考えると。僕の体を、グチャグチャになった体を見る羽目になる人たちやそれらを対処する人たちが可愛そうだし」
「まあね」
死ぬことより、怖いことはいくらでもある。それらの事を自分たちが引き起こしてしまう可能性もある。結局、私達は死ぬことを正当化しようとして、でも周りの人が死ぬ理由になりたくなくて。卑怯な人間だ。生きることを他人に強要している。
「死ななくてもいいんじゃないかな」私は彼にそう言った。彼は驚いていた。
「君は死にたいんじゃなかったの」
「アレは嘘。あなたを死なせたくなくて、言った嘘。本当は私より先に死ぬあなたが許せないし、死なずに生きていても許される人間なのに、自ら死に向かおうとしてるあなたを馬鹿にしているの」
本音を、叫んだ。小さな声で。ひっそりと口から放たれたそれは、なにか意味を持って出たものではない。私の声で出たその言葉は、誰かの伝えたい言葉なんじゃないだろうか。例えば彼の両親とか。
「必要とされていないんだよ。誰からも。世界からも。なら、どうしたらいいんだよ。僕はどうやってこの人生を生きていけばいい?」彼は心底辛そうだった。そして私は、その状態の多崎くんを見るのが辛かった。何故辛いのだろう。始まりは何だっただろう。挨拶だ。彼の挨拶は、丁寧でもなく、愛想があるわけでもなく、普通の善良な挨拶だった。でもそれが、私の生きる理由になってた。必要なのは、人で、言葉で、合うたびでてくる挨拶だった。
「知らない。生き方くらい、自分で決めたら?私は貴方の母親じゃないし、神さまでもない」
「神様だったら、僕を救ってくださるのかな」
「さあ。神様が、居るとしたら、私は縋りたい」
人の中にある哀しみや、悪意を人は赦せない。それらを赦せるのは神だけなのかもしれない。
私は何も知らない、私は何もわからない。
等しくこの世にある、全てがいつの間にか消えてしまったら。私は何をするだろう。死ぬかな、意味もない死なんだろうが。
「ごめん、出る」私は彼をその場において、図書館から出てしまった。外に出ると、先程のことがひどく悪い事のように思え、振り向いた。多崎くんは追いかけて来なかったので、家に帰った。
■
やってしまった。愛子さんを、ひどく不機嫌にしてしまった。そんなつもりはなかった。ああ、すまない。しかし、無理だ。僕は彼女と生きていたいがそれは無理なんだ。あと何年か経てば彼女は、この世から消えて空の向こうへ飛び立つ。歪みのような僕の感情は止まらなかった。図書館の本を眺めながら、いつかのことを思い出していた。
中学2年生のことだったか。僕の場合、あの場所はあまり好みではなかった。つまらない人間しかおらず、寝ても覚めても同じようなことを喋る先生。蔓延る若者特有の世界が、気色悪かった。一人一人の名前も覚えておらず、記憶に残る人間は誰一人として―――いや、彼女が居たな。
早川はクラスの「人気者」だった。いつも周りを見渡しては、ほくそ笑む。気持ちの悪い少女だった。ある日彼女が、給食の配給係だった時一人にだけ明らかに量を少なくしていた。その人が「なんで私にだけ少なくするの」と聞くと「前にあんたが当番だった時、私の時に量が少なかった」と返した。それから彼女は、誰にも話しかけられなくなった。愛子さんとは真逆な、常に周りを気にして生きる人間だった。
彼女と話すようになったのは、僕が挨拶をするようになったからだ。そうすれば、彼女は僕に興味を持つかと思ったから。
「あんたは変だね。私をどうしようとしているの」と一度聞かれた。
「別に何も」と返したら、仲良くなった。
一人でいる人間は、また別の一人でいる人間と親しくなる。彼女と僕は一種の共生関係だった。ある日、特に親しくない男子から「お前あんな奴と付き合ってても自慢にならないぞ」と言われた。
「親しくなることが、そんなに珍しい?」
「はあ?男が女に近づく理由なんて明らかだろうが」
その頃の男子なんてのは、いつも女子と付き合うことばかり考えていて、それがステータスになるようだった。振られても、ステータスになったし、何ならそうあることで他の人間より充実した人生を送っていると示したがっているようだった。
もちろん皆がそうでは無かったが、僕の前に現れた人達はそういう人種だった。
「健全な男子なら、誰でもセックスしたいだろ?」そういうやつは皆仲間内で下品なことを話し合う。「意思を奪われたのか。人間じゃなく、もはやサルだな」そう言うと、僕も一人になった。
14年生きて気づいたのは、人は人と慰め合って生きていて、そして関係は人生を縛ると。僕と彼女の間にあるのは、何なのか。この関係は、友人なのか。それとも…
「普段、何して過ごしているの?」休み時間に僕は早川に聞いた。
「え?はあ、YouTube見たり」
「そんな俗物的なもの、見るんだ」
「え、まぁ見るでしょ。なんでこんなこと聞くの」
「何でだろう。眼の前にいる人間が、自分と同じように生きているかが、気になったから?」
「なにそれ」彼女は、にやにや笑った。その不気味さが妙に僕を安心させた。
人と人との距離感、というものがある。それは人によって変わるもので、間違えてはいけない存在である。大事なのは、距離感そのものではなく、相手に近づく理由が正しいかどうか。しかし人間関係はそれだけでは成り立たない。彼女とはその距離感のつかみ、練習をしていた。会話という行為は、一番手軽なコミュニケーションであり、一番重要なものだ。
彼女は、早川は僕に対しどんな距離感を必要としていたのだろう。あの時僕が感じていた、彼女の感情。それは、共感――もしくは同族嫌悪か。
「世の中の人間の大半は善人の皮を被った悪人で、私達は善人にも悪人にも属さない。一番純粋な人間だと思うんです」彼女は、この言葉をいつも会話に用いた。それが、彼女の信条だったのだろう。
「なんで僕も入れたんだ?」と聞くと
「似てるから。それか、私の言葉を上手く受け止めているフリをしているから」
「それで本当に、僕らが純粋だと呼べるのか?」
僕は、彼女言うことを半分も信じていなかったし、信じる必要もないと思った。彼女はよく居る自己以外を徹底的に間違っていると思う人間で、僕を己のなかに入れたのは、彼女が僕を友達と認識していたからだと思う。
彼女は僕のことを信用していて、僕を自分の意志で手に入れた存在だと思っていたのだろう。
だから、僕のことを誘ったのだろう。
自殺に。
春降る日、僕の下へ裸足でかけてきた。家の前で楽しそうに笑っていた早川は、まるで遊びに行くように自殺に誘った。
僕は面白そうだったからついて行った。その事を、僕は今まで後悔し続けている。
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