2章:本当のこと
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私の根底にあるのは、いつも「諦め」だったような気がする。父親が転勤族で私の環境がドンドン変わっていく時も、勉強や運動で自分の実力が周囲に広まる内、明らかに優しい声の掛け方をする人が増えた時も、どれだけ努力しようとも覆らない自分の死期も。
果たして、この世の中でどれだけ多くの人々が私と同じ様な境遇に立つことがあるのだろう。多分、そんなに珍しいことじゃない。私がこれまで生きてきた道程は、決して無駄だったわけではないだろう。
死ぬことが怖いわけではない、他の人もそうだろう。死ぬという事象そのものより、自分がこの世から居なくなることによる周りの環境の変化、及び残された人々への罪悪感から、人は死ぬことを恐れる。
私は別に周りのことなんて気にしないし、そもそも自分が死んで悲しむ人間があまり思いつかないし、食べるとか寝るとか、生物が生物である理由とか、そんなのが無くなるだけで、私という存在がなにか変わる訳では無いし。
言い訳に思うだろう、これは実際言い訳だ。根拠や理由をもとに考えると、死ぬことが怖くなくなる。でも現実は言いようもない不安がある。それは、単純な不変への執着のようにも思えるが、そうじゃないだろう。
私が、空を見るとき空は早くここに来いと言っている。空はあの世に一番近い場所だ。この世から追い出され、あの世から呼ばれている、私は。
ピピピピピピッ 軽快で不愉快な電子音が頭に鳴り響き、重たい身体を持ち上げる。私は
顔を洗うと、眼の前にある鏡台を眺める。後何回、この景色を見ることになるのだろうか。光沢を描く、その反射板は眼の前にいる陰鬱な顔をした生物を映している。「お前も大変だなぁ」と独り言をこぼす。
朝はパン派な女子高生が、食パンをオーブントースターに入れると、珈琲を啜りながらその人の父親がやって来る。
「お早う、愛子」彼はいつも光らしている眼鏡を掛け、女子高生に挨拶をする。
「お早う、お父さん」彼女も挨拶をする
「遅刻しないようにな」柔和さを交えた顔で一言言ったあと、ネクタイを少し確認し、「いってきます」と家から出ていく。彼女は「いってらっしゃい」と返す
型式でしかない朝の任務を終え、暇を噛み潰すように彼女は焼けたパンを取り出し、珈琲を沸かす。情報を煮詰めた新聞紙を読みながら、朝食を済ます。これが、彼女の日課。
「いってきまーす」誰に聞かせるわけでもないその挨拶を、人一人居なくなってどこか淋しげな我が家に放つ。鍵を締めて前を向くと、もはや白い吐息を放つしかできなくする寒波が、彼女を覆う。
寒い、口に出したところで気温が高まるハズもないが、するりと声に出してしまう。太陽が仕事を放棄した冬では、温かみなど期待するだけ無駄である。
やけに眩しい朝焼けが、歩く度漏れ出る暗い心境をより一層暗くした。一歩進むごとに動く影が、濃くなっている気がする。どこか、悩みがある心ではないはずだが、毎日の終わらない生活の檻に嫌気が差したのか。
朝から何も生産性のない考え事をしたおかげで、いつの間にか眼前に校舎が佇んでいた。有象無象の我らが、錆びついた門をくぐり抜ける。白い息が蔓延った校内で、隣の人と話す人間たちの間をスラスラ通り抜ける。決して友達が居ないわけではないのだ。
ホームルームの教室には、まだ担任は来ていない。いつも遅く教室に入り込む教師など、どうでも良い。良くないのは彼だ。名前は
彼は私が着くより早くこの教室に居るらしい。今まで、彼より早く教室に着けたことはない。着く気もしない。決して得なんてないことを続けている彼は、こちらに気づくと少し頬を緩ませ、
「お早う」と挨拶をしてくる。私はそれに「お早う」と返す。私も少し笑む。
この前私達はデートのために街にくり出した。勿論デートなので二人きりだ。街で、プラプラと歩き服屋や喫茶店なんかにも入ったりした。結構楽しかった。でも恋人同士ではなく、どちらかと言うと友達の方が近い、そんな交友関係である。
挨拶はしても特に話すことはない、だけど別に気まずくはならない。良くも悪くも互いに踏み込まないこの関係は、私にとってもの凄く貴重だ。だから
「友達は居ないわけではない」という事なのだ。今はそれが良い。
たった一人の友達は、私の視界に映る席に座りながら、肩を震わせていた。全く滑稽だなぁ。だから、得なんてないのだよ。早く、それに冬に教室に着くことは。ぼちぼち人も増えてきた教室内は、そろそろ誰かがエアコンを付けるだろうという期待で満ちていた。
私はそこでようやく重たい腰を上げ、滅多につけない教室のエアコンを付けた。クラスメイトでしかない人間たちは、こちらに気づかれないようにコソコソと様子を窺う。だから嫌いなのだ。
しかし、その中には我が友人の視線があった。その視線を辿ると、彼は笑みを浮かべて「ありがとう」と口を動かした
でも、声には出てない。私はガラになく嬉しいと思った。
温風が教室内に充満し、私の冷え切った肉体を融解し始めた頃、ガラッと教室の扉が開き冷風と共に担任がやって来た。寒がるポーズをしながら。
「また、遊びに行きたいな」多崎くんが昼食を食べながら私に話しかける。それに対して私は口の中で噛んでいた米を飲み込んでから、会話を返す。
「そうね、今度はどこに行きましょうか」
「映画館なんてどう?」彼はずっと言いたかった言葉を口から出す。
「観たい映画があるの?」
「うん、じゃあ今週の土日…どちらが空いてる?」
それを聴いて私は少し不機嫌になる。どちらも別に予定はないが、なんとも彼に対しそれを言うのは癇に障る。どうしたものか…ちょっとだけ考えてこう言った。
「貴方に合わせるわ」
良い台詞だ。これだと、どちらかに予定があるが、しかし彼のためならと暇を作ろうとしている。…様に見せれる。
「あ、そう。じゃあ日曜日はどうですか?」
「うん、いいわよ」あれ?思ってたよりあっさりしてしまった。
そうしてまた一日が終わり、彼と挨拶を交わし、帰路につく。六日後を楽しみにしながら。
すると空から白色の粉が舞い落ちてくる。初雪だ。周りにいた学生や子供が「わっ」と声を漏らし喜びを隠さない。
私は昔から、雪が嫌いだった。見てくれは気持ちの良い妖精みたいだが、その正体は冬の寒波を連れて来る害虫だ。
家に帰るとようやく安心する。外付けの感情を顔面から剥がし、ため息とともに顔に入った力を抜く。
学校が嫌いだ。私の価値をすぐ値踏みしたがる。でも、彼がいるあの場所に私は存在していたい。いつかは私もあんな人間になりたい。
そう考えてすぐ、彼女はあることを思い出し、また顔面に力を入れる。そうだ、いつかなんて私には無いんだ。
階段を上がり、自室に入る。肩に乗った荷物を放り落とし真っ先にベッドへ近づいて行った。身体の力を抜き、バックからスマホを取り出す。
スイスイと泳ぐように画面をスワイプしていき何も考えずにLINEアプリを開いた。そうだ、彼にLINEしよう。
開いてすぐのトーク欄に彼の名前を見つけ、文字を打ち込む。
「今日言ってた観たい映画って何なの?」すると何秒か経って「死に体のぼくら」と返信が来る。
「それ、どんな映画?」
「男女の若者二人が、自殺を遂行しようとする話」
「なんで、その映画が観たいの?」それを送ると、今度は少し時間が経って、
「よくある話だから」
■
ピーピーピー 朝っぱらから不愉快な夢を見たせいか、今日はいつもより目覚ましの音がうるさい気がする。そう思いながら、携帯のスマホを操作し、アラームを止める。
今日は待ちに待った日曜日。そう、愛子さんと映画を観に行く日だ。考えたら段々、嬉しくなってきた。無理もあるまい。
ベッドの上で誤魔化しの聞かない欠伸をし、寒い空間から足早に出ていく。顔を洗うと、眼の前の鏡でいつもより長めに自分の顔を見つめる。それは別に自分の顔で彼女を落とせるかな、今日は少し肌の調子が悪いナ。なんて反吐の出る考えに及んでいる訳ではなく、ただ単に汚い顔で彼女の前に現れることが、僕の頭に住む美学が許さなかったからだ。
たぶん、彼女は僕に恋愛的感情を持つことはない。これからも。では何故、こう何回も休日に二人で遊ぶなんてことがあるんだというと、それはおそらく友達だからだ。僕と彼女の間には、いつの間にか出来た友情の線があるのだ。それは、喜ぶべき事だ。
愛子さんとの待ち合わせは九時。場所は前と同じだ。冬の寒空の下で彼女を待たせるわけにはいかない。その為、早めに家から出る。
待ち合わせ場所に着いたと同時くらいに、愛子さんも到着した。どこか落ち着かない様子で、
「私のほうが早く着くと思ってたのに」と口にした。無論、この様な事を自慢した覚えは無いのだが、愛子さんは僕が毎朝学校に早く登校していることが気に食わないのだろう。
話しながら歩いていると、すぐに映画館が見えてきた。今日観たい映画はあと三十分ほどで始まるので、チケットを買いに行く。
映画館内では、やはり日曜日だからか人が多かった。ぞろぞろとチケット売り場に並んで、今日観る映画の話をしている。
この作品の監督は前にどんな映画を作ったかだの、予告編で見た人物像についてなど、楽しそうにしている。
私はこの映画が楽しみではあったが、愛子さんも楽しみなのかは分からない。もしかしたら、興味がない映画を見ることになるのでは?そう思うと、段々不安になってくる。
ちらっと彼女の方を向くと、「ねぇ、予告編で見た主演の演技、かなり良かったわね」と笑いながら言ってきた。それに僕は、
「ヒロイン役の人も良かったよ」と返した。
シアターの席は彼女の隣を僕が、もう一つの隣は空白になるようにした。僕の隣は居なかったが上映の時間になり、シアターに入ると僕達のあとでチケットを購入した人がいたようで、僕の隣は両方埋まることになった。
彼女の隣は僕一人だった。アナウンスとともに館内が暗くなると、愛子さんは僕の方を向いて、ニコリと笑った。
それを僕は暗闇の目の内で、長々と反芻していた。他の映画の予告や広告など流れている眼前で、僕はいつまでも目を閉じていた。
映画が流れ始めた。冒頭から、主人公と思わしき人間が、首を吊ろうとしている。目には光が無く、ボサボサの髪の毛は脂ぎった様に見せ、閉めるのも面倒くさくなったのか口はだらんと開けている。らしい人だな、なんて感じた。
その人は灯りのついてない部屋の中心に、椅子を置き、ロープを持ち、どこかに吊るしてしっかりと結んだあと、自分の首に掛けようとする。
初っ端から、人が死ぬわけ無い。どうせ失敗する。そう思う矢先、バキっと音を鳴らし、主人公が転げ落ちる。ほら。
主人公はうめき声とも、泣き声ともつかぬ声を発し、うずくまっている。すると、電話の着信音が鳴り、主人公がそれを取る。話し始めた。そして場面は展開し、ヒロインの視点へ回る。
成る程、こんな感じか。恐らくこれから、主人公とヒロインの掛け合い、周囲の環境の酷さ、不幸の連続、そんな部分を通し、彼らにとって生きることは辛いことであり、死こそ救いなのだと。そんな描写がなされる筈だ。
実にくだらない。こんな物で、自殺の本質を判って貰おうとしているのか?こんなありきたりな、過剰演出で、露骨すぎて、クサすぎる、そんな映像では本物の死と言うものを、観客に理解させる事はできない。本物の死と言うものは、もっと身近な日常の、影の中に張り付いている物だ。
僕ならもっと、もっと…
「リアルに観せれるのに」
□
なんて?何て言った?映画の話では無い。スクリーンでは主人公とヒロインが他愛もない話をしている。そうじゃない。隣の、親愛なる友人からだ。
「リアルに観せれるのに?」何を言っている?映画の話か?スクリーンの映像技術が素人目から観ても稚拙すぎて、ろくにカメラも握ったことの無い腕で、豪快な手腕を披露したいと考えているのだろうか。
そんな訳無い。第一、もっと違う意味を持っていた気がする。そんな訳無い。そんな訳が…
横を見た。彼を見た。目線は前を向いている。だが思考だけ、宇宙に放り出したみたいだ。ここじゃ無い何処かで、自分では無い何かと会話している。判らない、どんな思考をしている。
いや、そもそも判る必要はないのかもしれない。誰だって、知られたくない事の一つや二つある。それが、その思考の欠片がぽろっと口から逃げただけかもしれない。
暗闇の空間から音が響き合う。映画の中にいる人物達。その人達の声、吐息、足音、叫び。ここに居る人たちは、皆眼の前の娯楽を摂取している。眼前の映像内の人間たちは、また違う人間を演じて、表現をしている。
映画館というのは、この世で最も多数の思惑が一つの空間に混じっている場所だ。ここでは、隣の恋人に映画が終わったあと何を喋るか考えている者やフィルマークスのレビューに書くために自分しか気づかない描写を探している者、そして自分が死ぬ瞬間を映画にしようと考えている者。
俯瞰して物事を見てみると、ふと人生が無意味に思えることがある。隣りに座っている君は、君自身が君を蔑ろにしていることに拘っている。
「駄目だよ」か細い声で話す。
「自殺は駄目」
少し間をおいて、「なんで?」
「なんでって、それは、駄目だからだよ。君は人生に意味を説くタイプ?」
「いや、うん…」会話が終わる。眼の前の映像に集中する。多分、彼も自分では思わなかったことなのだ。死ぬということが。
私は、映画の内容が頭に入ってこなかった。
「この後はどうする?」映画を見終わり、外に出たあと彼はこう言った。私は、頭が痛かったのでこのまま帰ることにした。
夜道にふたりで歩いていると、私の頭の中を除くように、多崎くんが声を出す。
「今日はごめん」
「何が?」
「映画のこと。あれ、あんま面白くなかったね。失敗したなぁ」違うだろ。そうじゃない。
「私は、結構楽しめたよ」嘘だ。内容なんて覚えてない。
「あ本当?良かった。僕はさ、結構邦画が…」
「やめて」本音を隠そうとするのを。
「何が?……いや、その、ごめん」
沈黙する。空気が重い、苦しい。言えばいいのに。本当のことを言えばいいのに。そうすれば、私だってもっと優しく言葉を返すし、こんなに嫌な思いをすることもない。
夜空に浮かぶ雲が月を覆い隠す。薄汚れた電柱の側に、捨てられた空き缶や工業廃棄物の成れの果てが落ちている。間違ったことを叫ぶだけで救われる命があるのに、今私は何もできない。黙るだけで何もできない。
「僕がさ」
「え?」
「僕がさ、映画館で言ったこと。忘れてくれていいよ。意味もない唯の戯言だから」
「意味はあるよ」
「どんな?」
「私が今思っていることは、その言葉のせいだから。意味はある」
「何を思っているの」
雲が月を手放した。私の存在が光で意味を帯びてゆく。脳から手の先まで、ゆっくりとした命の波が赤になり、血になり、こうして私を動かしている。意味はある。深い意味が、ある。
「だって私も死のうと思った」
言うつもりはなかった。生きることが辛いことでも、死ぬよりはマシだと思ってたから。でも同じつらいなら、せめて自分の意志で道を選びたい。つらい、好きな道を。
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