第6話ナミリの手紙

◇1996年6月14日(金)

オギソさんは悩みの種だ。この上、工業の先生をひきこむと…。


⇒まだ言ってる。


6「アジア女性基金」(2)

1⃣慰安婦の全体像

1)名乗り出た元慰安婦数

国名     人数   (出典NHK、ETV特集1995年12月13日放映)

北朝鮮    260  現在名乗り出た元慰安婦の総数はNHKによれば7145名

韓国     164 インドネシアの場合、川田文子の現地調査によった「朝日新

台湾      32 聞」1996年1月14日付)報道によると1万6884人に増加 

中国      11 川田調査に基づけば、総数は1万7683人になる。

フィリピン  162 インドネシア(ジャワ島)駐屯の日本軍は約一万前後なので

マレーシア    8 大半は便乗組ではないかという意見もある。

インドネシア6508 日本が0なのは日本人にとって200万円が安すぎるため

日本       0 「アジア女性基金」の予定する支給対象者は300名

2)慰安婦の数(3~20万人)すべて大雑把な計算に基づく推計に過ぎない

3)補償の難しさ 名乗り出た人を救済するだけで問題は解決するのか?


☆インドネシアで名乗り出た元慰安婦が多いのは、被害者を探しに行った日弁連の人

 たちが名乗り出たら200万円貰えるという宣伝をしたからという説もある。

 1996年10月 インドネシア政府と日本政府は、日本が3.8憶円を拠出して元慰安婦

       を含む高齢者の福祉事業を行うことに合意した。


2⃣「アジア女性基金」をめぐる意見

(「アジア女性基金」に何故反対するのか、質問が多かったので整理しました)

1)「温度差」村山富市首相⇒橋本龍太郎首相

⓵村山首相

「私は、女性のためのアジア平和国民基金を設けた時に、個人個人に償い金を支給する場合、首相としてのおわびの文書もつけて出そうと申し上げた。そういう考え方は貫いていく必要がある」            (『朝日新聞』1996年5月11日付)

②橋本首相

「国民基金」に添えられる首相の謝罪の手紙について「意味がわからない」

「謝らない」「謝って済む問題じゃない」「カネだけ渡して済む問題じゃない」と発言

(国会答弁・三木睦子氏との会談で)      (『朝日新聞』1996年5月20日付)

「どれだけ国民の心がこもっていても、金だけ渡して済むものではない」と

七月中旬に予定されている基金の支給時までに「[手紙にこだわらず]どういう形が望ましいか考える」              (『朝日新聞』1996年5月11日付)

2)日本遺族会

1952年4月「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の成立

1953年3月 財団法人日本遺族会の設立(保守党を支える集票組織)

1964年    標語の変更「戦争の防止」を削り「英霊の顕彰」を第一の目的とする

      靖国神社の国家護持運動を展開⇒憲法違反

1975年   靖国神社への公式参拝運動に転換

1993年   細川護熙首相の「侵略戦争」発言に「英霊の冒涜」と抗議声明

1995年   「戦後五十年決議」に反対する政治家を支持   

⇒自民党の「復古的」勢力、社労族(橋本首相・直前遺族会会長)を支持

⇒橋本首相の発言が不安定なのは一言居士という性向もあるが遺族会対策でもある

              (田中伸尚ほか『遺族と戦後』岩波新書1995年7月)

3)「国民基金」への賛否の意見

(「女性のためのアジア平和国民基金」の略称は、当初「国民基金」と「アジア女性

 基金」が併存していたが、この頃以降に「アジア女性基金」に統一されている)

⓵反対意見

 国の責任を認めるならば国による個人補償をするべきではないのか

 「国民基金」は国家補償を回避させ日本政府の責任を曖昧なものにして、問題を矮

 小化させるものである。被害者の個人的尊厳を回復するという視点がない

 (こういうことを言われちゃうから「アジア女性基金」に統一した)

 

「ここで僅かな金を手にしてしまえば、私たちは後世、売春婦呼ばわりされるだろ

 う。日本政府と私たちは、はりあっているのだ…[日本が]また悪いことをしない

 なんて誰も保証できない。だから私たち年寄りには問題を明白に正しく整理する責

 任がある」                     (元慰安婦・金順徳さん)

⇒貰ったら「売春婦よばわり」というのは飛躍した論理のように思えるが、実際に貰

 った人は売春婦だと攻撃されることになる。支援団体内部の議論を反映した発言。


②賛成意見(条件付き)

 戦後の賠償・補償についてはサンフランシスコ講和会議、あるいは日韓基本条約などの二国間条約によって解決済み、個人補償はしないというのが日本政府の戦後補償に対する原則。この法的問題を乗り越えるためには時間がかかる。元慰安婦の人々に安心して平穏に暮らしてもらうためには一刻も早く解決することが必要。

 民間の基金には一人ひとりが戦争の問題を考える契機になる利点もある


「[日本政府に]良心があるなら早く解決してほしい。ここまで長引くなら名乗り出なかった」息子のために家を建ててやりたい。早く安心して死にたい(文玉珠さん)

⇒運動の目標と個人の願いの乖離に当惑している


4)問題点

善意のはずが憎悪や反発を呼んでいる

被害者は困窮の中にあり高齢であり重い病気を抱えている

⇒「受け取るかどうかは最終的に個人が決めることだが困っている人の鼻先にカネだ  

 けぶら下げることこそ道徳に反する」(リラ・ピリピーナ/ネリア・サンチュ代表)

募金の集まりの悪さ(目標10~20億円・広報費3億3000万円・募金額3億4000万円)

⇒国家の支出による補填の必要性


3⃣「吉田清治証言」の信憑性(当時より怪しいことは分かっていました)

4⃣従軍慰安婦・慶子(1)福岡大浜遊郭の娼婦

         (千田夏光『従軍慰安婦・慶子』恒有出版1995年4月復刻版)


1)世界恐慌

1929年 ニューヨーク株式市場大暴落

1930年 繭の値段が三分の一、米の値段が二分の一になる

1931年 満洲事変

1932年 文部省、全国の欠食児童20万人と発表

1933年 長野・山梨で製糸女工の大量首切り⇒身売り(芸妓・娼婦)

2)おいたち

⓵福岡県のある村で十一人兄弟の長女として生まれる

②十七歳の時「これ以上養えない、すまんが女中奉公にでも行くつもりで行ってく  

 れ」と零細農家の父親に口減らしのため大浜遊郭に二〇円で売られる(1933年)

 (本間正人『経理から見た日本陸軍』文春新書2021年5月は、一円=5000円で計算

 しています。現在の貨幣価値に直すと慶子さんは10万円で売られたことになりま  

 す。当時は現金収入を得られる仕事が限られており、お金に値打ちがありました)

③他の女は、父親が炭鉱夫で博打のかたとして売られた者もいたが、ほとんど貧しい

 小作農の娘で二百円三百円という地主への借金が払えず売られてきた者であった。

3)大浜遊郭・朝富士楼

⓵客は漁師・船員・労働者が大半

②日曜は朝から福岡二四連隊の兵隊がつめかけた

③食事「副食は薄い味噌汁と沢庵」

4)増える借金

⓵着物・白粉・ちり紙代・布団代・食費…で借金が二三百円⇒五六百円に増えていく

②風邪でもひいて一週間休めば、借金は二二~二三円余計に増える

③一時間五〇銭の外出時間分の金を払わなければ外出もできない

④慶子の借金

 二〇円(1933年)⇒三四円(1934年)⇒四六円(1935年)⇒六九円(1936年)

⇒慰安婦の性格「売春婦」か「性奴隷」かという議論がバカらしくなる実態ですね

 わずか二〇円の借金でも相当な利子が発生しており、身請けされて妾になる以外

 事実上、結核・梅毒などで死ぬまで出られないシステムになってる


<ナミリは就職活動で欠席>


◇1996年6月21日(金)

ナミリさんはおっかけ?今日も西武で待ってたぞ。年甲斐もなく浮つくぞ。

ちょっと気になるよなー。


⇒”おっかけ”ストーカーという言葉が人口に膾炙する様になるのは多分、桶川ストーカー殺人事件(1999年10月26日)以降だと思う。

 ナミリは就職活動で二週続けて欠席したんだけど、ユウタの帰る頃を見計らって、わざわざ駅ビルの西武のエレベーターのところで待っていてくれてたようですね。

前と同じく二人でアイスミルクティ頼んで話し込んでいます。

ユウタ、すこし調子に乗ってないか?


7「戦犯」の告白


 大学生の時、ユウタが入っていたサークル中国研究会にはふたつの綱領があって、

ひとつは「自主的科学的中国研究」(これだけでも民青系って分かりますね)

もうひとつは「日中不再戦」だった。

 前に書いたようにユウタは第二次大戦限定のミリオタで、どちらかといえばウヨク的性向の持主なんだけど、全く意見の違う人たちの考え方を知りたいと思ってた。ユウタにはそういうところあるね。

 サークルでは完全に浮いてたと思う。全国大会?(といっても、東大と早稲田と本女と青学と立命館だけなんだけど)の発表会で「共産党は絶対に政権取れない」とか言っちゃうんだもの(本人は問題発言と思ってない)早稲田の機関紙の他己紹介に「流されない人」とか、変わり者であることをソフトに書いてくれてたりしてた

 (脱線しましたね) 

 

「日中不再戦」ということで

 戦後、戦犯として撫順・太原戦犯管理所に収容され「認罪学習」(自分の罪を認めて反省し、すべての罪を文章化する。何回も書き直させられる)を受けた人たち、中国帰還者連絡会の証言集をテキストにして勉強したことがあった。

(新歓フェスで中帰連の人たちの講演会があって行ったような記憶もある) 

「認罪学習」は「ラストエンペラー」(ベルナルド・ベルドリッチ監督・1987年)(同じ撫順戦犯管理所)で溥儀(ジョン・ローン)がやらされてる作業ですね。

⓵洗脳されているという批判

②洗脳されているという批判を受けて廃刊になったのに「教科書問題」(1982年)が起きたためか、急に復刊された経緯(中国から指示を受けたのではないか)

などに留意する必要はあるが

 やはり軍隊が他国に攻め込むと、さまざまな問題を引き起こすと率直に思った。

 考えてみれば八年間(1937~1945年)中国本部に百万余の日本軍が展開していたわけだから(最初から百万だったわけじゃないですけど)

 信じられない、信じたくない悲惨なことが枚挙にいとまがないほど発生したことは想像に難くない。

(っていうか、根本的に戦争は戦闘の結果の殺人はいいんだけど、略奪や強姦はダメということの倫理基準がよく分からない)


<参考ビデオ>

NHK「戦犯たちの告白-撫順・太原戦犯管理所1062人の手記」(1989年8月放映)

 終戦時、満洲・朝鮮北部でソ連軍に降伏した日本軍60万余はシベリアに連行され

強制労働に従事させられた。1950年7月には、大多数は帰国することができていたが、残った約2500名の中から969名が抽出されて中国に送られることになった…


1)「戦犯」容疑者 

⓵「漢奸(中華民族の裏切り者)」溥儀を初めとする満洲国要人

② 満洲国の治安担当者(関東軍憲兵隊、満洲国警察・司法関係者)

③三九師団(二百数十名)五九師団(四百余名)所属が全体の六割を占めた

⇒中国本部で治安作戦に従事した後、満洲に移動して終戦を迎えた部隊

④太原(山西省)管理所は戦後国府軍に加わり共産党と戦い降伏した九三名を収容

2)三九師団・五九師団所属将兵「運が悪い」

⓵帰国できると思ったのに抑留が延長されたこと

② 適当に選んだとしか思えない戦犯認定に不満を持っていた

 (兵士だが一発も撃ったことない人も含まれていた)

3)「思想改造」

 「一人の死者も逃亡者も出さずに、非暴力で思想改造せよ」(周恩来)

⇒強制労働を課せられることもなく、人道的に取り扱われた

4)認罪学習

⓵反省学習(マルクス主義史観・毛沢東思想の学習)

②罪行自白(担白・タンパイ)

③尋問(中央から派遣された六百名の調査官が担当)

5)認罪運動

⓵朝鮮戦争が停戦になり米軍による解放の望みも消えた1954年4月

②宮崎弘中尉(三九師団)のタンパイ

 a十数人の農民を初年兵とともに刺殺

 b村を焼打ちし村民数百人皆殺しにするのを笑って見物した

 c 捕虜の少年兵士を試し斬り

 d「私は人間の皮をかぶった鬼でした。中国人民に心からお詫びします。

  この上はいかなる処罰をも受ける覚悟です」

 ⇒所長「大変よろしい。皆も学習するように」

③「自白すれば軽く拒めば重く」のチラシが貼られる

 集団討論・密告・告発・暴露大会・吊るし上げ…

④最終的に全員が認罪した

⇒最後まで残っていた将軍クラスには被害住民が動員され面と向かって告発

⑤「住民と捕虜の殺害は計八五万七千人」と認定

⇒単純に1000人で割ったら、一人あたり857人殺したことになる!

6)裁判

⓵死刑・無期はなく、有期刑四五名、後は釈放帰国することになった

②全人代決定(1956年4月)

「主要でないか、あるいは罪を悔いる態度が比較的良い、日本の戦犯分子に対しては

 寛大に処理し、起訴を免除することができる」

③流石にあまりにも罪行が重い七十人は死刑にすることを戦犯管理所は上申した⇒

④「死刑や無期は一人も出すな今は納得できないかも知れないが二十年後に分かる」

                                 (周恩来)

⑤一ヵ月かけて二百枚の自白書を書き三二八人の殺人を「自白」した元憲兵も免訴

 となった。

⇒朝鮮戦争(米中熱戦)を経ての将来の日中復交を見据えた外交判断。

(秦郁彦「「撫順戦犯裁判」認罪書の読み方」

                 『現代史の対決』文藝春秋社2003年1月より)


☆「自己批判」

「批判を受けて誤りを認めることは立派な行動であるが、自分から進んで自分の誤り

 を暴露し、徹底的に自己批判して誤りを改めることは、更に立派な行動である」

 

 今(2024年)でも、日本の大学で教えている中国人の先生が中国に帰国して数か月消息不明になることあるけど…。「自己批判」させて「真人間」に更生させてる

つもりなんだと思う。香港のかわいい方のアグネスも、そんなこと言ってたと思う。

 習近平も父親が改革派だった関係で文革中、下放され「自己批判」させられたけど、本人は、そうやって「思想改造」されたことを誇りにさえ思ってる節がある。

「思想改造」とかいうとジョージ・オーウェル的世界を連想して拒否感しかないけど

建国当初から三反五反運動とか、やってたし、ちょっと感覚が違うと思う。


1⃣戦犯とは

1)犯罪の定義(国際軍事裁判所条例の第六条)

☆平和に対する罪 ⇒開戦責任

☆人道に対する罪 ⇒ホロコースト

☆戦争犯罪

 すなわち戦争の法規または慣例の違反。この違反は、占領地所属あるいは占領地内の一般人民の殺害、虐待、奴隷労働その他の目的のための移送、俘虜または海上における人民の殺害あるいは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣欲意的な破壊または軍事的必要により正当化されない荒廃化を含む。

2)戦争犯罪人(戦犯)

 A級戦犯(政治的指導者)

 B級戦犯(殺害・虐待・奴隷行為などの責任者)

 C級戦犯(殺害・虐待・奴隷行為などの犯罪を実際に行ったもの)


2⃣洗脳

1)小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』(『SAPIO』1998年5月13日号)

「第68章「南京」と「慰安婦」宣伝戦争の現状」[欄外の記述より]

(薬害エイズ、オウム事件などを取り上げて注目を集め、『戦争論』がベストセラーになっていたゴー宣でも触れられている。この授業には間に合っていません)

「撫順戦犯管理所」では拘禁状態の日本兵にありもしない「罪状」をつきつけ「これを認めれば許す」と言って供述書を書かせ、ほとんどの戦犯を無罪放免している。そんな供述書が何万枚あっても有罪の証拠にならないのは、普通の裁判だったら常識中の常識だ…

「撫順戦犯管理所」から帰国した元日本兵の中には、自ら「虐殺した」だの「強制連行した」だの「三光作戦を実行した」だのと告白してまわり「日本軍国主義の責任を

追及する」と言う人たちがいる…

 中国共産党は1950年頃、ソ連から「洗脳術」のノウハウを入手。また、それとほぼ同時期にシベリアから約千人の日本兵捕虜が撫順に送られている。そして撫順帰りの元日本兵の手記を読むと、「戦犯管理所」の中で現在の「自己啓発セミナー」そっくりの「認罪学習」を受けていることが、はっきりわかるのである。

 反戦軍人となって撫順から帰って来た人の中には、ウソ証言をしていたのがバレて

「批判追及は、いくら受けてもよい。しかし私は中国共産党の指導には心から感謝し、日中友好に今後とも全身で当たって行きたい」と熱弁した人もいる。胸の痛む話だが、日本にえん罪までかぶせて中国に謝罪することが「日中友好」ではないだろう


2)富永正三『あるB・C級戦犯の戦後史』(水曜社1977年8月)

 私たちのいう認罪とは次のようなものである。私たちは「満州事変」突入(昭和六年)以来、第二次世界大戦を通じて中国の領土において、日本の対中国政策-それは軍事上、行政上の命令として私たちに強制されたものであるが―の実行者(ある場合は命令者)として非戦闘員、平和住民に対する虐殺、放火、掠奪、破壊等あらゆる非人道的弾圧を強行し、戦後南方地区で行われた復讐的裁判では当然死刑に処せられていたであろう。

 私たちが戦犯として人民中国に引き渡されて以来、中国人民は何一つ復讐的な取り扱いをしなかった。そればかりか人間は本来どうあるべきかということを身を以て示し、それによって私たちに自分の過去の行動・戦争犯罪に対する批判の目を開かせ、どのような刑罰も当然だという認識に達した段階で裁判を行った。

 そして千百余名中四五名以外は不起訴とし、起訴された四五名に対しても最高、禁固二十年から十二年まで、それにシベリア以来の十二年の抑留期間を算入し、多くの人は刑期満了前に釈放された…

 このような高度な人道主義精神に心打たれた私たちが持ったのは、二度と再びこのようなあやまちは犯すまい、という決意と、私たちの犯した罪行の対象となった被害者の方々に対する懺悔の心である…

 私たちの中国人民に対するこのような感謝の気持ちは自らの体験に基づく実感であり、歴史的、客観的事実である。だからその後の中国の歴史がどのように変わろうとも、それに影響されるものではない。しかし、私たちがこのような気持ちを持ち続け

ることと、その後の中国の政策を全て支持するかどうか、とはまったく別個の問題である… 

 

3⃣戦犯の告白   

 石田幹雄「強姦」

…古年兵たちは「『討伐』に行けば酒も女もついてまわるし、賭博の”もとで”も転がっているもんだ…討伐様々だ」と口癖のように言っていた…「村落掃討」が重ねられる中で、村から逃げ遅れた女を見つければ決まって古年兵たちは…その婦人を手ごめにした。都会で育ち、十六歳にして銭で女一人を一晩弄ぶことができる世の中を知って以来、多くの女を弄んできた私はそれを見せつけられて、官能を刺激され、早く自分もあの真似をやりたいと考えるようになっていった。

 魯[山東省]東作戦中…一九四二年十一月下旬の雪模様で風が強い日…田島少尉の命令で、思い思いの獲物を求めて蜘蛛の子を散らすように門を潜る兵隊に混じって…

誰もいないと思って西隣の家に入ると、そこには意外にも色白の美しい女の姿を見て

ビックリしたのであるが、次の瞬間、けだもののような情欲がはげしく燃え上って来たのだ。

 日本のためにならない匪賊を退治するのが戦争だと学校の先生も、お役人も、坊さんもそう教えた。私はお国のためにつくせる兵隊となって戦地に渡った。だが、私が旗と歓呼に送られ、訳もなく心で泣いて国を出てから、何をしていたか?父母も、私の友だちも本当のことは知らなかっただろう。私は中国に渡ってから、まったく戦争というものの虜になって、目先が見えなくなり、銃剣をもっているがゆえに、何も持たない中国の人を思うままにできることに有頂天になっていた。何の抵抗の意志もなく、野良仕事している百姓を撃ち殺し、百姓の家を焼き払い、婦人を蹂躙して喜んでいた…

 暗闇の中に昼間見た女の肌を幻想する私…眼の前にいるのは、今日の昼間見つけた女だ。いままでのように古兵にとられたくないという欲望から、今すぐ飛びつきたいと思ったとき…かけずりまわる仲間の足音にわれにかえり、万が一、班長でも入ってきたら一選抜の上等兵はお流れで、今日までの苦労が何にもならなくなる…と燃え盛る欲望を押さえて帰って来たのだった。

 それから、この村に泊ることになっていたのを幸いに、みなの寝静まった九時過ぎ帯剣一本と手榴弾を懐に忍び出た…猟犬のように飛びかかった私は、相手の肩を鷲づかみにして壁からひきはなした。闇の中で二つの塊が一つになって、オンドルの中央へ転がった時、突然赤ん坊の泣き声が耳をつんざいた。あたりに人の気配はないと思っている私はドキッとして…「この餓鬼め」と口をふさぎながら片手で母親の服をはぎ取ろうとした。

 だが、しっかりとわが子を抱きしめ、身を守ろうとする母親の力は強く、私の意のままにならなかった。戦争に勝っている者が負けた者を好き勝手にするのが当たり前だと思っている私は、女ひとりを意のままにできないので誇りを傷つけられたように思い、これもこの餓鬼がいるからできないのだと、抱かれている赤ん坊が憎くてたまらなかった…泣き声で仲間に知られる懼れもあるし、早く始末してからだ…

 わが子の危険を知った母親が両手でわが子をかばおうと気をひきしめるのを、片足で母親の肩を踏みつけ、赤ん坊の背に回された母親の手をねじ曲げ、生木を引き裂くように力いっぱい子供の体を上に吊るし上げた…どうして始末してやろうと思案する私の頭に、昼間見たオンドルの焚口にかけられて湯気をあげていた中国特有の大きな釜が浮んできた…釜に近寄る私の足にしがみついてきた母親を蹴とばし…赤ん坊の足首を握り返して、頭を逆さまにしたまま釜めがけて投げ込んだ。

 ギャー釜の湯を吹上げ、ひときわ高い赤ん坊の悲鳴が、私の耳に錐を揉みこまれるように鋭く食い込んできた。そして一瞬静寂に返った空気の中に、キーッと絹を引き裂くようにわが子を奪われた母親の叫びが壁をゆすぶった。自己の欲望を満足させるためのじゃまになるからといって、生きている人間の子供を…なんの罪もない赤ん坊を、煮え湯の中に投げ込んでしまったのだ…

 必死に釜に駆け寄ろうとする母親を…「お前がおとなしくしねえからだ」と、わが子の名を呼び救いを求めて悲痛な叫びをあげる母親を「なんとわめこうが百年目だ」

とばかり口をふさごうとした。その手を歯に持って逆らう手強い抵抗に、ますます野獣の本性を現した私は、頭から布団をおっかぶせ、その上に馬乗りになって、身悶え

するのをついに蹂躙したのだ。

 私は、隣国の中国の領土に侵入して、なんの恨みもない、平和を愛し勤勉な沢山の人たちを殺し、多くの婦人を姦してきたことを振り返る時、あまりにもけだものにも似た自分の行為を責めずにはいられない。私の手によって煮え湯の中で殺された赤ん坊が生きておられるならば、立派な中学生として、中国の未来を背負う若者となっているであろう。私が犯した―人間が人間を殺すことを楽しみにし、己の欲望のために罪のない赤ん坊を猫の子のように投げ殺す―帝国主義の侵略思想に毒された私の思想の罪悪性を心から憎まずにはいられない

                  (中国帰還者連絡会『三光』光文社1983年)

 

⇒賛否両論併記して、学生にぶん投げるのがユウタの授業のスタイルですけど、正直半信半疑ですね。何回も書き直したんだと思うけど、あまりにもうまく書け過ぎの様にも思える。文才がありすぎて量産型のようにも思える。無防備に女性を残しておくかという疑問も浮かぶ。でも武装していることで生殺与奪の権を握る優越的な心理は、こんな感じかもしれないとも思います。

  

 武漢作戦(1938年6~10月)以降、日本軍の攻勢は停止され(一号作戦まで)治安対策が主要任務となります。軍閥の寄せ集まりで基本的に戦意に欠ける国府軍との戦いは、暗号通信の解読に成功していたこともあいまって有利に進めることができていましたが、八路軍(華北の中国共産党の軍隊)との戦いには苦戦します。

 百団大戦(1940年8月)によって打撃を受けた日本軍は掃討作戦を開始しますが住民と一体になって遊撃戦を展開する八路軍を捕捉することができない。日本軍の行動は、全て筒抜けで、敵地に到着する頃には相手はいない「空撃」になる。


「だが、討伐はいつも空撃であろうか、いやそうではなく之は大部隊を以て討伐した場合のことで、小部隊で出掛けると殆ど捕捉するのである。而かし、此の場合には、之亦、殆ど例外なく不利な戦闘となるのが多い」「全般に公表されることが少ないので、一般からはあまり目立たないのであるが、損害を累計すると敵に比して我が方が非常に多いことになるのである」    (終戦時117師団長・鈴木啓久中将の手記)


 八路軍は、ある時は正規の軍隊、ある時は便衣に鉄砲、また一般住民の姿で存在し、「数時間も経たない前は全く安全で通った処が其数時間後には、雲でも湧き出たようにいつの間にか大軍となって目の前に迫ってくる」          (同上)


 一般住民か敵兵かの区別ができないゲリラ戦への対策は、とても難しい。ドイツ軍はドイツ兵ひとり殺されたら住民十人縛り首にするようにしていたようですが、日本軍も、治安粛正工作・清郷工作などさまざまな対策をとっています。治安状態によって地区を分類し、交通を遮断するために壕を掘ったり、無住地区を造ったり、討伐したり…その過程で悲惨な出来事が発生したことは想像に難くないことです。

 

 中国はこの一連の日本軍の対策を「三光作戦」あるいは「三光政策」と言います。

「三光」(中国語では光に、きれいさっぱり何も残ってないという意味があります)

  「殺光」(中国人民を殺し尽くし)

  「焼光」(住居を焼き尽くし)

  「奪光」(食糧・家畜を奪いつくす)」

 そして中国は「三光作戦」による犠牲を「南京事件」の十倍以上、三百万余としています。


 日本の軍隊の持つ最大の問題は兵站能力がないことです。食糧は現地自弁の方針となり、日本軍部隊は食糧を徴発しながら進攻します。隠匿物資を探し出す手引き書があったほどです。中国からは「皇軍」じゃない「蝗軍」だ、と言われました。

 村々に進攻したら分散して食糧を探す、反抗したり逃げるものを敵とみなして殺す。これで軍紀を守れとかいっても、難しいと思う。上海制圧から南京攻略までの進攻途上、地域住民に大変な被害があったという研究がありますが(笠原十九司)その発端・原因は食糧徴発です。

 兵站を軽視しても人口の多い中国戦線では何とかなりましたが、人が住んでない南方戦線では大変なことになります。日本兵の死者のほとんどは餓死か栄養失調から来る疾病によるものです。

 治安戦は前線のない戦闘で、安全な後方がない。広大な占領地の治安を維持するために分散配置となる。日本軍は急膨張したため下級指揮官は促成教育しか受けてない、兵は応召兵ばかり…これでよく戦えたと感心するばかりです。


 (田辺敏雄「三光作戦はあったのか」

            秦郁彦『昭和史20の争点 日本人の常識』2003年10月)


 討伐は指揮官の点数稼ぎになるかもしれませんが、やればやるほど敵が増えます。家族を殺されたり、財産を無くしたら敵対感情が燃え上がるのは当然のことです。

日本軍占領地に中国共産党の勢力が容易に浸透できた最大の原因です。毛沢東が冗談ぽく「日本の侵略に感謝する」とか言ったのは、このあたりの機微を指していると思います。しかし知れば知るほど、日本の過去には空恐ろしいものがありますね。



◇1996年6月24日(月)

(他の大学の授業がすべったようで、八つ当たり気味の呪詛をした後)

ナミリちゃんの手紙だけがうれしいよ。

でも、もうすぐ夏休みだから会えなくなる。


Dearユウタ先生

 先生、お元気ですか?今、6月22日(土)のAM12:25です。

日付は変わったけど、学校で会ったばかりだよ。

本当にIMT(アイスミルクティー)ありがとうございました。

そして、まだ本は届いてないのですが、

本を送っていただいて、どうもありがとうございます。 

先生には、感謝だね。

CDにしても、本にしても、お金かけさせちゃって、ごめんなさい。

それから、約束の時刻表を差し上げます。うちにいっぱいあるから。

つまらないものですが、お礼というわけじゃないけど、郵送してみました。

この便せん、なんかいいと思いません?私のお気に入りの便せんです。

ちなみに西武で買ったんだ。

私は、よっぽど暇なのね。手紙まで書いてる。

きっと、先生は、そう思っているハズ。

何か、会うたびに言われるから、

最近、自分でも「そうかな」と納得し始めてきちゃった。

あと、〇○〇さんのCDのダビング、またお願いします。

多分、いや絶対、これからも、先生を頼っちゃうかもしれないけど、

めんどう見てください。

それでは、そろそろ失礼します。

来(今)週の金曜日に会いましょう。

では…

                         From Namiri


⇒ユウタの日記には「西武で待ってた」と書いてあるのに、

ナミリの手紙では「学校であったばかり」と書いてあります?

感想が出てないから授業には出てないことは確かなんだけど?


何か貸したみたいだけど全く記憶ありません

CD?

4月くらいにエルトン・ジョン、エンヤのCD買ってるけど?

でも、この子はいい娘だ。かわいいと思ったと思います。


でも、ちょっとユウタ先生かんじ悪いですね。

ナミリが、せっかくわざわざ待っててくれてたのに

「暇だよー」しか言わないのは。

ホントは、うれしいくせにね。

うれしくて、うれしくて、仕方ないくせに。


◇1996年6月28日(金)

一年生には、かなりキツイ授業になったみたい。


⇒ナミリのいる二年生の授業より、ずっと一年生の授業が気になっている。


 ユウタはいろいろな大学で教えていたのですが、なかには中国からの留学生もいました。


 自衛隊のイラク派遣は世界各国にとって危険なことだと思います。日本民族は最も強い侵略性を持っています。第一次・第二次世界大戦で、日本はまわりの国を侵略、拡張したのは誰でも認める事実です。そして、今でもドイツのように戦争について充分に反省していないです。こんなに軍隊も持つ資格もない国から他国へ軍隊を派遣するのは大変危険ではないですか


⇒自衛隊のイラク派遣(2003年12月~09年2月)が始まる前の時期だと思います。

 何故このような日本観を持っているのか、中国の教育はどのようなものなのか、

とても興味深いですね。 本作の設定を離れて少し詳しく考えてみたいと思います。


◇「南京事件」


1⃣「南京事件」に関する中国の教育


1)「南京大虐殺」

      (『小学生が知らなければならない中国の十の話』小学校高学年用読本)

 帝国主義の侵略は中国人民に数えきれないほど、語りつくせないほどの災難をもたらしました。そんな侵略者の暴行のなかでも、もっとも人の道をはずし、人の心を震わせる出来事は抗日戦争の初期に起きた南京大虐殺でした…

 [日本軍]将兵はわが同胞の中国人を銃撃し、銃剣で刺し、軍刀で首を斬り、腹を引き裂き、溺れさせ、焼き殺し、生き埋めにし、いろいろな残忍な方法で殺しました。殺人ゲームを楽しみ、恥をすっかりなくして婦女を暴行し、十二歳の幼い女の子から六十歳以上のおばあさんまで、逃しませんでした。

 日本軍は大規模の集団虐殺を行い、何千何万の青年、中年の男子と、武器をすでに捨てた中国人兵士たちを川の岸に連れて行き、針金やひもで縛り、いくつもの段階に分けて、機関銃を撃ちまくって、みな殺しにしました。死に切れない人は銃剣で刺し殺し、最後には火をつけました。

 南京城内に血が川のように流れ、死体は山のように高く積み上げられました。調べによれば、日本軍は南京占領後の四ヵ月以内にわが同胞三十万以上を殺したのです。

 しかし日本の内部では、一部の人たちが、今もなお公然と叫んでいます。「南京大虐殺は事実ではなく、虚構だ」と。彼らは歴史を勝手に書き直し、日本侵略者の罪を否定しようとしているのです。これは中国人民にとって絶対に我慢のできないことです。鉄のような証拠が山のようにありそれを否定することはできません。


★「百人斬り競争」

 文中の「殺人ゲーム」は「百人斬り競争」を指している。

 向井敏明・野田毅少尉は『東京日日新聞(後の毎日新聞)』に浅海一男記者が書いた「百人切り新記録、向井106-105野田両少尉さらに延長戦」という記事が虐殺の証拠として戦後処刑された。しかし向井少尉は砲兵の小隊長、野田少尉は大隊副官であり、前線で日本刀を振り回すなどありえないことが明らかになっている。

           (鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』文藝春秋社1973年)

 両名は1948年1月28日、南京郊外雨花台で銃殺された。山中峯太郎編著『皇兵』

(1940年)で「三百人も切った隊長の愛刀助広」というキャプションが虐殺の証拠とされた第六師団の中隊長だった田中軍吉大尉も同時に銃殺された。

 他に管轄地域の中華門付近の虐殺事件の責任者として第六師団長谷寿夫中将も銃殺された。以上は南京軍事法廷による事案で、東京裁判では中支那方面軍司令官松井石根中将が「部下の不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠った」として死刑判決を受けた。

⇒南京事件に関するBC級戦犯として処刑されたのは、この五人である。


2)「感情記憶」=「南京事件の犠牲者三〇万人」

 南京事件を追悼する侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)の壁には、各国語で犠牲者300000と表記されている。そして「南京事件の犠牲者三〇万人という「感情記憶」を認めるか否かは、中国人にとって「敵と味方を弁別する記号」」となっている。    (波多野澄雄『日本の歴史問題』中公新書2022年12月)

 

2⃣「南京事件」


1)南京攻略

1936年12月 西安事変⇒第二次国共合作・抗日民族統一戦線

1937年 7月 盧溝橋事件(7日)

1937年 8月 第二次上海事変(13日~)

1937年11月 上海陥落(9日)   日本軍の死者9115名 負傷者3万1257名

1937年12月 南京陥落(12日)  日本軍の死者2685名 負傷者  4508名

1937年12月 「南京事件」(13日~)

2)「極東国際軍事裁判(東京裁判)」

「南京陥落後、日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した…多数の婦女は強姦されたのちに殺され…後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京と其の周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二〇万以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が十五万五千に及んだ事実によって証明されている」

⇒埋葬死体数が虐殺の有力な根拠として認定されている

⇒起訴状では「南京で二万の強姦、二十万以上の殺害があった」と断定したが

松井石根大将の論告では

「南京陥落から六、七週間に何千という婦人が強姦され、十万人以上が殺害」

と下方修正されている。

⇒谷寿夫中将に対する南京軍事法廷の判決は三十万以上となっている


3⃣「南京事件」をめぐる論争

1)虐殺の規模

⓵三十万人説   (中国政府)

②二十万人以上説 (洞冨雄・藤原彰・本田勝一・笠原十九司)

③約四万人説   (秦郁彦)

④一~二万人説  (板倉由明・偕行社『南京戦史』)

⑤虐殺否定派   (鈴木明・田中正明・阿羅健一・東中野修道)

⇒虐殺の定義により適用範囲が異なる。故に規模も異なる

2)虐殺の根拠

⓵被害者証言

②埋葬記録

③サンプル調査(スマイス報告)

④戦闘詳報(日本軍各部隊の記録)

3)被害者証言・埋葬記録

「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」

⇒戦犯裁判のため南京地方法院検察処が住民の証言・埋葬記録を集め作成

⓵新河地域(二八七三名)廟葬者盛世徴・昌開運証言

②兵工廠及南門外花神廟一帯(七〇〇〇余名)埋葬者芮芳縁・張鴻儒証言

③草鞋峡(五万七四一八名)被害者魯甦証言

④漢中門(二〇○〇余名)被害者伍長徳証言

⑤霊谷寺(三○○○余名)漢奸高冠吾の碑文

⑥その他崇善堂及紅卍字会の手により埋葬せる屍体合計(一五万五三〇○余名)

 合計二七万九五八六名[実際に計算すると二二万七五九一名+余名となる]

⇒確定した被殺者は三〇万人に達し未だ確証を得ない者も二〇万人を下らない

と結論している

4)サンプル調査(スマイス報告)

☆南京安全区国際委員会

 ジョン・ラーベ(独)ルイス・スマイス  (英)ジョン・G・マギー(米)

 M. S. ベイツ(米)ジョージ・フィッチ (米)ら欧米人十五人

⓵安全区委員会の記録した日本軍の暴行(1937年12月12日-1938年2月7日)

 12月12日-12月18日 殺人26人 傷害 9人 連行334人

 12月19日- 1月10日 殺人 6人 傷害11人 連行115人 

  1月10日- 2月 7日 殺人17人 傷害24人 連行 84人

⇒伝聞を検証なしに細大もらさず、書き留めたもの。直接目撃したものはない

②スマイス報告

 「南京地区における戦争被害-1937年12月から1938年3月・都市および農村調査」

⇒五〇軒に一軒の割合で行方不明者を調査し全体を推定したもの

⇒南京市部における暴行による死者二四〇○人(実数48×50=2400という計算?)

 近郊江寧県における被殺者   九一六〇人

 および南京市部の拉致者    四二〇○人(このうちの何割かが殺害された)

⇒この中には日本軍に殺害された者のほかに、中国軍によって殺害された者

 戦闘の巻き添えになった者、兵士に徴集されて戦死した者などが含まれる

⇒日本軍による殺害の犠牲者は数千人か?

5)戦闘詳報

⓵第九師団第七連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵六六七〇人の殺害

②第一六師団第三三連隊の太平門・下関・獅子山付近で捕えた捕虜三〇九六人の殺害

③第一六師団第三〇旅団(三三・三八連隊)が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵

 数千人の殺害

④第一一四師団第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜一六五七人の殺害

⑤山田支隊(第六五連隊基幹)が幕府山付近で捕らえた捕虜など数千人の殺害

⇒殺害された捕虜・便衣兵は二万人近い


4⃣被害者証言の疑問点

☆魯甦の証言

 12月16日夜、草鞋峡で中国軍兵士と市民合計五万七四一八人の虐殺を目撃した。

⇒山田支隊(第六五連隊基幹)が幕府山で捕らえた捕虜数千を殺害した事案に該当

⇒一個人が端数まで数えきれる数なのか?あまりにも過大ではないか?


5⃣埋葬記録の疑問点

「十五万五千三〇○余名」/「崇善堂」十一万二二六六「紅卍字会」四万三〇七一

1)「紅卍字会」四万三〇七一

 「紅卍字会は陳漢森といふ立派な指導者に率いられた能動的な社会慈善団体である

 ことが判明しました。そこで、この作業を紅卍字会に一括して委託することになっ

 た訳です。後になって、崇善堂その他の弱小団体から作業の申し込みが自治委員会

 にありましたが、そのことは紅卍字会に任せてあるから紅卍字会の方に行って欲し

 いと伝えて、自治委員会は受け付けなかった訳です」

 (元南京特務機関員丸山進氏・亜細亜大学日本文化研究所『紀要第2号』1996年)

☆「世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表」

⇒城内で一七九三体、城外で四万一三三〇体、合計四万三一二三体。

その内訳は

一二月(七二四二体)一月(一五五二体)二月(二万一五八一体)

三月(八三九八体)四月(三一三二体)五月(一〇二四体)六~一〇月(一八九体)

☆「南京特務機関報告」

 埋葬作業は一月下旬から始め、三月一五日現在で、城内一七九三体、城外二万九九 

 九八体、合計三万一七九一体を下関地区および上新河地区の指定地に埋葬した。

☆金陵女学院のアメリカ人教師ヴォートリンが紅卍字会本部から貰ったデータ

 一月中旬から四月一四日までに城内で一七九三体、城外で三万九五八九体埋葬した

⇒合計は四万一三八二体

☆紅卍字会南京分会が補助金請求のために政府行政院に提出した書類

 埋葬した死体は合計四万体

☆「南京救済国際委員会報告書」

 遺体四万体以上を処理

⇒一二月二八日(六四六八体)二月九日(四六八五体)二月二一日(五七〇五体)

 ふだんの十倍以上処理した日があることに疑問は残るが、約四万体を埋葬したこと 

 は各種資料より確実のように思える


2)「崇善堂」十一万二二六六

 「当時、全然名前を聞いたことはなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁

 判ですごい活躍をしたと言っている。当時は全然知らない」

                        (南京特務機関長大西一大尉)

「崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表」

一二月二六日から四月八日の間に城内で七五四九体

四月九日から五月一日まで城外で一〇万四七一八体

合計             一一万二二六七体

⇒崇善堂は安全区委員長ラーベの日記、埋葬作業を監督した南京特務機関の報告にも

 記載されていない。紅卍字会の下請けをしていたのか?

⇒約一〇○日で城内七五四九体、約二〇日で城外で一〇万体処理?

⇒紅卍字会の下請けを独立団体として埋葬死体数を水増ししたのではないか?    


6⃣戦闘詳報に記載された「便衣兵・捕虜・敗残兵」の殺害について

1)南京陥落に至る時系列

1937年12月1日 南京市長馬超俊、安全区の存在を認め警官を配置し食糧を供給

1937年12月7日 蒋介石・宋美齢ら政府要人、何応欽ら軍首脳は南京を脱出し、  

        漢口に移動 ⇒富裕層・官吏なども脱出

1937年12月8日 唐生智、住民に安全区委員会の設定した難民区への終結を命じる

1937年12月9日 日本軍、南京衛戍軍(司令官唐生智)に降伏勧告(期限10日正午)

1937年12月10日 13時より総攻撃開始

1937年12月12日 日本軍、城壁にとりつく。夕刻ころ唐生智、単身脱出。

⇒「徹底抗戦」を主張し志願して防衛軍の司令官に就任した唐生智の敵前逃亡で中国軍の命令系統は崩壊、秩序だった停戦・降伏・武装解除が不可能となり、捕虜としての保護を受けることができなかった

⇒軍服を脱いで民間人に紛れ込む兵士が続出し、摘発されて処刑されることになる


2)「不法殺害」?「戦闘行為の延長」?

1937年12月14~16日 第七連隊、難民区掃蕩作戦で摘出した敗残兵6670名を処刑


⓵戦時国際法「裁判を経るに非されは、之を罰することを得ず」違反

⇒非武装の捕虜を処刑する場合は、軍法会議を経なければならない

②交戦者資格(a指揮官がいるb軍服を着ているc武器を公然携行d戦争法規遵守)

⇒軍服を脱いで一般人に偽装すれば陸戦法規の保護を受けることができない

 一般人に偽装した便衣兵による襲撃を受けた例もある(第一次上海事変)


3)「虐殺」の要因

今から思えば、普通にそんなに殺す必要ないんじゃないと思う。実際、捕虜を郷里別に分けて釈放したり、捕虜収容所に収容して後に釈放した例もあるから、そうすればよかったんじゃないのと強く思う。

原因として考えられることは

⓵第二次上海事変の大苦戦

 ドイツの軍事顧問団の指導の下、クリークとトーチカを組み合わせた強力な陣地による蒋介石直系の精鋭部隊は頑強に抗戦。日本軍は夥しい死傷者を出し、日露戦争以来の損失といわれた。結局、新たに第十軍が組織され、後背を衝くため杭州湾に上陸するまで大苦戦することとなった。

②通州事件・大山大尉事件

 通州事件(1937年7月)は、華北分離工作で日本が作った傀儡政権(冀東防共自治政府)の軍隊が、盧溝橋事件以後、断続的に続いていた戦闘で、中国軍が勝ったというラジオの誤報を信じ、日本軍機の誤爆をきっかけに反乱した事件。

 二二〇余名の居留民が惨殺され、遺体には強姦や死体損壊の跡があった。日本の新聞は一斉に報道「暴戻支那を膺懲せよ」という輿論が沸騰することになる。

 大山大尉事件は、第二次上海事変の直接のきっかけになったと言われる事件。

連絡のために自動車で移動中の海軍陸戦隊の中隊長の大山大尉と運転手の斎藤水兵が機銃による射撃で殺害された事件。遺体には刀で切り刻まれた跡があった。


⇒満州事変・華北分離工作と止まることを知らない日本の侵略に燃え上った抗日意識の発露と見ることも出来るが、まともな相手じゃない(交戦規定を守る文明国という意味)という認識が生まれたことは想像に難くない。


4)「捕虜」

 「助命なし降伏なし」われわれは[日本軍の]捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待・殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を外の死体とともに穴に投げ入れ死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ

               (ジョン・ダワー『人種偏見』平凡社1987年9月)

⇒ガダルカナル島で降伏を偽装した日本軍の逆襲を受けた戦訓により米海兵隊は、情

 報をとる必要がある時以外、日本兵の捕虜を取らずほぼ射殺した

⇒「バターン・デスマーチ」日本軍の捕虜の扱いの悪さが報道されていたことも要因


☆『リンドバーグ日記』(大西洋横断飛行の英雄/1944年南太平洋の戦場を視察)

 「わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を

 動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである…」

                              (1944年7月13日)

 「私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思

 しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼け爛れた地域の地表下に極限の苦悶が隠されて

 いるのだ―飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち、ただ祖国愛と信ずるもの

 のために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない。なぜな

 らば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうこ

 とは火を見るよりも明らかだから」                (7月21日)

 「山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日

 本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃

 物で半ば埋もれていた。わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾でで

 出来た穴に放り込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞

 が悪くなる」                          (7月24日)

 「…『兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥さ

 せて帰還する時に持ち帰るためですよ…』行く先々で聞かされる似たり寄ったりの 

 話だ」                              (9月9日)

⇒『ライフ』(1944年5月2日号)には、戦場にいる彼より贈られた日本兵の骸骨を眺

 めながら、彼への手紙を書いているアリゾナのナタリーの写真が掲載されている。

☆ジョージ・ファイラー『天王山-沖縄戦と原爆』(早川書房1995年)

 「日本兵は海兵隊には降伏しないことが私にはわかっていた。降伏したかったなら   

 陸軍の方へ行っただろう。海兵隊員の99%が彼らを撃ち殺しただろう」

⇒ 海兵42連隊は捕虜を取らないことをスローガンにしていた。オーストラリア軍 

 は日本兵捕虜を輸送機の上から突き落としたとか、日本軍の野戦病院を制圧して皆

 殺しにしたとか、連合軍による捕虜の殺害についてはいろいろな逸話がある。

☆ 1944年6月22日、インド・アッサム州ミッションで、撤退中の歩兵第六〇連隊の 

 野戦病院の重症患者150名は英軍グルカ兵にガソリンをかけられて焼き殺された。

 インパール作戦失敗で撤退中、英軍に追いつかれて担架に乗せた重症患者を道に放

 置せざるを得なくなって隠れて見ていたら、グルカ兵が水のようなものを患者に振

 りかけていて、水をくれてるのか有難いと思ったら、担架が突然燃え上ったという

 目撃談がある。

⇒ 太平洋戦線の日本兵の捕虜が極めて少ないのは⓵「生きて虜囚の辱めを受けず」 

 という『戦陣訓』の縛りがあったため②捕虜になる可能性を想定していないので戦

 争法規の教育がなかったことなどが理由とされているが、最大の理由は連合軍に捕

 虜を取る気がなかったためである。


⇒日本人も日本兵も虐殺されている。といって罪を相対化したり相殺したいわけじゃないんです。戦争の実態、そこまでやるかの、さらにその上を行く、残酷さ惨烈さを無視して現代の価値観で批判するのは、ちっとおかしいのではないかということを言いたいのです。まあ、そういう自分自身、何も分かってないんですけどね。


7⃣戦時プロパガンダ

1)「南京で大虐殺が発生した」という共通認識は発生していなかった

  南京陥落の翌年一九三八年に発表された蒋介石の「日本人の残虐行為」毛沢東の「持久戦論」『英文中国年鑑1938-39』には南京事件に対する言及がない。この年、

 国際連盟は中国代表の声明に基づき「中国への同情」を決議したが、ここでも南京 

 事件は触れられていない。中国にも第三者として状況を監視する立場にあった欧米

 側にも「南京で大虐殺が発生した」という共通認識は発生していなかった。

             (北村稔『「南京事件」の探求』文春新書2001年11月)


2)「戦時宣伝」

 「当時の新聞報道あるいはそれに類似したものの価値を判断するにあたって、われわれは戦時において企図された宣伝の役割を見落としてはならない…敵を激怒させ味方の銃後の者の血をわかし中立国民をして憎悪と恐怖を抱かしめる方法として、想像力を発揮するための一種の愚劣な戦争が行われているのである」   (バール判事)

⓵「ベイツ・メモランダム」(H・J・テンパーリー『戦争とは何か』所収)1938年

⇒「四万人が殺害され、うち一万二千人が民間人」

②エドガー・スノー『アジアの戦争』(1941年)

⇒「日本民族は首狩り族」「市内で四万二千、郊外で三十万」の民間人が殺害された


⇒長い戦争のなかのプロパガンダで「南京事件」の内容が、より過大により残虐に

 変容していったように思える

⇒戦後、プロパガンダで肥大化した「南京事件」の被害者数に合わせるために「崇善

 堂埋葬記録」が捏造されたのではないか?(全くの推測です)


3)「援蒋ルート」

 欧米(特に米国)の支持がなければ抗戦できない中国は、胡適・宋美齢を派遣して世論工作を強力に推進した。

 欧米からの援助物資を運ぶ道は「援蒋ルート(国民政府主席蒋介石を援助する道)」と呼ばれた。日本軍の作戦の大きな目的のひとつが援蒋ルートを潰すことであり、広東を攻略し、仏印に進駐した。この時、石油を禁輸されたことが対米戦争に踏み切る直接の契機となる。アジア太平洋戦争中のビルマ進攻も「援蒋ルート」を潰すことが目的の作戦である。


8⃣「反日教育」

1)「愛党愛国教育」

 …私たちが決して忘れてはならないのは、中国共産党の指導の下に人民は土地革命

 戦争、抗日戦争、解放戦争を経て新中国を建設できた、ということです。さらに忘

 れてはならないのは、共産党の指導の下に私たちは社会主義建設と改革開放を進め

 光り輝く成果をおさめた、ということです…私たちは祖国についてよく学べば、こ  

 れまでにもまして祖国を熱愛できるようになります。中国共産党をさらに熱愛し、

 社会主義をもっと熱愛できるようになり、中国民族を栄えさせることへの重い責任

 をも理解するようになります (「小学生が知らなければならない中国の十の話」)


⇒1989年6月の六四天安門事件、ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧民主化革命(1989年秋)そしてソ連の崩壊・消滅(1991年12月)は、中国共産党指導部に大変な衝撃を与え体制を維持・存続させるための「愛党・愛国教育」が加速された。


⇒「腐敗に反対すれば党を滅ぼし、不敗に反対しなければ中国を滅ぼす」

 党幹部が自らの権限で国家の財産を私物化し、地方政府はマフィア化し、大都市と

 西部地域の農村の所得格差は最大1000倍に拡大、社会道徳は完全に崩壊した

  (何清漣/坂井臣之助・中川友訳『中国現代化の落とし穴』草思社2002年12月)


2)「反日教育」の強化

 1994年、中国共産党は江沢民主席の直接の指示の下、大規模な愛国主義キャンペーンを開始した…『中国のマスメディアと日本イメージ』(劉志明/人民大学世論研究所)は「90年代に入り、日本軍の残虐行為を描き、日本の戦争責任を追及することを目的とする映画やテレビが増えてきた」のは「共産党のイデオロギーが権威を失い、腐敗の蔓延と道義の低下とあわさって、国民の求心力や党の統治が弱くなり始めたため、最後のイデオロギーとして愛国主義が持ち出された」と解説している。

                (古森義久『日中再考』産経新聞社2001年6月)


⇒1980年版中学校教科書では「南京大虐殺」という独立した項目はなかったが、1992年版では項目が設定され、1995年版では残虐場面を描く挿絵が添付された。

中国の損失も1991年版では「軍民死傷者2100万人」「戦費および被害総額1000億ドル」であったのに1995年版では「軍民の死傷者3500万人」「被害総額5620億ドル」に

増加した。


⇒「中国当局はとくに『日本鬼子』と呼ぶ対象への憎しみを若者たちに植えつけることをやめる必要がある。学校での教育、映画、テレビ、そして全体のプロパガンダのネットワークが日本をののしることに動員され、(日本への)憎悪は危険な状態になっている…1990年代に中国を新たに団結させるイデオロギーとしてナショナリズムをあおるという試みを始めたのは江沢民主席だった。私たちは教育と宣伝のシステムのそういう目的への悪用をうけいれることはできない。

       (ニコラス・クリストファー『ニューヨークタイムズ』北京特派員)

⇒「愛国心は悪者の最後の砦」(A・ビアス『悪魔の辞典』)

⇒ソ連の崩壊(1992年12月)によりダマンスキー(珍宝)島事件以来の三国志的戦

 略(日米と協力してソ連に対抗する)の必要性が無くなったことも要因か


9⃣「過去を制する者は未来を制する」(ジョージ・オーウェル『1984』)

 「…われわれは常に”歴史カード”を手に日本をたたける。このカードは相当長期に

 わたって使えるだろう」         (現代国際関係研究所・馬俊威研究員)


☆Iris Chang(アイリス・チャン)

『The Rape of Nanking : The Forgotten Holocaust of World War Ⅱ 』(1997年)

(『ザ・レイプ・オブ・南京-第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』)

⇒Rapeは強姦ではなくもっと広く「町全体の劫掠」という意味合いで使われている

⇒真偽不明の「虐殺写真」34枚を掲載。累計50万部のベストセラーになる


「殺された数だけを見ても、レイプ・オブ・南京は、あらゆる時代の最悪の野蛮行為とも比較にならない…なるほど、今世紀に入って大量殺人の道具が十分に洗練されて

ヒトラーは約六百万人のユダヤ人を殺し、スターリンは四千万人以上のロシア人を殺した。しかしこれらの死は数年間をかけてもたらされたものだ。レイプ・オブ・南京にあっては殺害数は数週間に集中していたのである」

①日本軍は南京で市民約三〇万人を殺害した

②日本軍は南京で二万人から八万人を強姦した

③天皇を中心として計画的に日本政府が「南京虐殺」を仕組んだ

④日本の教科書には「南京虐殺」の記載がなく、日本は故意に歴史を抹殺している

 「今日の日本は強力な右翼集団が南京事件に関する事実を明るみに出す努力を妨げ

 そのような努力を払う者の身の安全を脅かしている…同書が刊行されるまで南京事

 件の詳細に触れたノンフィクションは一冊もなく、日本では著者の生命を危うくす

 るという理由から、この事件に関して日本語で刊行された著書はわずかにすぎない

 日本人全体が、自発的に、あるいは日本政府による洗脳教育の結果、南京で日本軍

 による残虐行為があったことを否定している」

⇒「歴史問題での大部分の中国人の意見は間違った情報に基づいている。中国人民は

 日本側で自国の戦争犯罪に関する映画や本が、元兵士、学者、左翼活動家らによっ

 て膨大に出されていることを知らされていない。日本の戦後の歴代首相や天皇は自

 国の戦時の行動に対し謝罪を表明したが、中国側指導者はあえてそれを認めず、日

 本側がなお不誠実だと非難する」

      (マーク・オニール『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』記者)

⑤日本日本政府は正式に謝罪し、補償するべきである

「従軍慰安婦・七三一細菌部隊・南京事件に関して日本の謝罪と補償を求める法案」

(リビンスキー法/民主党下院議員ウィリアム・リビンスキー1997年提出)の成立

を目指す在米中国系団体がバックにある?(←中国海外交流協会の設立・1990年)

⇒「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)」

 最終報告(2007年)慰安婦問題に関する機密文書なし

 調査を促したのは在米中国系団体「世界抗日戦争史実維護連合会」 


⇒「果てしなき歴史戦」

 日本の過去の歴史を使って、

①日本の安保理常任理事国入り(日独印伯四カ国が連携して安保理常任理事国入りを

 目ざす運動がありました)を潰す

②日米の離間をはかり日本を叩いて米中で太平洋を二分して支配するG2構想とか

 (米国はとり合いませんでしたが)

 常に歴史を使って日本を攻撃する外交政策が中国にはあります



<さらに「南京事件」について>


1)戦記映画「南京」ー戦線後方記録映画ー(東宝映画文化映画部製作1938年)は

検閲を受けた国策映画で死体が一体も映らない点などに作為は感じる

(完全版がYoutubeで公開されています。削除要請もすごいみたいですが)

 天覧に供されたという入城式の様子、陸海軍合同慰霊祭の様子、自治委員会発足の様子などセレモニーを記録した時間が多いが興味深い映像もある。

⓵「城壁にあらゆるロープ的なものをかけて逃走した痕跡」

 「脱ぎ散らかした軍服が一面に広がる様子」

⇒背後が長江の上に完全包囲され退路がない中国兵の狼狽。軍服を脱いで平服

 に着替えた中国兵が相当数いることが推測できる

②「良民証」交付の様子

 ほぼ無人の街のように思える映像に急に大勢の中国人が映る。安全区委員会の指定した難民区に中国人が雪崩のように逃げ込んできたという報道を確認できる映像。

③「昭和十三年元旦を迎える準備、古関裕而の「露営の歌」の大合唱、野戦病院での「日本陸軍」の大合唱。爆竹を鳴らして遊ぶ中国の子供の横を通り過ぎる日本兵」

⇒治安が回復したようで、年末の頃にはのんびりした雰囲気があるように思える。

  

2)「南京事件」の問題は基本的なデータが分からないこと

①南京市の人口

1936年末の南京市の調査で約100万

 ラーベの日記にある警察長官の発言によれば20万に減少

1937年11月28日 「南京市には今なお20万人が住んでいる」(王固盤警察庁長官)

1938年 2月25日 南京市は城壁に囲まれ、この日まで自由な通行ができなかった

 南京安全区国際委員会の人口動態調査(12月17・21・27日)20万人で変化なし

 佐々木旅団の兵民分離査問工作により難民実態把握⇒1月14日25万人に増加

⇒「南京事件」がなかった根拠とされる数字だが、推測ばかり大雑把すぎるのでは?

⇒唐生智は住民に安全区への終結を命じ、命令に従わない者は漢奸として処罰する布

 告を出しているが、その強制力には疑問が残る

⇒安全区以外にも住民がいたのではないか?

⇒中国軍の清野作戦(焦土戦術)と日本軍の進攻による近郊住民の流入数も不明

②南京衛戍軍の兵力

 戦死者・逃亡者の数も不明

 十数万から五万まで、さまざまな推計がある

 一般的に大虐殺派は多めに推定し、まぼろし派は少なめに推定している

 戦闘が終わったら勝った方の軍隊は戦場清掃を行う

 紅卍字会の埋葬遺体作業で、数が極端に多い日があるが、日本軍が埋めた遺体に行

 き当たったのか?

 かなりの数の遺体を長江に流したという説、焼いて粉微塵にした説もある

③「屠殺」と「虐殺」

 虐殺と言うと抵抗できない一般市民や武装を解除された捕虜を殺害するような意味合いで考えられているが、中国は軍人の戦死も含めて考えているように思える。

 中国軍の督戦隊が後退する別の部隊を後方から攻撃した、退却中に中国軍同士討ちした、逃げる途中あまりにも混雑して圧死した、日本軍のスパイの疑いをかけられて殺害された…すべて日本の侵略がなければ発生しなかった死だと区別していないように思う。


3)中国人の意見

 …犠牲者の数を言い争うことは、あるいは絶対的に重要なことではないのかもしれ  

 ない。ただ、いずれにしても、侵略や殺人、強姦や略奪は、歴史の責めを負わなけ

 ればなるまい。だが、数字をもてあそぶ一部の人たちは、明らかに別の目的を持っ

 ている…

 「南京大虐殺」は…公認の犠牲者は三十万人となっているが、日本にはそれも「値 

 引き」をしようとする人たちがいる。これは学術討論ではなくて、歴史の改竄が目  

 的なのだ。そうした人のやり方は、まず数字を疑ってかかり、証拠に疑問を呈し、

 もはや証人や証拠も出てこないのだから、それらを捏造されたものだとして、最終 

 的には、すべてを覆してしまうのである…彼らは、大虐殺の所業などはきれいさっ

 ぱり、全く無かったようにしてしまうばかりか、他人に噛みついて、自らを被害者 

 に仕立ててしまうのだ。このような歴史の改竄は何とひどい陰謀ではなかろうか。

           (黄彬華『アジアから日本を見つめて』高文研1994年9月)


4)日本の平和主義


「正しいことは正しいし間違っていることは間違っているというしかない」

 でも近現代史は、血の乾いてない相手のある歴史、歴史になり切ってない歴史だから真実を追求することと同時に、当然感情面での配慮は必要だと思う。

 慰安婦も南京事件も事実を争うことは学問として大切だし当然だけど、態度もとても大切だと思う。本当のことを明らかにして、それを教訓にして平和を守っていく、友好を深めていく、そういう方向でない限り歴史修正主義とか、へんな反発を受け不毛なだけだと思う。


 戦争に対する反省に基づく日本の平和主義は、戦争そのものを絶対悪とする。

それに「ケンカ両成敗」という考えが付け加わり、どっちも悪いということになる。侵略者と防衛者、悪と善の区別はない。必然的に日本の侵略の罪は薄くなる。

 ウクライナが喉から手が出る程、砲弾を欲しがっても日本が供与することはない。

(パトリオットの日本⇒米国⇒ウクライナという玉突き供与はあったけど)

戦争に加担することは憲法違反で平和主義とは相いれないから。


 そして戦争を放棄した日本は、戦前の日本と全く別の国になったと思っている。

でも侵略や植民地支配を受けた国々は同じように考えてくれているのだろうか?

 もし日本にどこかの国が侵略してきて、北海道を独立させ十四年間、別の国にして支配したり、他の地方にも大軍を派遣して八年間方々を荒らしまわったら、そのことを簡単に忘れられますか。また同じことをしてくるんじゃないかと警戒すると思う。

 日本に対しては侵略者としての反省はあるのかというところを、いつも見ていることは大前提として心に留めておくべきだと思う。

 

 戦争と言うと原爆・東京空襲・沖縄戦とか被害を受けた話になる。戦争の悲惨さに触れて平和の尊さを知るという話になる。それを否定している訳じゃないのです。とても大切なことだと思う。でもその原因を考えないといけないんじゃないの、と思う

 実は、それもとても難しいことなのです。ドイツにはヒトラーという一貫して戦争を指導し、ホロコーストを行った独裁者がいた。ワイマール憲法の下での選挙でヒトラーを選んだ責任がドイツ国民にはあると言える。

 日本の場合は、一貫して戦争指導した人物はいない。ヒトラーに例えられるのは東条英機陸軍大将だけど、近衛首相が政権ぶん投げて、戦争をしないために陸軍を統制できる人物として選ばれただけ、しかもサイパン陥落で失脚している。国民が選んだわけでもない。大命降下で首相になっただけ。では天皇の責任かと言えば、天皇も戦争に反対している。誰もかれも反対しているのに、戦争に突っ込んでいくところに日本の悲劇があるわけで、責任問題は曖昧模糊としたものになる。でも、それでも国策を誤った原因を考えることは大切なことだと思う。


 もちろん中国の膨張主義など中国の内政外交すべてを肯定することはできないし、する必要もないけど、かつて侵略戦争に突っ込んでいって、大変な犠牲を周辺諸国に与え、敗北し、でも周辺諸国の寛大さによって許されたことは、忘れてはいけないと自省を含めて思う。挺対協やアイリス・チャンにムカついて忘れがちになってました

 

5)安倍首相「戦後七〇年談話」

  「…私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍に

  よって塗炭の苦しみを味わった人々のつらい記憶は、これからも決して癒えるこ

  とはないでしょう」

  ⓵600万を超える引き揚げ者が無事帰還でき日本再建の原動力になったこと

  ②三千人近い中国残留孤児が無事成長し、帰国できたこと

  ③米英蘭豪の元捕虜が訪日してお互いの戦死者のために慰霊してくれてること

  を列挙して

  「戦争の苦痛をなめ尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を

  受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤が

  あり、いかほどの努力が必要だったか。そのことに、私たちは、思いを致さねば

  なりません」


⇒実は許されない人々もいました。満洲帝国が滅びた後、民衆裁判で治安関係者など3500人位処刑されたという推定もあるし、シンガポールの戦犯裁判では被告が夜な夜な呼び出されてリンチされ、自殺したり顔を腫らしたまま絞首台に登ったという話もあります。満蒙開拓団の集団自決とか朝鮮からの引き揚げ者の苦難とかもある…

 でも大多数の人は許されて日本に戻ることができた、日本が始めた戦争による周辺諸国の被害の大きさを考えたら、それは奇跡のようなことで、そのことは忘れてはいけないと思います。


6)再び中国人留学生の意見


 日本政府は公式賠償を行うべきだと思います。今まで日本の国会などで公式賠償  

 すべきかどうかについて統一できない根本的な原因は日本国民が全体的に戦争に 

 対する認識が不十分だと思います 


 中国の問題点は、あらゆる方向から列挙したつもりです。それを踏まえて「日本国民が全体的に戦争に対する認識が不十分」というのは本当にこの通りだと思う。

 

 そもそも先の戦争の名称からして決定版がありません。ふつう、太平洋戦争といいますが、これはアメリカから見た戦争の名称の翻訳です。ヨーロッパ戦線と太平洋戦線、時期もパールハーバーからとなると、日中戦争が抜け落ちる。

 十五年戦争という言い方もありましたが、十四年間だろ、じゃあ、あしかけ十五年戦争でと言うと、満洲事変から日中全面戦争の間の和平の可能性を軽視しているとか批判があり、アジア太平洋戦争に落ち着いたと理解しています。しかしアジアとか広すぎるんじゃね、それに細かいこと言って申し訳ないけどマダカスカルは太平洋でもアジアでもないだろ、大西洋で沈められた潜水艦もあるんじゃねというケチがつき、

もう面倒くさいから大東亜戦争でお願いしますというと、侵略戦争と植民地支配に対する反省がないんじゃねと批判される。

 

 戦後日本で特に中国の戦争に関する記憶が欠落したのは、①蒋介石の国民党政権が国共内戦で没落して国際的な発言力を失ったこと②毛沢東の共産党政権が朝鮮戦争に義勇軍形式で参戦し米中熱戦をしたため、米国の公然たる敵国になったことが原因でしょうね(配慮する必要が無くなったという意味で)。

 カイロ会談(1943年11月)に蒋介石・宋美齢を招待したルーズベルトは、蒋介石の国府軍にスターリンの赤軍的働きを期待してたんだろうけど、期待外れでしたね。

ビルマの援蒋ルートも日本軍に封鎖されていたためレンドリースも、あまり届いていなかったようだし、とにかく戦意がなかった。日本軍の大陸打通作戦(一号作戦)で

そのことが証明されます。

 もしラモウやトウエツを何十倍もの規模にした大敗北とかあれば違うんだろうけど、中国に負けたという意識さえなかったと思います。敗戦時でも「支那派遣軍百万は健在」と降伏に反対する電報を打つくらいでしたから。東部戦線が崩壊し赤軍にベルリンを占領されたドイツとは決定的に違います。

 ぐだぐだで「この戦争負けた」(陳誠)と当事者から何回も泣きが入ったためか不当に低く評価されているけど、アジア太平洋戦争における国府軍の功績も再評価されるべきだと思いますね。戦略的に見ると、とにかく八年間戦い続けて百万の日本軍を釘付けにしていた功績は大きい。中国との戦争から解放された部隊がフィリピンや太平洋の島々に配置されてたら(海上輸送能力と言う問題はあるけど)米軍ももっと苦戦したと思います。ルーズベルトが蒋介石をカイロに呼んで励ましたのも、こういう事情が分かっていたからです。


7)「戦争」に関する教育 

 

 ユウタさんはミリオタなので、そこそこ詳しい得意分野なのでマニアックなことを言って脱線しないように気をつけて授業していました。たとえば爆装零戦で急降下は難しいんじゃねという類の話は封印しておりました。

 いやいや、そういうレベルではなく、まずは零戦を知らない、飛行機と飛行船の区別がつかない。オーストラリアに短期留学して現地の人に不審がられたという話を本人から直接聞いて、これは問題だなと思いました。

 中国や韓国では昨日今日起きたぐらいの熱量でキャンペーンが行われ教育が行われているのに、日本人は全く知らない。戦争そのものを罪悪視するあまり、戦争にかかわるすべてのことを忌避するところがあるように思います。若い人が海外の大学で中国や韓国の留学生に言い負かされることがないための理論武装が必要だと思います。

 それ以上になにより勿体ないです。戦争と言う極限状態で日本人の民族性が試されました。それに負けて分かることもあります。日本の大切な歴史なのでもっと大事にしてもらいたいです。


8南京事件 

1⃣「南京事件」

2⃣従軍慰安婦・慶子(2)従軍慰安婦になる

1)奇跡 

⓵二四連隊の兵士倉光武夫が「命の恩人」のお礼として無条件で七十円くれる。

②軍隊で出世することを考ていた倉光は慶子に性病を染され入院を余儀なくされる。

③最初は恨んでいたが二四連隊が満洲に移駐することになり入院していてよかった。

④慶子は「命の恩人」だとサイダー一本飲まずに七年かけて貯めたお金をくれたのだ

⑤慶子、借金を返すが行くところもないので自由な立場で娼婦を続ける。

⑥花代を四分(慶子)六分(抱え主)の折半にすることにしたが、ひと月一円~一円 

 五〇銭しか残らない

2)恩人倉光の出征

⓵日中戦争が始まり、二四連隊の留守部隊が新しく一二四連隊に編成され、恩人倉光  

 も上海に出征することになった。

②上海で日本軍が苦戦していることを知り死を覚悟した倉光は「抱き納めに来た」と 

 三日ほど居続けた。倉光は孤児で最後の挨拶をする人もいないのだ。出征の日、倉 

 光の妻だと言って場所を教えてもらい見送ったが見つけることはできなかった

3)「御用商人」石橋徳太郎の話

第十一兵站司令部の命令「兵員慰安用の女を集めてこい」

(募集条件)

⓵三五歳以下三五歳以下

②性病に罹ってないこと

③)契約は前渡金として千円、軍直営「娯楽所」で勤務し、その代金で逐次返済する

④全額返済すれば以後の行動は自由

⑤接客勤務の代金は一円五〇銭~二円

⑥ただし軍が関与していることは極秘とする

「軍は女郎屋の親爺のように借金で水膨れにさせ死ぬまで縛るなどするはずがない。

 兵隊一人一回二円としたら千円で五百人…晴れて自由の身になれる」(石橋)

 福岡一二四連隊の相手をすることを知り「倉光」に会えるかもしれないと思い、

 慰安婦になる決心をする


⇒吉田清治は前渡金が安すぎるという感想


3⃣従軍慰安婦・慶子(3)従軍慰安婦制度のはじまり

1)石橋徳太郎班(十八名、日本人七名・朝鮮人十一名)

他の日本人娼婦は慶子よりもずっと年長だった

朝鮮服を着た子供こどもし白粉気もない女が

「うちら、へんなことさせられるのと、ちかうよね。へーたいさんのしょくちのせわと、せんたくするたけよね。ね、そうたよね」と同じ朝鮮の女に話しかけていた。

福岡嘉穂・志免の炭鉱街より集められたようだ。

慶子が事情を聞くと

「戦場で、兵隊さんたち戦争することに、いそかしい。食事もろくにてきない。洗濯も、なかなかてきないて困る。その食事と洗濯のせわするしことかある、お金なるから、こないか言われたよ」

「したく金として千円くれたよ。みな、おとさん、おかさんに、あけたとね。おとと、いもとたくさんいて生活くるしいからね。いえて千円あけたら、おとさん、おかさん、ぴくりして腰ぬかしてよろこんたよ」

⇒炭鉱員の世話では、よくても月七円程度にしかならない


2)陸軍娯楽所規則

一、本慰安所には陸軍軍人・軍属のほか入場を許さず

一、入場者は必ず受付において料金を支払い、これと引換えに入場券とサック

  (避妊具)を受け取ること

一、入場券の料金、左の如し、下士官・兵・軍属、金二円

一、入場券を買い求めたる者は、指定されたる番号の部屋に入ること

  ただし時間は三十分とする

一、室内に於いて飲酒を禁ずる

一、用済みの上は直ちに退室すること

一、規定を守らざる者および風紀軍紀を紊すものは退場せしむ

一、サック使用せざる者は接婦を禁ず


⇒兵の給料は三円八一銭・戦地加俸十二円

 さらに強制貯金・戦時国債購入・家族への仕送りのため余裕なし

⇒「女抱くにも規則ずくめ」と評判は悪く、すぐに解体された


3)「生きた安全弁・性の防波堤」

「自分たちは杭州湾に上陸して二か月半まったく女に接していない。とくに自分は部下に”支那女に手を出すな、手を出した者は斬る”と宣言しているので、自分の分隊十三名はみな飢えておる。軍がそんな結構な命令を出している”公認女”ならぜがひでも頼む。この通りだ」(一二四連隊に合流するため汽車で移動中、途中の駅で頼まれる) 

4)従軍慰安婦

一二四連隊、福岡出発(1937年10月)⇒杭州湾上陸(11月)⇒杭州占領(12月)

「あんたらも福岡から来た女ご衆じゃということは、本部に来た連絡で知っておって、みんな”万歳”声はりあげて喜んだとばい」

⇒日本軍の強さは故郷の人間関係をそのまま戦場に持って行ったところにある。

(卑怯な振る舞いをしたら故郷の人たちにバレて家族が肩身の狭い思いをする)

全国から選抜された最精鋭近衛師団には団結力に欠けるという評価がつきまとった

5)慰安婦と兵士

「わしは生き残ったとぞ、助かったとぞ、死なんかったとぞ」と乳房に必死でしゃぶりつきながら、うめく…五分もそうしていただろうか「すまんかった。ありがとう」

慶子の手を握り、それだけで帰っていった。

「生きとるのは、よかね。ワシは生きとるとよね」

中隊長戦死、全滅寸前の混戦より死力を尽くして脱出してきた兵士たちは

慶子たちを、かあちゃん(妻)に見立てて訴え縋ってきた

⇒慰安婦がどれだけ兵士たちの心の支えになっていたか感謝してもしきれないものが

 ある。 それは加害者と被害者という対立構図からは見えてこない

 挺対協(後に正義記憶連帯に改名)は一貫して「性奴隷」であると主張しているが

 一部の元慰安婦からは「性奴隷」は実態を表していないという批判がある


<ナミリの感想>

 もともと、売春の仕事をしている人が、慰安婦になった方が、お金になるのなら、慰安婦になるのもいいと思う。っていうか、私が言いたいことは、ごく普通の一般女性が無理矢理に慰安婦にされてしまうのはひどいことだと思うのですが、もともと売春の仕事をしているなら、そんなに変わりはないと思う。

 でも、これは今の時代に至っての私の気持ですが、この当時の人々は、家が貧しいから、売春をしてしまうのも仕方のないことなのですよね。

 すみません、私の言ってることは、どうやら間違っていますよね。

従軍慰安婦の方、ごめんなさい。


⇒ナミリが混乱するのも無理もない話で、ユウタの授業の進め方が悪いですね。

一般女性が強制連行されて慰安婦にされたから国が謝罪し、民間基金が作られ補償が開始されていると思ってのに、急に娼婦が慰安婦になった話を聞いたら、混乱すると思う(就職活動で二週続けて休んでいたし)

 新聞やテレビでアジア女性基金の進捗状況が連日報道され、それを授業でフォローしていましたから、情報は多いけど中味はあまりないかんじでしたね。

 慰安婦の境遇は、当時の民間の売春婦の境遇と比較されるべきもので、現在の基準で批判しても、おかしな話になると思います。

 























 

 


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