第5話ナミリと電車
◇1996年5月24日(金)
ナミリちゃんが西武で待っていて、お茶飲んでカイジで一緒に帰ったけど、結果としてキセルさせることになった。ドキドキさせたかもしれない。二十歳にならない人のことを考えてあげないといけないよ。本当にまずかったよな、まずかったよなー
⇒三限でナミリを含む二年生の授業、四限でおばちゃんがいる一年生の授業をやった後、帰るために駅ビルに行ったら、西武のエスカレーターのところにナミリが待っていてくれていて喫茶店でお茶して、たぶん、卒論の話したと思う。コーヒー飲めないんだって。一緒にカイジに乗ってナミリは石和で降りたんだけど、ちゃんと特急券(急行券?)買ってあげればよかったなと、くよくよ悔やんでいるというわけです。
⇒ナミリの卒論について、この日の授業のプリントに挟まっていたメモ
関東大震災下の朝鮮人虐殺事件
はじめに
1時代背景
2個別事例
3心理学的アプローチ
おわりに
問題を解決する方向性
問題をあらためて整理して疑問を深める
疑問を疑問のまま最後までもっていく
安易な結論を書くとホント白けるからガクッと来るからやめとき
という話をしたみたい。
⇒この日はとても天気がよくて
ユウタとナミリ、並んで座って、
石和まで乗っただけ、時間も10分もかからないんじゃないかな。
でもこの日のことは、繰り返し繰り返し思い出していた。
電車で通るたびに思い出していた。
とてもうれしそうなナミリ。
実はその百倍うれしいユウタ。
何かあったわけじゃないんだけどね。
3戦後補償
<参考ビデオ>
中京テレビ「チエと空襲」(1989年放送1995年再放送)
第二次大戦の日本の死者は軍人・軍属230万、民間人80万。空襲による死者は、原爆によるものを除いても26万余と推定され負傷者は、その数倍にのぼる。
名古屋の高校生脇田智恵さんの父親と伯母は空襲で大ケガをしたが、障碍者年金しか支給されていない。智恵さんは空襲被害者に対する西ドイツ(当時)の支援の状況を調べるため訪問する
⇒智恵さんは旅の終りに看護婦(当時)になることを決心。六年後の再放送では看護婦として働いている様子が最後に出てきて、見ていた学生みんなが感動します。
1⃣日本の謝罪と戦後補償
1)謝罪
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に
大して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ちを無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」
(村山富市首相「戦後五十年にあたっての首相談話」1995年8月15日)
2)補償
☆戦後賠償(賠償協定1954~1959年・賠償~1976年)
ビルマ(ミャンマー) 720憶円
フィリピン 1980憶円
インドネシア 803.3憶円
南ベトナム 140.4憶円
☆準賠償 ☆このほか
タイ 96憶円 連合国捕虜救済金 45憶円
オランダ 36憶円 連合国財産の補償金 88.8憶円
ラオス 10憶円 台湾住民元日本兵弔慰金 560憶円
カンボジア 15憶円 各種請求権に対してスイス、デンマー
ビルマ 612憶円 ク、オランダ、イギリス、スウェーデ
韓国 1080憶円 ン、イタリア、カナダ、インド、ギリ
シンガポール 29.4憶円 シア、オーストラリア、アルゼンチン
マレーシア 29.4憶円 などに210憶円が支払われている
ミクロネシア 18憶円
北ベトナム 135憶円
モンゴル 50憶円 計 6566憶円
☆在外資産の喪失 計 3795憶円
★賠償・準賠償・各種請求権・在外資産の喪失・中間賠償 総計1兆 362憶円
(粟屋憲太郎ほか『戦争責任・戦後補償』朝日選書1994年7月)
⇒補償は個人ではなく、ダム・製鉄所建設など「社会還元」の方式が取られた
中国に対する円借款も補償の一環として考えられている
中国東北部に「遺棄」されていた「毒ガス兵器」の処理など残された問題もある
3)ドイツの場合
戦後東西に分割されたので統一まで国家賠償は繰り延べにする方針を表明
総額928憶マルク(5兆9437憶円)の94%は、ホロコーストなど 「ナチスの不法
に対する補償」を対象にした個人補償である。⇒ドイツ再統一(1990年10月)
2⃣「クマラスワミ」報告
1)「クマラスワミ」報告
1992年2月 韓国挺身隊問題対策協議会、国連へ慰安婦問題をアピール
1994年3月 国連人権小委員会「女性に対する暴力に関する特別報告者」として
ラディカ・クマラスワミ女史を任命
1996年2月
「戦時中の軍事的性奴隷制問題に関する報告書(クマラスワミ報告)」発表
⇒「従軍慰安婦は「性奴隷」であり、女性、少女の誘拐、組織的強姦は一般市民に対
する非人間的行為である」として
⓵日本政府にその法的責任を認め②被害者への補償金支払い③公開書面による謝罪
などを勧告(ユーゴ内戦「民族浄化」政策に対する補償などの前例として想定)
⇒橋本首相「反論」
「十分な事実認識のないまま限定された資料に基づいて書かれた部分がある」
1996年4月
日本政府「クマラスワミ報告」に対する反論を国連人権小委員会のメンバーに配布
国連人権小委員会「女性に対する暴力」に関する決議を採択したが
「クマラスワミ報告」については”take note”(留意)という弱い表現になった
2)「民族浄化(ethnic cleansing)」=セックスの武器化
(EC調査団報告)
セルビア兵にレイプされたボスニア女性は推定2万人
クロアチア・ムスリムにレイプされたセルビア女性の被害報告もあるが
セルビア人によるムスリム女性の被害が最も重大
レイプ被害は1992年5~7月に集中、妊娠したものは5000名以上
監禁による連続レイプによる妊娠ではないか?施設の「利用券」も発見されている
産まれた子供に面会することを頑強に拒否したり、黙って姿を消す母親が続出した
「(レイプは)住民の戦意を無くさせ恐怖に陥れて、立ち退くように仕向け、また侵入した勢力の力を誇示するという自覚的な意図をともなって実行された」
(千田 善『ユーゴ紛争』講談社現代新書1993年10月)
⇒日本の慰安婦制度は⓵占領地の治安対策(占領軍による強姦事件が多発したら円滑な支配ができない)②性病防止(シベリア出兵の戦訓。性病が蔓延したら戦力が低下する)の観点から考え出されたもので「民族浄化」とは、まさに真逆の政策です。
(性病防止の観点からサック・避妊具の使用が指示されています)
⇒何故「クマラスワミ報告」において
「慰安婦問題」が「民族浄化」政策と同一視されているのか?
偏った内容の資料に基づいて作成されたことは明白で(橋本首相が「反論」するのは当然で)す。「クマラスワミ報告」の内容については、また後で取り上げます。
<ナミリの感想>
去年の夏にも日本とドイツの戦後補償を比較した本を読んだのですが、日本とドイツでは本当に賠償金の額が違います。今日もビデオで見ましたが被害者に対して支払われるお金が全く違いました。
それと歴史の教科書に戦争のことを載せる量も、日本とドイツで比べると、これもまたドイツの方が圧倒的に多いのです。
お金の量=被害者に対する反省の量というわけでもないと思うけど、お金で解決する問題ではないけれども、日本はこういう面から言っても、戦後補償に対する考え方が薄いと思います。
⇒日本 ⓵侵略戦争 ②「植民地支配」(ドイツは第一次大戦敗北で失っている)
ドイツ ⓵侵略戦争 ②ホロコースト
西尾幹二「異なる悲劇日本とドイツ」(文藝春秋社1994年10月)が整理しているように単純な「ドイツを見習え」論に全面的に賛成することはできません。ユダヤ民族絶滅政策600万人の犠牲者、これ以上にひどいことがあるのかというブラックホールのような犯罪と、悪いこともいっぱいしているけど通常の戦争しかしていない日本。
しかもドイツは今現在もポーランドやギリシャから賠償問題を提起され、突っぱねているような有様ですから、ドイツがよくて日本が悪いとは一概には言えません。
ただ国民ひとりひとりの平等な救済という点でどうかという問題はあります。
ドイツは日本以上に長期間空襲を受け続け、ドレスデンのように数万人の犠牲者を
出したといわれる都市もあります。しかし空襲被災者において軍人・軍属と民間人で補償に差はありません。ドイツ人も空襲で障碍者になった人がたくさんいるけれど、独立回復後、最初に補償に関する法制が行われ(「戦争犠牲者の援護に関する法律」1950年)障碍者が手厚い援護のもと、安楽な暮らしをしています。
日本では、同じ工場で働いていて同じ爆弾で傷ついても、国と雇用関係のある軍人・軍属と民間人では、補償額が四対一くらい違います。民間人は、ただの障碍者年金で処理されるから。
戦争において国民全体が被害を受けたのだから、生命・身体・財産に何らかの被害を受けてもそれは受忍(我慢)しなければならないとする「受忍論」という考えがあります。確かに国の補償といっても、その財源は国民の税金ですから、すべてを救済することは難しいです。しかし「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(1952年4月)財団法人日本遺族会の設立(1953年3月)により、遺族会が保守党を支える集票組織となったため軍人・軍属とその遺族には手厚い補償が行われています。
防空法で消火の義務を課され雨のように降る焼夷弾に丸腰で立ち向かわされ、国民義勇隊法(1945年6月)で、日本には民間人・非戦闘員はいなくなったと学校も病院も汽車も狙い撃ちされ夥しい犠牲者や障碍者が出ているのに差別されている訳です。
しかも所管する官庁もなく、総理府(当時)は厚生省(当時)でしょう。厚生省は総理府でしょう、といっておる惨状です。
国関係に手厚く民間にはそうでもない賞勲制度を誰も怪しまない体質に通底する、
戦争の問題を超えて、国家の根本に重大な欠落・欠陥があるのではないかと思います
市民革命を経てない国の欠点なんでしょうか。
◇1996年5月31日(金)
一週間心配していたナミリさんのキセル問題。陸橋のところに隠れていて大丈夫!全然だったらしい、よかった。
⇒定期しか持ってないから、カイジから、そのまま改札出たら特急券持ってないことを咎められるんじゃないか?と心配してたんだけど、流石にそこは次の各停まで待っていたということ。
4日韓基本条約
1⃣日韓基本条約と韓国政府の補償
1)日韓基本条約
1965年 日韓基本条約 三億ドルの無償供与・二億ドルの借款
第二条1
「両締結国は、両締結国及びその国民(法人を含む)の財産、権利並びに両締結国及びその国民の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されるものも含めて、完全かつ最終的に解決されたことになることを確認する」
⇒韓国政府(朴正煕大統領)対日請求権を放棄
2)韓国政府の補償
1971年 韓国政府「対日民間請求権申告に関する法律」制定
(申告受付を10ヵ月に限り充分な広報も行わなかった)
1973年 太平洋戦争遺族会発足(4月)
1974年 韓国政府「対日民間請求権補償法案」確定
対日請求権一円(1945年)あたり30ウォン(1974年当時19円)
死亡者一人あたり30万ウォン(19万円)の補償をすることを決定
⇒対日民間請求権協会は一円あたり500ウォン(317円)の補償を要求
⇒太平洋戦争遺族会は死亡者一人あたり1000万ウォン(633万円)の補償を要求
1975年 韓国政府補償金を支払う
死亡者の遺族8552名に一人当たり30万ウォン、総額は26憶ウォン(約16 億円)
財産被害7万4967件に対して総額約66憶ウォン(約42憶円)が支払われた
総計約92憶ウォン(約58憶円)
これは日本が無償供与した3億ドル(1080憶円)の約5.4%である
⇒韓国政府(朴正煕政権)は個人の請求権も全部まとめて頂戴。こっちで払うからと
いいながら国民には、ほとんど払わず浦項製鉄所・昭陽江多目的ダム・京釜高速道
路などの建設、農業近代化・中小企業育成・科学技術振興など「漢江の奇跡」と呼
ばれる経済発展の原資としました。賢いお金の使い方だったと思います。
⇒負傷者をふくむ生存者、在日朝鮮人、原爆の被爆者、サハリン残留者、BC級戦
犯、(元慰安婦たち)は救済の対象から外れています
3)個人補償
1987年 日本「台湾住民であった戦没者の遺族に対する弔慰金に関する法律」制定
⇒高砂義勇隊など台湾住民元日本兵約3万人にひとりあたり200万円を支給
1988年 アメリカ政府、戦時中の日系人の強制収用に対して謝罪し補償を実施
⇒一人あたり二万ドル(1988年当時約256万円)を補償した
1988年 太平洋戦争遺族会再発足(1992年に太平洋戦争犠牲者遺族会と改称)
2⃣太平洋戦争犠牲者遺族会
1)「朝鮮と朝鮮人に公式陳謝を百人委員会(百人委員会)」
1989年
「朝鮮と朝鮮人に公式陳謝を百人委員会(百人委員会/宋斗会・青柳敦子)」
『朝日ジャーナル』紙上に意見広告を15回出す。
百人委員会は「韓国側から日本政府に謝罪と賠償を行う裁判」を起こしたいと訪韓
し原告を探したが見つからず⇒太平洋戦争遺族会から協力の申し出が来る。
1990年
3月 再訪韓した百人委員会は裁判費用を準備(400万円)していることを表明
6月 百人委員会、遺族会などがソウル日本大使館に向けてデモ行進
10月 太平洋戦争遺族会、東京地裁に提訴(第一次訴訟)
遺族会、以後は百人委員会に協力できないと通告
「青柳氏らは弁護士でもないし…裁判は遺族会の活動として行いたいので
関係を絶った」
⇒宋斗会氏は戦前「日本国臣民」であった自分たちを外国人の範疇に入れて冷遇する
のはおかしいと日本国籍確認裁判を起こしてきた人なので考え方が違うのかも?
2)「日本の戦後責任をハッキリさせる会(ハッキリ会)」
1990年12月
「日本の戦後責任をハッキリさせる会(ハッキリ会/臼井敬子・原田信一)」結成
遺族会は、デモ行進を取材した臼井敬子氏や「樺太残留者帰還請求訴訟」に関与し
ていた高木健一弁護士に接近
1991年 12月
「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求」(第二次訴訟)遺族会、東京地裁に提訴
⇒8月に遺族会に電話した金学順さんら三人の元慰安婦も原告団に加わる
加藤紘一官房長官会見
1992年1月 宮澤訪韓
(西岡力「「慰安婦問題」とは何だったのか」
週刊文春臨時増刊『「朝日新聞」は日本に必要か』2014年10月より)
3⃣「アジア女性基金」償い金支給に反対する運動
1)「アジア女性基金」の性格
⓵日韓基本条約で補償問題は「完全かつ最終的に解決された」ので、国が直接補償で
きないから民間の募金を原資とする「アジア女性基金」が作られることになった。
②「アジア女性基金」は、すべてのランニングコスト(広報・職員の手当て…)を国
が負担している。募金で足りない部分も国が負担している。
⇒「アジア女性基金」が集めた募金は5億6500万円(中国戦線の兵士だったという81
歳の会社社長が匿名で寄付した1000万円が個人の最高額)最終的に285名の元慰安
婦に配分された(一人200万円だとすると500万円足りない)
③「アジア女性基金」の経費は、総計で46憶2500万円
「日韓基本条約体制を毀損しない必要」「国民参加という意義」を考慮しなければ
国家補償の方がはるかに安上がりだった
2)「アジア女性基金」の決定(1996年7月19日)
(授業より少し後の時期になりますが、かたつむりのような進捗状況をいちいち
フォローするのは煩瑣で混乱を招くことになるので、これを使わせてください)
元従軍慰安婦の人たちへの「償い金」(一時金)の支給事業について
国民の募金(募金残高七月十日現在、四億一千万円)を原資とする
償い金は一律二百万万円とし
政府は医療・福祉支援として十年間に約七億円(一人あたり三百万円規模)
を支出することを決定
「アジア女性基金」は首相のおわびの手紙に
⓵道義的責任②国家の関与③おわびの表明④再発防止⑤真相の究明
をもりこむことを要請
当面の支給対象者は韓国・台湾・フィリピンの三百名
⇒一人あたり200万円の支給(台湾住民元日本兵に対する支給と同額)
医療・福祉支援は初年度に住宅改善などのために228万円
二年度から五年度まで医療・医療補助として年18万円支給する予定
⇒最初の支給額は200万円+228万円=428万円となる
ところが、橋本首相がおわびの手紙を書くと言ったので「アジア女性基金」理事会が再開されて、一人あたり200万円の支給が決定されたあたり(1996年6月5日)から
「アジア女性基金」償い金の支給反対運動が強烈なものになっていきます。
「アジア女性基金」は首相のおわびの手紙の内容に細かく注文をつけて「心のこもった手紙」が出来さえすれば、上手くいくと考えていたようですが、支援者・支援団体は最初から蹴とばす気満々でした。
3)反対運動
⓵日本
国家賠償以外にない アジア女性基金 女性史研究家ら批判
元慰安婦からの聞き取り調査など進めてきたノンフィクション作家の川田文子
さん、女性史研究家の鈴木裕子さんや詩人の石川逸子さんらは[1996年6月]四
日、東京都内で記者会見し、「首相のおわびの手紙の内容がいかなるものであれ
被害者の求める国家による個人への賠償がない限り、基金からの支出は凍結すべ
きだ」などと訴えた…
川田さんらは「当事者がいやだといっているのに無理やり進めるというのでは
いったいだれのための基金か。これは歴史の責任をあいまいにしてしまうのかが
問われている私たち自身の問題である」… (『朝日新聞』1996年6月5日付)
②フィリピン
元慰安婦への基金 受け取りは本人の意思に 柴田直治(マニラ支局長)
足並みをそろえて日本政府に個人補償を求めてきたフィリピン人元従軍慰安
婦や支援者の間で「女性のためのアジア平和国民基金」の一時金をめぐって亀
裂が生まれている。
彼女たちを代表する団体「リラ・ピリピーナ」は受け取り拒否の姿勢を明確
にしている。ところが、元慰安婦のひとりマリア・ロサ・ヘンソンさんが先日
「受け取る」と宣言した。彼女はこの国で最初に名乗りを上げた元慰安婦。日
本でも自伝が出版されるなど象徴的な存在だ。続く元慰安婦も出た。
日比の関係者は翻意を促している。今は国際的連帯が最も大切。一丸となっ
て拒絶することが日本政府を追い込む。受け取れば運動が頓挫すると。「物質
的な欲求か、精神的な尊厳か」と迫る支援の日本人もいた。
フィリピンの元慰安婦の多くは経済的に恵まれない生活を送っている。ヘン
ソンさんは「せいぜい小魚しか載らない私たちの食卓を見て欲しい。一時金で
家族に少し楽をさせ、心臓の治療を受けたい」と訴える…
日本政府は個人保証に踏み切るべきだ、と私は考える。だが、実現の展望が
見えない以上、元慰安婦たちが一時金を受け取ることを認めてもよいのではな
いか。そのうえで、補償と謝罪を日本政府に要求することに彼女たちが後ろめ
たさを感じる必要はない。
彼女たちのうち四十六人は日本政府を相手取り東京地裁で係争中だが、すで
に日本の裁判の審理の遅さに絶望している。提訴から三年余りで原告三人が亡
くなった。彼女たちに多くの時間は残されていない。救済は生きているうちで
なければ意味がない。 (『朝日新聞』1996年6月5日付)
☆国によって差別することなく償い金は一律200万円になりました。
「二百万は韓国では犬の値段」(金田君子)という発言がありましたが韓国とフィリ
ピンでは200万円の重みが違います。韓国とフィリピンの「アジア女性基金」受容
の違いになっていると思います。(不謹慎にもエッ食べる方?と一瞬思いました)
(太平洋戦争犠牲者遺族会による裁判では一人あたり2000万円を請求している)
☆「基金が償い金を元慰安婦の方にお渡しするに際して、日本政府が元慰安婦の方
に条件を求めることは当然ない」 (「アジア女性基金」文書1996年10月3日)
⇒ドイツの場合、総額は巨額だが被害者も膨大なので、一人あたりは僅かな金額に
なる補償金を受け取る時は「これ以上請求しません」という文書にサインしないと
いけないようですが、
「アジア女性基金」は、すでに提起している日本政府相手の訴訟・2000万円請求は
取り下げなくてもよい。韓国政府や民間からの給付や贈与とダブってもよい。領収
書も不要という「条件」
③韓国
国の補償 改めて求める 韓国 【ソウル4日=渡辺勉】
…「韓国挺身隊問題対策協議会」の尹貞玉・共同代表は「ハルモニ(おばあさ
ん)たちは日本政府が法的な責任をとり、個人補償をしない限り、日本からは
いかなる名目の金も手紙も受け取らない」十三日には、フィリピンや台湾など
の五十三市民団体に呼びかけて、基金に協力した企業の製品不買運動を宣言す
るという。
慰安婦として最初に名乗りをあげた金学順さんは「もう日本人が信じられな
い。日本の土は二度と踏みたくない」と語気を強めた。「手紙でも首相がはっ
きりと謝ってほしい。今度こそは、ごまかさないでほしい」…
(『朝日新聞』1996年6月5日付夕刊)
4)慰安婦の救済<運動の大義
⓵支援者に過ぎないのに、あたかも被害当事者全体を代表するかのような物言い
⇒国家補償でなければ責任が明確にならないという理由で、韓国・台湾・フィリピンの元慰安婦、支援団体は、「償い金」受け取り拒否で一致していた。
②受け取りの可否は被害当事者自身に委ねられるべきものなのに、
受け取りを表明したら裏切り者扱いのような言動
③被害者が受け取ったら運動が頓挫するという発言
慰安婦の救済より運動を継続するために問題を解決させたくないように思える
☆今日(2024年)では、慰安婦問題を主導してきた韓国挺身隊問題対策業議会
(挺対協)、2018年に日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)と改称した団体の持つ欺瞞性は明らかになっておりますが、当時から、この運動の持つ問題の片鱗は見えていますね(当然、ユウタは気がついていませんが)
⇒ユウタは教室に運動(体育じゃないよ)を持ち込むやつが大嫌い
<ナミリの感想>
従軍慰安婦問題は、とても難しい問題だと思います。なぜなら人間の内面性(精神)に触れているからです。自分が慰安婦にされたことを、慰安婦にされ実体験したことを人には絶対言いたくないだろうに、他にも苦しんでいる人々のためにも、勇気を出して、体験を告白して…
それなのに日本は何をやっているのだろうと思います。「他の国もやっているのだから」とか、まわりくどい言い方をして謝罪してるんだか、してないんだか、わからないことばかり言ってて、いい加減腹が立ちます。悪いことは悪いのだから、素直に反省の気持を見せるべきです。
⇒イラついたナミリの感想が続くのは、新聞報道をピックアップして「アジア女性基金」の進捗状況を紹介していたため。板垣正彦参院議員(日本遺族会顧問)が自民党の総務会で「歴史の真実でない」と慰安婦問題の教科書掲載に反対し、それに怒った
元慰安婦の金相喜さんが議員会館に乗り込み抗議すると、板垣議員が「金もらってないのか」「八年間、一銭ももらってないのか」と質問したり。とにかく揉めていたからです。ナミリは一生懸命書いてくれてますね。
◇1996年6月7日(金)
失言、ナミリさんのために、みんなの前で言うべきでない。
⇒教室で何も考えずに、みんなの前でナミリに何か言ったんだと思う。
覚えてないけど。学生とつきあう場合「実は先生とつきあっているんだよ」とか友だちに言われることがいちばん困るんだけど。ナミリは情報秘匿が完璧で、その手の心配をする必要がない人。むしろ考えすぎじゃないと思うくらいの人。
ちょっと後の話になるんだけど、当時「写ルンです」とかいうインスタントカメラが流行っていてカラオケに一緒に行った後、撮った写真を現像しておいてと頼まれて何も考えずに甲府のカメラ屋さんに出したことがバレて説教地獄となった。
甲府で頼んだら、もしかしたら、あたしの知り合いがいるかもしれないでしょう。
そこから二人のことがバレたらどうすんのよ。バレてもいいのバレたら困るでしょ。
延々と説教された。
当時の日記を見てたら、本の帯を破って二つ折りにした紙が出てきて、開いたら
「ごめん。本当にごめん。ちょっとおこっちゃってごめん。ユウタの気持も考えないで。本当にごめんなさい」
と書いてあった。後でナミリ自身が反省するくらい怒られたみたい。
(よく考えたら写真のことじゃないと思う。深刻すぎる。たぶんあれ関連。あれ?)
そういえば石和の成人式の時、ナミリの友だちが近づいてきて、ナミリとユウタのツーショットの写真を撮ってくれたことがあった。事情はすべて承知しておる、みなまで言うなという雰囲気だった。着物姿のナミリとツーショットの写真が撮れる。うれしい。でもナミリでも友だちに打ち明けることがあるんだ。ちょっと驚いた記憶がある。
5「吉田清治証言」
1⃣従軍慰安婦の証言
韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編
『証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち』(明石書店1993年10月)
の全体分析を検討した。
「挺対協に申告した元慰安婦は1992年12月末現在で、生存者55名、死亡者55名だった。そのうち連絡可能な40名に接触し、自分の体験を語りたがらない人、証言を聞くたびに、ひどく食い違ったり調査が難しい人を除いていきながら最終的に完成したのがこの19名の証言集である」
1)慰安婦の出身
⓵家庭の経済背景
裕福だった2名を除いて、とても貧しかった。奉公している人が5名。工場で働いていたり親戚の家に居候していたり家出をした人、両親に売られた人もいた。
②学歴
非常に低い。無教育4名。教会の夜学が3名。普通学校に通った経験がある人は10名卒業した人はいない。例外的に国民学校高等科在学中に勤労動員され、後に慰安婦に連行されたという人がいるだけ。
③結婚状態
ひとりだけ結婚した経験があったが、連行された当時は単身でソウルにいた。残り全員が未婚で処女だったと判断される。遊郭出身は一人もいなかった。
2)動員方法
「詐欺または暴行、脅迫、権力乱用、その他の一切の強制的手段」による動員を強制連行と把握するならば、本調査の19名は大部分強制連行の範疇に入る。
3)慰安所の管理方法
⓵慰安所の管理
軍慰安所は軍人・軍属が使用することになっており地方官民の使用は不可。軍人・軍属も軍慰安所以外の慰安所などの使用と民間売春婦などとの接触は禁止されていた。
②設立と運営
軍直営、民間が設立し軍の許可を受ける、民間慰安所を軍慰安所に編入の3パターン
4)慰安所生活
⓵時間と人数
軍人の階級別出入り時間と使用時間の制限があったものの、きちんと守られていなかった。戦闘がある時とそうでない時、平日と週末の差が激しかったためである…一日に相手をした数も一定ではなく少ない平日は十人以内、多い日には五十人以上、数えることもできなかったほど多い日もあった
②定期健診ならびに衛生状況
(19人中)15人は、すべて定期的に病院に行って、あるいは慰安所に来た軍医によって性病検査を受けた。日本軍は性病が広がることを防ぐために必ずサック(コンドーム)を使用することを指示した。しかしサックを使わない軍人も多かった。
5)料金受領の可否
規定では軍人の階級別・使用時間別による料金が明記されていた。混雑防止のため料金は券で支払われることになっていた。本調査の結果は慰安婦に対する料金の支払いが大部分なされなかったことを示している。
「私たちはこの調査を通じて、日本の軍慰安所制度が日本軍によって組織的に施行されたという点と、特にこれが植民地の下層階級女性に対する大々的で強制的な動員によってなされたことを確認した。こうした軍慰安所制度は、今までの世界史上類例を探すことができない唯一のものである」
☆この前年、この19人の証言集を、みんなに割り振ってまとめてもらって、それをユウタがワープロ(パソコンじゃないのよ)で清書して印刷して冊子にして、みんなに配ったことがあったけど、まさに生き地獄だったね。俺がいちばん大変じゃん。実際、本当に大変だった。もう二度と、こんなことはしないと固く誓うぐらい大変だった。ユウタの数少ない取り柄のひとつにタイピングが早いというのがあるんだけど、この時は、やってもやっても終わらず、また学生のまとめに手を入れたりして永久に終わらないかもしれないと思った。
なによりしんどいのは、全ての証言がフワフワしていて使えないところにある。読み物としては興味深いものだけど。本人の境遇には深く同情するけど。本人の証言の信ぴょう性を担保する、第三者の証言とか全くない。裏を全然とってない。
学生もまとめろと言われてもまとめようがなかったと思う。地名も部隊名もわからない。時期も曖昧、テキストクリティークの対象にならないわけで、これは時間の無駄だーと思ったね。(後で授業で使いましたから全くの無駄ではありません)
誤字だらけの冊子が出来て、まあ自分が担当したところは、みんな真剣に読んだだろうから、哀切痛哭の人生を読んで各々思うところもあったでしょう、それで良しとしようと自分をなぐさめたことを覚えている。
これは聞き取った挺身隊研究会の人たちも同じだったみたいで
「生存している元慰安婦たちは年老いており、これまでの逆境のために、自らが経験した苦難の多くの部分がぼんやりとした記憶としてだけ残っている。彼女たちからより明確な記憶を引き出すために、挺身隊研究会員たちは日本の軍隊史、戦争史、わが国の植民地史に関する資料を参考にし、これまで発掘、報告された慰安婦関係の軍文書資料および証言などを精密に検討しながら、元慰安婦に対する面接調査を行った」
あやふやな記憶のおばあさんから明確な記憶を引き出すために事前に学習した。しかし、その学習したものが虚偽だったら、どういうことになるんだろうか?
2⃣「吉田清治証言」
「当時、山口県労務報国会下関支部動員部長」であったと称する吉田清治は「慰安婦狩り」の状況を次のように書いている。
一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊員二百名
一、年齢十八歳以上三十歳未満(既婚者も可)
一、身体強健なる者(医師の身体検査、特に花柳病[性病]の検診を行うこと)
一、期間一年(志願により更新することを得)
一、給与 毎月三十円也 支度金として二十円也
一、勤務地 中支方面
一、動員地区 朝鮮全羅南道済州島
一、派遣日時 昭和十八年五月三十日正午
一、集合場所 西部軍第七四部隊
という軍の動員命令を受けた吉田清治は済州島各地で朝鮮人女性を強制連行した。
城山浦の貝ボタン工場での強制連行の状況は以下のようなものであった。
女工たちは竹かごの中から貝がらを、手早く鉄わくの中に入れ、足踏み機械を
操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた。隊員た
ちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工た
ちを起立させた。
「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」と山田が大声で言うと隊員たちは笑い
声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘
を選びはじめた。
若くて、大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年
取った女にしがみつくと、山田は…台をまわって行って娘の腕をつかんで引きず
り出した…女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たち
は若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえた…
女工の中から慰安婦に徴発した娘は十六名であった。
(吉田清治『私の戦争犯罪ー朝鮮人強制連行ー』三一書房1983年韓国語版1989年)
吉田清治は結局、済州島で二百五名の女性を強制連行したというが、全くのでたらめであるという批判が現地の新聞から出ている(「済州新聞」1989年6月14日付)
解放四十四周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用
していたという記録が刊行され大きな衝撃を与えている。しかし裏づけの証言が
なく波紋を投げかけている…しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工
場で十五~十六人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦
狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちは「でたらめだ」と
一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。
城山浦の住民チョン・オク・タン(85歳の女性)は「二五〇余の家しかない、
この村で、十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかっ
た」と語った。
郷土史家の金奉玉(キム・ポン・オク)氏は「一九八三年に日本語版が出てか
ら、何年かの追跡調査をした結果、事実でないことを発見した。この本は、日本
人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している (許栄善)
(秦郁彦『昭和史の謎を追う』(下)文藝春秋社1993年)
吉田清治は、経歴もウソ名前もウソ、何が本当か分からない怪しい人。
1963年に『週刊朝日』の「私の八月十五日」の手記募集に吉田東司という名前で応募、下関市内における朝鮮人労務者の調達体験を書いて選外佳作になっている。
私はその頃山口県労務報国会動員部長をしていて、日雇労務者をかり集めては、
防空壕堀や戦災地の復旧作業に送っていた。労務者といっても、その頃はすでに朝鮮人しか残っていなかった。私は警察の特高係とともに、指定の部落を軒並に尋ねては、働けそうな男を物色していった。
⇒何故、この時(1963年)に慰安婦の強制連行を書かなかったのか?
1973年 千田夏光『従軍慰安婦』(正続)50万部のベストセラー
1976年 金 一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』 (三一書房)
1977年 吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人』 (三一書房)
⇒何故、この時(1977年)に慰安婦の強制連行を書かなかったのか?
1983年 吉田清治『私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行-』 (新人物往来社)
⇒慰安婦を強制連行する証言が初めて登場する。
1989年 吉田清治『私の戦争犯罪ー朝鮮人強制連行ー』(韓国語版)
1990年 尹 貞玉「「挺身隊」怨念の足跡取材記」(「ハンギョレ新聞」)
⇒強制連行したと言われたら調査するしかない
1990年 7月 挺身隊研究会発足
1990年10月 挺身隊問題対策協議会発足
⇒慰安婦問題が本格的に動き出すのは「吉田清治証言」が韓国で出版されてから。
NHK山口支局は、吉田清治を軸にドキュメンタリー作ろうとして50人以上にインタビューして裏が取れなくて断念し、出版社も「あれは小説ですよ」と言ってたらしい(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』)考古のゴッドハンド笑えない。
吉田清治はサハリン残留韓国人裁判に強制連行の証人として出たり、平和集会で講演をしている。
「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」(大阪1986年8月)
木剣をふるい無理やり動員-加害者として(千葉県我孫子市)吉田清治(77歳)
私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の一つは、従軍慰安婦を九百五十人強制連行したことです。従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです…これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。
この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が十人か十五人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官五十人か百人を動員します。そして警察官の護送トラックを五台から十台準備して、計画通り村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は皆、木剣を持っていましたから殴る蹴るの暴力によって、トラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、一つの村から、三人、五人、あるいは十人と連行していきます。
そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、三日から五日の間に、予定の百人、あるいは二百人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡船で下関に運んだのです。下関では、七四部隊という陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受取りに来ている軍属に渡します。そして御用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を三年間やっておりました。十万とも二十万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に一人もお帰りになっていないのです。 (朝日新聞社編『女たちの太平洋戦争』朝日文庫1996年9月)
⇒吉田清治は戦後まで一度も朝鮮に行ったことがなかったと息子さんは証言しておりますが、そうだと思いますね。植民地支配のデリケートさとか全く分かっていない。
どんなつもりで話していたのか、とても興味深いですね。懸賞マニアだったらしいけど、当たったと思ってたんでしょうか。
それより、さらに深刻なのは、このような言説が勇気ある証言ともてはやされていたことですね。完全な作り話が発端となって日韓関係を破壊し、国連人権員会でも取り上げられることになる。戦後十年二十年の段階では不可能だったと思います。本当のことを知っている人たちがいっぱいいて、何言ってんだ、頭おかしいだろと完全否定されたと思います。
このような正真正銘の大嘘が受容される社会とは、時代とは如何なるものか。
とても興味深いですね。
<ナミリの感想>
実際に慰安婦であった金学順さんの証言が詳細に書いてあるけど、とてもむごいと感じます。「自分が何でこんなことをしなければならないのか」 と納得のいかぬまま、毎日、軍人の相手をして、本当につらかったと思います。こんなにつらい思いをさせておいて、日本が現在までとっている態度には、全く情けなさを感じます。
本当にムカつくのは奥野法相の発言です。実際に従軍慰安婦というものがあり、実際につらい思いをさせられた女性たちは何人もいます。恥ずかしさを堪えて公表した人だっているのに「何を言ってるんだろう」こんなに時間をかけないで早く反省したらいいと思います
(欄外に「明日(6/8)はmy birthday 20歳です」と書いてあった)
⇒奥野法相の発言は「(慰安婦は)商行為ではないか」という発言。1913年生れの内務官僚、終戦時32歳くらいの人。当時は目前の元慰安婦のおばあさんたちの救済を第一義に考えていたので「ダマレ。デリカシーのないジジィ」という受け止めでしたね。
3⃣金学順さんの登場
1991年8月 金学順さん、清水局長の発言を知り挺身隊問題対策協議会へ連絡
日中戦争や第二次世界大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本
軍相手に売春行為を強いられた「朝鮮人慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生
存していることがわかり「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉共同代表十六団
体・約三十万人)が聞き取り調査を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音し
たテープを、朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも
身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、
戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。
尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。
…女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にさ
れた。二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民
家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。
女性は「春子」と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校
の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士二、三百人を受け持ち、毎日三、四
人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなか
った。相手が来ないように思い続けた」という。また週に一回は軍医の検診があ
った。数か月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルに戻った。
結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしてい
る。 (「朝日新聞」1991年8月11日付・植村隆記者)
金学順さんは1991年8月14日にソウルで記者会見し「ハンギョレ新聞」(1991年8月15日付)にその内容が掲載されている。金学順さんはキーセンに売られたことも発言しているが、朝日新聞の記事はキーセンに売られたことは書かれておらず、女子挺身隊の名のもとに連行されたことが付け加えられている。
⇒キーセン(妓生)は歴史的には高官や使者を歓待するために宴会で楽技を披露したり性的奉仕をする奴婢のこと。制度が廃止された後も名前は残り、ひと昔前キーセン観光と言えば、韓国に買春に行くことを意味していた。
⇒尹貞玉挺対協共同代表は1943年12月、梨花女子専門学校(後の梨花大学)在学中に「日帝が…未婚の女性たちを挺身隊に引っ張ってゆくという恐ろしいことが頻繁に起こるようになった…私は両親のすすめに従って退学し挺身隊を免れた」と挺身隊と慰安婦を同一視するような回想を残している。慰安婦問題に取り組む動機ともいう。
大戦末期、徴兵による労働力の不足を補うため学生が勤労動員された。女子学生も女子勤労挺身隊として工場に動員された(そして風船爆弾などを造っていた)
女子の進学率が低く、当時の良家の子女である女子学生を、慰安婦にしたら大反乱がおき、戦争遂行に支障が出るだろう。必要もないのに、そんなことするわけないだろ、常識的に考えてと思うが、「処女供出」という噂が流布していたことは事実らしく(総督府は敵の謀略と思ってたらしい)尹貞玉挺対協共同代表は女子挺身隊=慰安婦を固く信じている人。
⇒尹貞玉氏がテレビに出て「認めることです。(そうしないと)世界に恥をかきます
よ」とか言ってるのを聞いて不思議に思ったことがある。日本政府は認めまくっているんじゃね。必要以上に。尹氏は長身痩躯でメガネをかけていて、いかにも元大学教授という印象の人。大学の先生は、どんなに人当たりが柔らかくて温厚そうに見える人でも職業柄、頑固で人のいうことを聞かない人しかいない。
⇒「世界に恥をかきますよ」 日本の悪行を世界に宣伝するという発想は、古くはハーグ密使事件から廬武鉉・朴槿恵などの「いいつけ外交」現在の慰安婦少女像設置運動まで連綿と続く韓国の伝統のようなもの。
廬武鉉がドイツに行って日本の韓国統治とホロコーストを同一視するかのような言動を行い、ドイツ人を当惑させユダヤ人にブチ切れられたことがある。「ドイツはきちんと謝ったけど日本は謝ってない」ということを言いたかったんだろうけど、ドイツ人はホロコーストを持ち出されることが大嫌い。比較を絶する究極の犯罪であり、ドイツ民族が未来永劫背負う十字架だから。
ユダヤ人はホロコーストの相対化を許さない。日本軍の残虐行為を表現するために
「アジアのホロコースト」とか言うのはやめた方が賢明。つけた時点で大変な力を持つ在米ユダヤ人社会の反感を買うから。どうも中国は、そのあたりの機微が解ってないよう。アイリス・チャンの「The Rape of Nanking:The Forgotten Holocaust of World WarⅡ」は、その一例。
4⃣金学順さんの証言
1991年12月
金学順さん、太平洋戦争犠牲者遺族会の元日本兵とともに日本政府の謝罪と補償を求めて、東京地方裁判所に提訴
裁判を支援するためウリヨソンネットワークが結成される
1992年1月
加藤紘一官房長官「日本軍の関与」を認め、謝罪する談話を発表
宮沢首相、日韓首脳会談で公式に謝罪
人間は子供の頃に好きだったものに一生規定されるところがある。
ユウタが小学生のころプラモデルが流行っていた。軍艦のプラモ(喫水線の下をカットした)ウォーターラインシリーズが出始めた頃で最初に出た重巡から作り始めた。
そこから戦艦・空母・駆逐艦など数十隻は作ったと思う。軍用機も好きだったので、
数十機作った(今はプラモデルを作る本を買って、それを眺めているだけです)
そこから第二次大戦限定のミリオタとして育った。雑誌「丸」も愛読していた。
(軍旗って、こんなに大切なものなんだとビックリした)五味川純平の『戦争と人間』の17巻がなかなか出ないので待ちあぐねていた。軍記物も大好物でよく読んでいた。すると伊藤桂一や豊田穣の小説に、中国やラバウルで慰安婦が出て来るわけ。
だから慰安婦の人が名乗り出たのを見て、坂井三郎中尉や小野田寛郎少尉のような歴史上の人物が現れたような気がした。慰安婦の人たちが兵士に尽くしてくれたこと、兵士たちの心のよりどころになっていたことも知っていたので、感謝と敬愛の気持をもって見ていた。それは今も変わらない。
でも金学順さんの証言よく読むと、いかがなものかと思うところもある。
1)吉林で生まれて
⓵1924年吉林省で生まれる。生後100日たたないうちに父が死に平壌に帰る
②平壌の教会が経営する学校に四年ほど11歳まで通う。一番いい思い出。
③14歳の時、母が再婚、新しい父になじめず母とも仲たがいする。
2)妓生(キーセン)の家に養女に出されて
⓵15歳の時、母は私をキーセン養成学校に養女に出す
何年かの契約で母は40円を養父より受け取る。
②キーセン養成学校で踊り・時調(伝統詩歌)を学んだ。
③十七歳で卒業したが、若すぎて朝鮮では営業許可が出ないので養父と中国に行
くことになる。
3)日本兵に奪われた処女
⓵北京に到着し、ある食堂を出たところで養父は日本の軍人にスパイ容疑で連行され
自分は日本兵の乗っているトラックに無理やり乗せられる。
②日本軍の将校に処女を奪われる。
4)ぞっとする慰安婦生活
⓵その家には五人の朝鮮人女性がいた。溶かすとピンク色になる消毒液を渡される
②一日に七、八人の軍人の相手をさせられた。
兵士は一円五〇銭、将校は八円出さなければならないと聞いた。
③客の軍人に食べ物を持ってきてくれるように頼むと
ご飯や汁、乾パンを持ってきてくれることもあった
5)朝鮮人男性との脱出
⓵部隊が出払っている時朝鮮人の銀銭商人が客として来る。
「ここから出られたら死んでもいい。捨ててもいいから連れて逃げて」と懇願する
四ヵ月ぶりの脱走だ。
②男は中国人になりすますのがとても上手だった。あらゆるところを歩き廻っていた
たぶんアヘンの仲介をしていたのだと思う
③十八歳の時に妊娠、上海フランス租界に住むことになる
④1943年に女の子、1945年正月に男の子を産む
松井洋行という質屋を経営していて生活は順調だった
6)喜んでくれる人もいない故国へ
敗戦ですべてを失う。帰国する船中でコレラが発生し娘が死ぬ
7)夫も息子もなくして
⓵野菜売りをし、夫は工事現場で働いた。建物の下敷きになって夫が死んだ。
②酔うと汚い女と罵る夫との生活は苦痛で死んだときも悲しくなかった。
③海を見たいという息子を海岸に連れて行った。
しかし海水浴に行った息子は心臓まひで死んでしまった
④1961年に全羅南道に移り住み手あたり次第に仕事して20年過ごす。
気を取り直してソウルに出て、7年間女中をする
体の具合が悪いので1987年にその家を出て、ためたお金で今の家に住んでいる。
⑤「私の純潔を奪い、私をこんなにした奴らをズタズタに引き裂いてやりたいと思う
気持ちもあります」
(挺対協『証言強制連行された朝鮮人従軍慰安婦たち』)から要約。
⇒朝鮮総督府警務総監部令第四号「貸座敷娼妓取締規則」(1916年5月1日施行)
朝鮮全土に公娼制が施行され日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が内地より一歳低い
十七歳未満に設定された(年の数え方が違うからか?)
⇒十七歳になっているのに?若すぎるというのは意味不明だが、中国に連れて行くた
めのウソの説明だったのかもしれない
⇒スパイ云々、連行されたと本人は主張するが、中国で転売されたと考える方が蓋然
性は高いように思う。
⇒朝鮮人銀銭商人の手引き?民間人も使用する慰安所なのか?
⇒哀切苦闘の人生で深く同情するけど、日本の責任を問えるのか。難しいと思う。
売春予備軍とみなされるキーセン学校に親に売られている
強制連行されたわけじゃないし…
⇒慰安婦だったと名乗り出る人には共通点があります。身寄りがない孤独な人が多い
です。家の恥になるから、やめろと止める家族がいないとも言えます。
◇「朝日新聞」の記事取消(『朝日新聞』2014年8月5日付)
「慰安婦強制連行」の証拠としてきた「吉田清治証言」を「虚偽だと判断し、記事を取り消」すと発表。
⓵「軍関与を示す資料」⇒「宮沢首相の訪韓時期を狙ったわけではありません」
②慰安婦と「挺身隊」との混同⇒「当時は研究が乏しく同一視」「誤用」
③「元慰安婦 初の証言」キーセン出身を書かなかった理由
⇒「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いてなかった」
(テープを起こした植村隆元記者)
④「済州島で連行」証言[吉田清治証言]⇒確認できただけで16回記事にした
「産経新聞」吉田証言に対する疑義を報道(1992年4月30日付)
⇒真偽確認できないと1997年3月31日付の特集以降「朝日新聞」は取り上げてない
2014年4~5月、済州島で再調査を行い、70代後半から90代の計約40人に取材したが
強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。
「吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」
⑤「強制連行」の定義
狭義の「強制連行」官憲の職権を発動した「慰安婦狩り」「ひとさらい」的連行
広義の「強制連行」軍、総督府が選定した業者が、略取、誘拐や人身売買により連行
⇒済州島再調査は、田原の番組で上杉聡戦争責任資料センター事務局長が「(吉田清治証言を裏付ける)証言する人は済州島にいます。ただ済州島は朝鮮本土から大変な差別を受けているので、名乗り出れないのです」とか真偽不明なことを言ってたので
最後の一縷の望みとして縋ったんだろうと思う。
疑う記事が出たのが1989 年、取消が2014年。2014-1989=25 遅すぎるのでは
オーラルヒストリーはとても貴重なものだけど扱いには細心の注意を要することを如実に表した事件でしたね。宮沢訪韓を狙って嵌めこむようなキャンペーンやる前に、調査しておいてほしかったです。
考古のゴッドハンドは捏造がバレた後、学問領域自体が消滅したらしいけど(詳しいことは知りませんが)それに近いものがあると思う。「吉田清治証言」が土台にあり、全てその上に組み立てられていたのに、その土台がなくなったようなかんじ。
⇒挺対協は学術団体ではなく、活動家の集団ですから、資料から結論を導き出すというより、結論があってそれに資料(この場合は証言)を、あわせて行っているように思います。元慰安婦のおばあさんも証言を挺対協の主張に寄せて変遷させています。
⇒「朝日新聞」は「問題の本質は、軍の関与がなければ成立しなかった慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳を傷つけられたことにある」「戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳が踏みにじられたことが問題の本質なのです」
(「朝日新聞」2014年8月5日付)
正直、何言っているのか、よくわかりません。前借金に縛られて逃げられないような江戸時代の吉原遊郭のような状況を想定しているのか?
もちろん、どんなケースであっても売春を好きでやる女性はいないと思います。家のために、親のために、兄弟姉妹のために、因果を含められて納得づくで証文にサインして売春婦になった人も、内心は嫌で嫌でたまらないけど、あきらめている。というのは充分推測できる心の動きだと思います。
ただ、そういう事例は、恐らく売春の歴史が始まってから、今現在に至るまであるわけで、この日本軍の関与する「売春」だけ遡って断罪され補償しなければならないのかというと、やはり官憲の「強制連行」と「性奴隷(何の対価も得ていないという意味)」であることが証明されないと難しいと思います。
もうひとつ「吉田清治証言」は国内では完全に否定されていますが、国外では生きています。図式化すると次のようになります。
日本国内 「吉田清治証言」=捏造 強制連行なし 慰安婦=売春婦
日本国外 「吉田清治証言」=真実 強制連行された 慰安婦=性奴隷
本章では紹介だけにとどめた「第一次クマラスワミ報告」は、その典型です。
韓国系団体がアメリカに設置した慰安婦少女像には「日本軍によって20万以上の少女が強制連行された」「慰安所では性奴隷扱いだった」と書かれた碑文がつけられています。
最初に入った情報が先入観として残るし
過酷であれば過酷であるほど真実に近いと思うのは人の常だし
それを訂正しようとしたら、ごまかしていると思われるわけで
ホントに若い人には大変な宿題が残ってしまったわけで申し訳ないです
訂正しようとする努力を
unwinnable debate(勝ち目のない論争) だから
やめとけという元外交官の人もいるようですが
国益を声高に叫び「過去」を正当化しようとすればするほど
日本は国際社会の信頼を失いかねない
と主張する新聞もありますが
(どの口がゆうとんねん。「朝日新聞」は日本に必要か!と言いたいです)
歴史は真実をもとに組み立てられるべきものだし
正しいことは正しいし間違っていることは間違っているとしかいいようがない。
◇1996年6月13日(木)
従軍慰安婦の授業、すべってしまったのさ。やってる本人も分かってないから!
◇1996年6月14日(金)
オギソさんは悩みの種だ。このうえ工業の教師を連れてくると言っている(汗)
⇒オギソさんは、おばちゃんのこと。他の先生も呼んでくるとか言ってたみたいね。
他の大学の授業で盛大にすべったみたいだね。現在進行形のアジア女性基金の進捗状況をフォローしながらの授業だったのでバタバタしたし着地点がわかってなかった。
授業内容も二階に登らせて梯子を外すような構成なので、とっつきが悪かったと思う
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