第4話ナミリの電話
この小説はフィクションであり、登場する人物・団体名はすべて架空のものです。
1996年度に県立女子短期大学金曜三限に配置された2年生の科目アジア地域研究演習Ⅰを担当していたのがユウタで履修していた学生のひとりがナミリです。
ユウタは非常勤講師として教えに行っておりました。
非常勤講師は高学歴ワーキングプアとして近年メディアで取り上げられるようになりましたが一応説明しておきますね。野球で例えましょう。
専任……………プロ野球一軍
非常勤…………プロ野球二軍(NPBよりMLBのマイナーが実態に近い)
博士後期課程……社会人野球
博士前期課程………大学野球
学部…………………高校野球
専任というのは、その大学の先生になることです。専任講師⇒助教授⇒教授というかんじで偉くなっていきます(今は助教授でなく准教授といいます)
非常勤は、その前の段階。大学の授業は専門性が要求されるので、ひとりの人がアジアやったり欧米やったり古代史やったり近現代史やったりすることはありません。大学にとって非常勤講師は、安い給料で使える、とても重宝な存在です。学生から見れば同じ先生ですが、バイトみたいなものです。この当時、一コマ(一時間半)あたり6000円くらいだったと思います(記憶は曖昧ですけど)
この年のユウタは週七コマ半(半年の科目がひとつありました)担当し、月火木金と電車に乗って遠いところに行っておりました。
どうすれば専任になれるのか?”Publish or perish”という格言があります。直訳すれば「出版せよ、さもなくば滅びる」要するに論文を書きなさいということです。
教員として二つのモットーがありました。ひとつは一限前の時間に行くことです。三限を担当しているなら二限の時間にあわせて行きます。電車に長距離乗っていると、事故や故障で遅れたりすることもあります。間にあわないとドキドキして焦ってタクシーを使ったり走ったりするのが嫌なので厳守していました。
もうひとつは授業の準備に時間をかけることです。ユウタは10倍原則の信奉者です。一コマの授業に対して、その10倍の時間を準備にかけるという意味です。どんなに準備しても授業はすべるときはすべります。手探りでやったほうがいい場合もあるかもしれません。でも万全の準備をしたと思えた方が後悔が少ないと思ってました。
ユウタの専門は、正確に言うと戦間期日中関係史ということになりますが、女子大では所謂慰安婦問題を好んで取り上げておりました。大学の授業には学習指導要領のようなものはなく完全な裁量が認められています。よほど、おかしなことをして学生の評判になって事務に伝わるようなことがない限り何をやってもかまいません。
◇1996年4月19日(金)
山梨一回目ここは慣れているだけあってホッとするよ。
⇒いろんな大学で教えたけど、県短がいちばん遠いんですけど、いちばんケミストリーがあってたと思います。人数も少ないしね。何百人も相手にマイクで怒鳴り散らすような授業に比べれば天国ですね。のんびりしたところも田舎者のユウタにあってたと思います。十年以上行ったけど、一回も休みませんでした。出席率は百パーセントを超えています(学祭期間で休みなのに間違えて行ったことが三回くらいあります。あれ、学生が何か作ってるな。なんだろ?こっち見てるけど?講師控室に直行。心配した事務の人が「先生、今日はお休みです」と言いに来てくれるまで気がつきませんでした。一回だけじゃないところがスゴイ。ボケすぎ)
⇒ユウタの授業は、プリントを作って配り、それに関連するビデオを見せて感想を書いてもらうスタイルです。感想を見て理解度を判断したり授業の方向性を決めます。次の授業のプリントの初めの方に、何人かの感想をピックアップして紹介します。
ですから、みんな頑張って書いてくれました。
<ナミリの感想>
ビデオを見る機会が多いということで、とっても楽しみにしています。
おもしろくて興味深いビデオをたくさん見たいと思います。
先生の持っている知識をたくさん吸収したいと思います。
それでは一年間よろしくお願いします。
◇1996年4月26日(金)
山梨、一年の授業すべったか。おばちゃんのことは無視しよう。おばちゃんのことが少し邪魔だな。二年のナミリさん(本当は名字を書いていますがナミリで統一します)が、関東大震災を卒論でやりたいというので名刺を渡したら、いきなり電話してきた。ヒマだね。
⇒一年の授業、社会人聴講生として、おばちゃんが来ていたけど、当時でも今時こんな人いるの?というくらいの社会主義幻想の持主でしたね。たぶん中学か高校の教員をしていて退職した人だと思います。早船ちよ「キューポラのある街」に描かれている北朝鮮の様子を疑いなく信じているような人でした。個人の思想信条をとやかくいうつもりはありませんが、授業中に活発に発言をされて、その内容が学生に同調圧力をかけるようなものであり本当に困りましたね。ユウタは、自由にのびのび考えてもらいたいと考えているので、自分の意見を強く押しつけるような言い方はしません。
強く言い過ぎたと思ったときは、必ず「なーんちゃって」を付け加えるようにしていました(笑)それだけ気を使っているのに(怒)
⇒二年の授業の後ナミリが来て
「せんせえ、あたし、卒論、関東大震災やりたいんですけどぉ」
「ふーん。じゃあ何か困ったことがあったら連絡してね」
と名刺を渡したら、その日のうちに電話がかかってきた。
「あたし、すぐ電話する人なんです」とか言ってたと思う。
この前年1995年1月に阪神淡路大震災が発生しており、それで関心があったのかもしれないけど、ユウタと仲良くなる口実だったかもしれない。ユウタは関東大震災と日中関係に関する論文を書いている人なのだ(架空の人物ですけど)
二年生の授業ではシミュレーションとしてロジャー・ムーアがナビゲートするオードリー・ヘプバーンのビデオを見せた(ユウタ先生、なかなか授業始めませんね)
<ナミリの感想>
私は正直に言ってオードリー・ヘップバーンという人のことを名前と顔ぐらいしか知りませんでした。とてもキレイな人だということくらい。それで今日ビデオで、彼女の一生を見て、彼女は単に顔が美しいだけでなく、心もとても美しいかったのだと知りました。
私は恥ずかしながら彼女の作品をみたことがなかったのですが、ビデオで彼女が出演した映画を少しずつ見てみると、今日初めて見ただけでも彼女の魅力に”ずっぽり”
はまってしまいました。ビデオに登場していた人が、みんな言ってたように「目がキレイな人だ」ということは、まさにその通りだと思いました。病気で64歳という短い生涯を閉じてしまったわけですが、本当に惜しい人材を亡くした感じがします。
彼女の魅力にとりつかれた私は、彼女の出演している作品を、ぜひたくさん見たいと思います。
彼女みたいに外見も美しく心も美しい魅力的な女性になりたいと思います。
⇒何かカワイイこと書いてる。
◇1996年5月10日(金)
山梨の一年、おばちゃんがいないのにすべった。江戸時代の話は相当考えた方がいい。分かっているのに同じことを繰り返すよ。何回やっても分らんな。
これより
数字・記号が出てきますが 大◇⇒1⇒1⃣⇒1)⇒⓵⇒a) 小 とお考え下さい。
☆と⇒は、なんとなく適当に使ってます。
1沖縄米兵少女暴行事件
前年1995年9月4日沖縄北部で米第三海兵師団などに所属する三名の兵士が帰宅途中の小学生を拉致し、集団強姦した事件。三名の兵士に対する那覇地裁の判決は懲役六年から七年というもので「日本で逮捕されてラッキーだった。米国では、おそらく刑務所から出てこられないから」という他の米兵の感想も出るくらい軽いものだった。レンタカーが犯行に使用されたが「レンタカー借りる金で女買えばよかった」という趣旨の発言を米太平洋軍司令官が行い、降等され予備役に編入された。
<参考資料>
「性暴力を考える」被害者から上中下 (『朝日新聞』1996年2月26~28日付)
「性暴力を考える」読者から上下 (『朝日新聞』1996年3月10~11日付)
「裁判官は女性わかってない」 (『朝日新聞』1996年3月23日付)
⇒ドラマ「真昼の月」(1996年7~9月)の原案となったといわれる連載企画。
①強姦被害者の心の傷の深さ、強姦されている時に感じる死への恐怖。
②殺されるかもしれないという恐怖感で抵抗できない心理。
③強姦立証の難しさと量刑の軽さ。極端なことを言うと、抵抗しないと強姦じゃないくらいの判決が出ていた。勇気を出して告発すると社会の好奇の目にさらされ傷モノになったとか言われ、軽い女、誘惑された、冤罪とか加害者よりの報道をされる。
☆もし万一強姦された時の対処法
①病院に行き妊娠の検査、性病の検査をする。
②警察に行き被害状況(ケガとか殴られた跡とか)を保全し裁判の準備をする。
③被害者なのに社会的に抹殺されるから泣き寝入りする例も多いが、自分の不甲斐な
さに一生立ち直れない人もいる。
④裁判を戦い判例を積み重ねて世の中を変えるべき。
<参考ビデオ>
沖縄戦直後に難民キャンプに収容されて米兵に強姦された女性の「強姦することで私
を殺したんだから、私を強姦した相手を機関銃で撃ち殺してやりたい」という証言。
1955年に発生した由美子ちゃん事件(米兵による六歳女児強姦殺人事件)の内容。
事件に抗議し米軍基地縮小・日米地位協定の見直しを訴える県民総決起大会参加者
は主催者発表八万五千(警察発表五万八千)返還後、最大規模の抗議集会となった。
<ナミリは就職説明会のため欠席>
ナミリによれば金曜午後に配置されているユウタの授業は、彼氏のいるようなかわいい子は履修しないんだって、デートの約束があるから。だいぶん後で教えてくれた。
(デートしてたんだ…)
◇慰安婦問題の整理
所謂慰安婦問題は最初から学問の枠を超えた日韓関係を揺るがす外交問題でした。背景に韓国の民主化、フェミニズムの勃興など、さまざまな要因がからんでいます。
これから始まる授業(!)の理解を助けるため簡単に整理しておきます。
1⃣「従軍慰安婦」とは
1)「従軍慰安婦」の身分
「従軍慰安婦」といえば従軍看護婦、従軍記者のような軍属(陸海軍文官・同待遇者及び宣誓して軍の勤務に服する者)の身分を連想させるが、1940年5月閣議決定に基づく『外事警察執行要覧』によれば芸妓・酌婦・女給など「特殊婦人」は民間人として扱うように規定されている。
2)慰安婦の性格
慰安婦の存在を否定する人はいないが、その性格には対立する二つの見解がある。
「軍強制慰安婦(性奴隷)」⓵「強制連行」された ②軍(国)の関与
「戦場 慰安婦(売春婦)」⓵売春婦が戦場に移動 ②軍の関与は「よい関与」
3)「強制連行」の根拠
⓵「吉田清治証言」諸悪の根源。偽証。いまだに祟っている。
②挺身隊=慰安婦という誤解。韓国では今でも挺身隊と慰安婦は同義語。
「官憲による奴隷狩りのような連行が朝鮮・台湾であったことは確認されていない。
また女子勤労挺身令による慰安婦の動員はなかったと思われる」 (吉見義明)
③元慰安婦の証言⇒証言聞き取りの過程に問題はないのか?
2⃣韓国における慰安婦のイメージ
「平和でのどかな韓国の農村にある日、突然、日本の軍人たちが軍用トラックでやってきて、野原で楽しげに草花を摘んでいた可愛い少女を捕らえ、その泣き叫ぶ少女を
無理やりトラックに押し込んで連れて行き、部隊では、監禁、暴行のあげく、将兵らの性的なぐさみものにした…このようなイメージはテレビ、映画のシリアス・ドラマからコメディ、書籍、そしてテレビの慰安婦支援募金キャンペーン番組の背景シーンにまで、登場し、現代の韓国社会に定着している」
(黒田勝弘『韓国人の歴史観』文春新書1999年1月)
⇒慰安婦が主人公のテレビドラマ、韓国MBS「黎明の瞳」(1991年10月~92年2月)は平均視聴率40パーセント、最高58パーセントという大ヒットとなった。
宮沢首相はドラマの放映中(92年1月)に訪韓することになる。
3⃣朝鮮人軍属の慰安婦に関する証言
「44年夏テニアン島で米軍の捕虜となった」「反日感情が強い」「朝鮮人軍属」
「太平洋の戦場で会った朝鮮人慰安婦たち(prostitutes)は、すべて志願者(volunteer)か、両親に売られた者ばかりである。もし女性たちを強制動員
(direct conscription)すれば、老若を問わず朝鮮人は憤怒して立ち上がり、
どんな報復を受けようと日本人を殺すだろう」
(秦郁彦『戦場の性と慰安婦』新潮社1999年6月)
⇒大戦争を遂行中で朝鮮半島にも徴兵制を施行(1944年9月)しようとしているのに、反乱の要因ともなりうる「強制連行」を必要もないのにするか?常識的に考えてと思うのですが、韓国では「朝鮮人女性20万人強制連行説」が異論を許さない国論となり「日帝の蛮行を世界に知らせる運動」(少女像設置)に発展していきます。
ただ韓国人が思い込む過程があって、その大元をたどれば、すべてmade in japanだから話は複雑で闇は深いのです。
☆「強制連行」は朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社1965年)に由来する造語。徴兵・徴用を「強制連行」と言い換えている。在日朝鮮人が日本に定住することを合理化する根拠として「強制連行」された人が「在日」であると主張した。
(在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が始まった)1959年の日本政府の調査によれば、国民徴用令の適用による朝鮮人徴用は1944年9月から(関釜連絡船が止まった)1945年3月までの期間に限定される。その間に徴用されて、そのまま日本にとどまった者は登録在日朝鮮人約61万人中の245名に過ぎず「在日」のほとんどは自由意志で来日し残留した人々である。 (『朝日新聞』1959年7月13日付より)
「謝罪したのに謝罪してないと言われる」「補償したのに補償してないと言われる」
何でそうなる?怒ったり反発するのも当然だと思いますが、その原因を解明することが、よりよい日韓関係を創り出すために必要なことだと思います。
本作は1996~97年を舞台にした物語なので、時代的な制約(というかユウタがアホなんですけど)があります。「従軍慰安婦」を授業でも深く考えることなく使っています。
◇1996年5月17日(金)
一週間悩んだ山梨の一年の授業やっと軌道に乗る。ビデオ様々。
2「アジア女性基金」
1⃣宮沢訪韓と「河野官房長官談話」
1992年1月
宮澤喜一首相訪韓直前に軍の「関与」を示す資料が発掘されたと報道される
(『朝日新聞』1992年1月11日付)
宮沢首相、日韓首脳会議で公式謝罪。
<発掘資料>
陸軍省兵務局兵務課起案「軍慰安所従業員募集ニ関スル件」(1938年3月4日)
…副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案
支那事変ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於イテ之カ従業員ヲ募集スルニ当タリ 故ラニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク
虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル
虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警
察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将
来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切
ニシ其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信
保持並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度 依命通牒ス
(吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』大月書店1992年12月)
⇒前年1937年7月に北京郊外盧溝橋で始まった戦争が、上海に飛び火し(第二次上海事変)夥しい戦死者を出しながら制圧した勢いのまま首都南京攻略を果たすものの、蒋介石政権は漢口に遷都し徹底抗戦する。
日本政府は「国民政府を対手せず」(「第一次近衛声明」1938年1月)と声明し交渉相手を否定して和平の糸口を失う。速戦即決の目論見が外れ、対ソ戦に備えたい軍中央は不拡大方針だが、功名心にはやる現地軍は言うことを聞かないという状況。
長期戦に対応するため⓵治安対策(占領軍による強姦事件が頻発したら円滑な支配ができない)②性病対策(シベリア出兵の戦訓。性病が蔓延したら戦力が低下する)を目的とする慰安所が設置されることになります。
資料を見ると、どうも現地軍の裁量で個別に慰安所を設置していたようですが、慰安婦を日本国内で騙したり、誘拐みたいな集め方して警察の取り調べを受けとるぞ、注意せよ、きちんとやれという内容の通達です。
1993年8月
日本政府、資料調査と元慰安婦16名のヒアリングによる調査結果を公表。
河野洋平官房長官「日本政府の従軍慰安婦問題に対する認識(「河野官房長官談話」)」を発表。
①慰安所の設置・管理、慰安婦の移送について日本軍が 「直接あるいは間接にこれ
に関与」した
②慰安婦の「募集」は「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた
事例が数多くあり」「官憲等が直接これに加担したこともあっ」た
③慰安所における生活は「強制的な状況の下での痛ましいもの」であった
④朝鮮半島出身の慰安婦の「募集」移送・管理なども「甘言・強圧による等、総じて
本人たちの意思に反して」行われた
⑤従軍慰安婦問題は「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけ
た問題」であった
⑥元慰安婦の方々には「心からのお詫びと反省の気持を申し上げる」
(『朝日新聞』1992年8月5日付)
⇒事実上、日本軍による強制連行を認める内容である。韓国政府が日本政府に対して金銭的補償は求めない、必要があるなら韓国政府の責任で行うと明言していたため、
精神的な名誉の問題として「慰安婦だった女性たちは、自分の意に反して連行されたということをなんらかの形で認めてくれれば、女性たちの名誉が回復されると」いうことで強制性を認めた。 (石原信雄官房副長官)
(櫻井よし子「密約外交の代償」『文藝春秋』1997年4月号)
☆韓国政府の元慰安婦への生活保護支援
1993年3月
金泳三大統領「日韓条約で戦後処理は解決済みであり日本に物質的補償は求めない…韓国の予算で生活保護支援を行う」ことを表明
1993年8月
認定された元慰安婦に対し、一時金500万ウォン(約67万円)月額25万ウォン(約3万3800円)-96年から月額50万ウォン(約6万7500円)に増額-の生活支援金、医療負担、公営アパートを提供
(日本円換算は時期によって違いますが1997年1月当時のレートで計算しました)
<「関与」>
日本の軍隊のために設置される慰安所に日本が「関与」しないわけなかろうと思いますが、ことさら「関与」が強調されるのは、日本政府が「関与」を否定していた(あるいは、否定しているように見えた)からです
1990年6月 参議院予算委員会での質疑
「海軍作業愛国団とか南方派遣報国団とか、従軍慰安婦とか、こういう闇のなかに葬り去られようとしている事実もあるんですよ。これはぜひとも調査の中で明らかにしていただきたい」 (本岡昭次参院議員・社会党)
「従軍慰安婦なるものにつきまして、古い人の話なども総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果をだすのは率直に申して出来かねると思っております」 (清水伝雄・労働省職業安定局長)
⇒海軍作業愛国団、南方派遣報国団は、徴用され南方の要地に土木作業員として派遣された朝鮮人軍属の部隊名。前出のテニアン島の軍属も同じ境遇だったと思われる。
1990年12月 参議院外交委員会の質疑
「(6月に)従軍慰安婦は、軍、国家と関係なく民間の業者が勝手に連れてきた者というふうな主旨の回答…大臣お答えください。政府の認識にこのことはかわりありませんか」 (清水澄子参院議員・社会党)
「厚生省関係は関与してなかった…調べたけれどもわからなかったということでございます」 (戸刈職安局庶務課長)
「では、従軍慰安婦という、強制連行の中で女子挺身隊として強制連行された朝鮮の女性たちの問題は国家も軍も関与してなかったという、それをそのままお認めになるのですね」 (清水議員)
「少なくとも厚生省関係それから国民勤労動員署関係は関与してなかったと。それ以上は調査できなかった…」 (戸刈課長)
⇒政治は自民党総務会で行われ、修正を許さない法案として国会に提出される。そのため野党の国会戦術は日程闘争になり審議を一日でも遅らせたら手柄になる、というバカげたことが行われている。必然的に政府の代表として答弁にたつ官僚は余計なこと言って言質をとられて紛糾しないよう必要最小限の回答しかしない。野党議員が拡大解釈して質問しているのに否定はせず、関与してない調査できないと答えるだけ。
1991年12月加藤紘一官房長官記者会見
「政府関係機関が関与したという資料はなかなか見つかっておらず、今のところ政府としてこの問題に対処することは非常に困難」と発言。
⇒太平洋戦争遺族会による提訴(第二次訴訟)を受けての発言
⇒日本政府が事なかれの対応に終始したため『朝日新聞』につけこまれ嵌められることになる。 「軍が関与してない。資料がない」とか言ってたけど、軍の関与を示す資料があるじゃないか、と宮沢首相直前に狙って<発掘資料>をスクープとして出す。
1991年1月11日付朝刊一面の見出しを拾うと次のようになります。
慰安婦軍関与示す資料 防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌
部隊に設置指示 募集含め統制・監督 「民間任せ」政府見解揺らぐ
⇒さらに生き証人として金学順(キムハクスン)さんを登場させる。
インパクトは凄く、宮沢首相はソウルで何回(8回?)も謝罪することになります。
2⃣「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」
1994年8月
「戦後五十年に向けての村山富市内閣総理大臣の談話」
「いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて深い反省の気持とお詫びの気持を申し上げたいと思います。
…この気持ちを国民の皆様にも分かち合っていただくため、幅広い国民参加の道をともに探求していきたいと思います」 (『朝日新聞』1994年9月1日付)
1995年6月
五十嵐広三官房長官(村山内閣)「アジア女性基金」事業内容発表
①基金を発足させ民間より集めた資金をもとに年内に元慰安婦たちに一時金を贈る
②政府は元慰安婦の生活や医療を助ける事業のために基金を通じて資金を拠出する
③国家としての謝罪と反省を伝えるため、首相の手紙を元慰安婦に送る
⇒韓国外務省の評価
「今後の事業実施時に、当事者に対する国家としての率直な反省、謝罪を表現し、過去に対する真相究明、歴史の教訓とするという意思が明確に含まれるという点で、この間の当事者たちの要求事項がある程度、反映された誠意ある措置を評価できる」
(『朝日新聞』1995年6月15日付)
1995年8月15日(「戦後五十周年」)
「アジア女性基金」新聞などで呼びかけを行い募金活動を開始する
⇒「女性基金」呼びかけ人のなかには、国家による補償をするべきだという意見を持つ人もいたが、法的にも時間がかかりすぎる「年老いた犠牲者の方々への償いに残された時間はない、一刻も早く行動しなければならない」という点で一致した
1996年6月 「アジア女性基金」の募金総額が四億円を超える
1996年8月 「アジア女性基金」支給開始
この頃の日本の政治は、ひんぱんに政権交代がありました。
宮澤 喜一内閣(1991年12月~1993年8月)自民単独政権
細川 護熙内閣(1993年 8月~1994年4月)非自民連立
羽田 孜 内閣(1994年 4月~1994年6月)非自民連立(社会連立離脱)
村山 富市内閣(1994年 6月~1996年1月)社会・自民・新党さきがけ
橋本龍太郎内閣(1996年 1月~1998年7月)自民・社民・新党さきがけ
小渕 恵三内閣(1998年 7月~2000年4月)自民・自由・公明⇒自民・公明・保守
原因は「小選挙区制」導入をめぐって、多数の議員が自民党を離党したためです
慰安婦問題に熱心だった村山首相に代わった橋本首相は、父子二代に渡って遺族会会長を務めた人物で前任者と比べれば「アジア女性基金」に温度差がありました。
そのため「アジア女性基金」の進捗にも紆余曲折がありマスコミが連日批判します。それをフォローしていた授業は、情報の洪水を精査することが出来ず、学生を非常に混乱させることになりました。
<参考資料>
石坂啓「突撃一番」(『ヤングジャンプ』1984年11月)
千田夏光『従軍慰安婦・慶子』(日本人慰安婦の証言)をベースにした漫画。突撃一番はコンドームの名前。日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦の年齢差、せっかく貯めた軍票(占領地などで使用された代用紙幣)が戦後、無価値になったことなどを描く。
<ナミリの感想>
実際に従軍慰安婦となってしまった人たちの話を聞いて、とても胸が痛く感じました。どうして普通の若い女性たちが日本の軍隊の男性のために体を貸さなければならないのかと、すごく腹が立つし、不思議に思います。あと「女性を騙し強姦する」ということが重大な犯罪であるのに、どうして軍隊によって行われたことは許されたのか、疑問です。いづれにしても、日本は、このような罪のない女性たちに対して、ひどいことをしてきたのに、政治家たちのデマな発言にも、むかつきます。
お金じゃなくて心から反省する心を持って欲しいと思います。
⇒ナミリの書いている政治家のデマな発言は、当時の橋本龍太郎首相がおわびの手紙について意味がわからないとか言って「アジア女性基金」呼びかけ人の宮城まり子・三木睦子氏などが抗議の辞任をしていたことを指しています。
⇒「河野官房長官談話」は、のちに日本政府が強制性を認めた根拠とされることになり、将来に禍根を残すことになりましたが、当時のユウタはまったく問題視していませんでした。目前の元慰安婦の救済しか考えていませんでした。
前年の1995年は1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件と戦後史に特筆すべき大事件が起きた年ですが「戦後五十年」の節目の年でもありました。靖国神社に集う戦友会、部隊ごと軍艦ごとにある戦友会も会員の高齢を理由に解散されるような年。戦争にかかわるすべてが清算される時だと思っていました。
最後に出てきた慰安婦問題も日韓基本条約に抵触しない「アジア女性基金」という形で解決されようとしている。日本以上に男尊女卑で職業差別が激烈な韓国では反日という文脈の中でしか元慰安婦の方々は証言できないんだろう。その証言を大切に聞いてみようということしか考えてませんでしたね。 長い間、記憶と貧困に苦しめられ、勇気を持って名乗り出た元慰安婦の方々も報われる。残された日を安穏に暮らせればいいなと思っていました。
解決したと約束したはずなのに、何度も同じテーマを提起できる「むしかえし力」
不幸なセウォル号事件の調査は9回行われたと聞いています。その「ねんちゃく力」
李朝五百年の「党争の歴史」を等閑視していましたね。
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