第3話 9時20分、絶命!

 小平医官は、そっと片桐の顔を覆っていた目隠しを取った。周囲では、モップをもった刑務官たちがせわしなく、片桐から流れ出た赤黒い液体を排水溝に流し込んでいる。刑場の1階床には、学校のプールの底のように大きな排水溝がある。死刑囚から出た体液を素早く洗い流すためだ。

「眼球の落下はないな…」

 医官は、ペンライトを片桐の眼球にチカチカと当てる。瞳孔反射の有無を確認するためだ。眼球は飛び出してはいるが、顔の中に踏みとどまっている。前回は、転がり落ちた右眼を、なんとか手でキャッチした。


 バキッ!!!

 脛骨ケイコツが折れる音がしたとき、医官は少しほっとした。

「楽に逝ける…な。」。

 

 絞首刑の歴史は長い。 

 近世まで、絞首刑は受刑者を数センチだけ落下させる方式で行われていた。この方法だと縄はゆっくり受刑者の首を絞める。受刑者が意識を失うまで、かなり時間がかかり、すさまじい苦痛が受刑者を苛む。受刑者を少しでも長く苦しませるための工夫だ。そして、眼球も落っこちる。

 だが人権思想が普及した19世紀になると、これではあまりに残虐だと人々は考えるようになった。そこで受刑者を約4メートルほど落下させる方式が考え出された。この方式なら、ロープが勢いよく絞まるので、脛骨が折れて延髄エンズイが切断される。そして、受刑者は一瞬で意識を失う…はずだ。

 だた、これはあくまで“理論上”の話だ。そもそも、首の太さや、筋肉のつき方、骨の強度は、人によって違う。体重もバラバラだ。何メートル何センチ落下させれば、確実に脛骨をへし折れるのか。二十世紀には、このやり方で何万人もが処刑された。しかし、信頼できる計算公式は、今日まで導き出されていない。

 一方、落下する距離が長すぎると…首が千切れてしまう。はっきり言って、この方が絶命までの時間が短く、受刑者の苦痛は少ない。だが、刑法には「絞首に処す」となっている。これでは斬首刑となってしまい、法律違反だ。当然、執行責任者である拘置所長が処分を受ける。安全対策(所長のための)としては、落下距離は短めに設定するしかない。

 この結果、中世さながらの残虐刑が、人知れず21世紀の日本では続くのである。


 絞首刑は憲法が禁止する残虐な刑罰か?…全く興味がない。冷酷非情の殺人鬼なら、うんと苦しんでから死ねばいい!

「だが…」

 こうして無辜の人が殺される。真犯人は野放しとなる。おまけに第2の殺人犯ともいうべき警官や検察官は表彰され、出世する。…本当にやりきれない。


「だが…」

 また医官の頭に逆接の接続詞が浮かぶ。

「法務省では、検事にあらずんば、人にあらず。口を開くな!」

 この言葉を、入省時から何度となく先輩から教えられた。自分が何かしらの声を上げても、聞き入れられることはない。僻地に飛ばされるだけだ。いっそ、転職するか…

 拘置所や刑務所に務める医師の医療技術は低い。世の人はいう「犯罪者に医療など贅沢だ!」と。だから、本来だったら、即刻入院、緊急手術となる重症患者も、胃薬、浣腸、解熱剤といった対症療法で片付ける。自分は、ここで何年もやってきた。今さら一般市民を相手にする病院で、やっていけるとは思えない。


「だが…」

 と、また医官は考え方を変えてみた。

「俺にしかできないこともあるな。」

 ロープに吊るされたままの片桐の顔を見る。

「吊るされた死刑囚の胸に、落ち着いて聴診器を当てる。これは…普通の医者には、絶対にできない。」

 周りに築かれないよう、医官はそっと苦笑した。全ての生体反応が消失している。再び時計に目を落とす。

「9時20分、絶命!」

 2階に向かって叫んだ。

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