第2話 多分…コイツはシロだ

 若い男が1階のコンクリートの床で、へたばり込んでいた。顔には、べったりと例の体液がついている。

「渡瀬。大丈夫か?」

 厳つい肩をした50半ばの男が、小走りで階段を降り、若者に駆け寄る。ポケットからハンカチを取り出して、若者の顔をぬぐった。

「合田主任…だっ、大丈夫であります。」

 若者は震える声で応えた。

 主任刑務官の合田が、死刑の執行役を務めるのは、これで5回目。執行に関する手順の全体を把握し、指示を出す。先ほど、勢いよく右手を上げて、執行の合図をしたのも彼だ。

「後は他の者たちでやる。お前は先に着替えて待機所で待ってろ。」

 だが、渡瀬は激しく首を振った。こんな状況で1人になる方がもっと怖い。

「やれ、やれ…」

 合田は、大きくため息をつく。こいつを落ち着かせるには、しばらく話し相手になってやるしかなさそうだ。幸い、ロープから片桐を下す作業まで時間がある。合田が背中をさすってやる。少しでも恐怖を紛らわせたい渡瀬は、震える声でまくし立てる。

「か…怪物みたいなコイツも、よ、ようやく反省したんすかね。

 こ、こ、高知で、中高生、よ、4人も〇殺しておきながら、い、いま、今さら反省もくそもないっすけど…

 ぼ、房の中で “俺は無実だ!ここから出せ!”なんて、あ、朝から、ず、ずっと喚きやがって…

 で、でも、さ、最期の1月はすっかり静かに…

 け、今朝、ここへ連れて来られる時も、ホ、ホントおとなしくて…

 こ、これで、ようやく被害者も浮かばれるっていうか…」

 合田はウンウンと首を縦に動かす。だが、その動きはどことなく機械的だ。そして、静かに目をつむった。

「この仕事に続けるなら…お前も知っておくべきだ…」

 合田はつぶやいた。


「絶望したんだ。ピーマンとミカンを無人販売所から盗んだ以外、コイツが反省すべきことは…多分…ない。」

「えっと、どういうことですか…」

「冤罪だよ。」

「はいっ?」

「殺人については、冤罪だよ。コイツは単なる野菜泥棒さ。」

 渡瀬は合田の話が全く吞み込めない。キョトンとしている。

 そして…大きく渡瀬の肺が動くのを察知した合田は、素早く手で渡瀬の口をふさぐ。

「大声は…出すなよ…」

 小さいが、低く重い声だった。吊るされたままの片桐に、合田は尖った顎を突き出す。

「おそらく奴は…シロだ。」


「でも、高知科捜研の鑑定では、DNAがピッタリ一致したって…」

「ああ、科捜研“しか”、鑑定してねえよな。」

 またも、渡瀬はキョトンとする。

「科捜研は捏造工房だ。DNA、毛髪、指紋、筆跡…上層部が顔色を見ながら、いいように“鑑定書”を書きやがる。内輪では、いつでも名義を “カソウ(貸そう)”研って呼ばれてるしな。」

「バレないんですか…」

「証拠資料は、全部使い切る。余ったらきっちり処分する。外のやつらには絶対触らせない!」


「でも、引当(ひきあて)捜査でも、きっちり案内したって。」

「ああ、引当な。」

 引当捜査とは“被疑者”を,犯行現場や死体遺棄現場に連行し、犯行を再現させる捜査だ。容疑者が殺害現場や遺棄現場に警官を正確に案内したり、正確に犯行の様子を再現できれば、理論上、その人物が真犯人と断定できる。

 だが…その大前提として…

「警察が調べたことを、容疑者が前もって教えれていないなら…な。」

 現実はこうだ。引当を始める前に、寝かせない、食わせない、飲ませない、徹底的に囚人をいたぶる。その後で、耳元でささやく。

「きちんと俺たちのいうとおりできたら、好きなものを食わせて、好きなだけ寝かせてやる…とな。」

 現場に引き出された容疑者は、まともな判断力を失っている。例え死刑台への片道切符と分かっていても、食欲と睡眠欲のために、警察が予め振り付けた通りに動いてしまう。


「なんで主任は、そんなことを知っているのですか?」

 渡瀬は突っかかってきた。

「この仕事を長くやれば、いやでも分かるさ。」

 そういうと合田は、昔を思い出すかのように、少し視線を挙げた。

「刑務所でも拘置所でも、喚くやつがいる…あの証拠は捏造だ、とか。あの刑事、おれを縛ったまま、2日も飲まず食わずにしやがった…とか。」

 「そういえば…」とでもいうように、渡瀬は黒目を上中央によせる。

「この仕事に就いたころから、俺は話だけは聞くようにしていた。先輩からも、そうしろと習ったしな。それだけで相手は落ち着く。もちろん最初は、全部戯言ざれごとだと思っていた。」

 合田が、一瞬、言葉を止めた。声がさらに低くなる

「でも、10年ぐらいして、ふと気付いた。あれっ、コイツラの言っていること…みんな似てる、パターンがある…と。」

 基本的に囚人は噓つきだ。だが、彼らの生い立ちや罪状はバラバラだ。おまけに、お互いの交流は厳しく制限されている。もし、言っているのが完全な出まかせなら、その内容はバラバラになるはずだ。パターンや共通性が生まれるはずがない。

「この謎をどうすれば説明できるのか…それから3年ぐらい頭をひねった。そして…気づいたんだ。」

 彼らは全員、留置所⇒拘置所⇒裁判所⇒刑務所あるいは拘置所…という共通のベルトコンベヤーに載せられ、運ばれていく。その過程で、同じことをしゃべるようになる。これが意味するものは、何か…合田は、慎重に渡瀬の耳元でささやいた。

「ここに来るまでに似たような体験をした。つまり、やつらの言うことには…真実が含まれている…」


「それに、管理職になってから、警察関係者とも付き合いができてな。」

 検察官、刑務官、そして警察官は、基本、周囲に一般市民がいる居酒屋のような場所で親睦会を開かない。酔った勢いで、機密情報を口にでもしたら一大事だ。だから、誰かの自宅や就業後の庁舎で飲む。一般人に聞かせられない話は、そこで語り合う。

「アイツを落とすまで、締め上げるのは苦労した…とか。あの捏造はちょっとやばかった…とか。酒が入った警官たちから“武勇伝”を聞いて…確信したよ。」


「でも、裁判でバレたら…」

 合田は肩をすくめる。

「警察官は、常に公明正大にして国民に奉仕し、絶対に嘘をつかない…ということになっている…」

 裁判で警官に暴行された、脅迫されたと主張する被告人がいる。そんな時は、法廷に呼ばれた警察官が「暴行、脅迫は一切していません」と証言する。それで暴行や脅迫は一切なかったことになる。裁判官はそれ以上追求しない。

「去年の忘年会で、とある検事殿が笑ってたよ…裁判官って、本当に役者だよ。不自然だろ!、って、こっちがツッコミたくなる証拠を出しても、眉一つ動かさない。」

 そして怪しげな証拠も見事に有罪判決の中に組み込んで見せる。風変りな裁判員が追求しようものなら、裁判長は厳しく制止する。


「マスコミは、何も調べないっすか?」

 合田は頭の後ろを搔きながら、苦笑する。

「マスコミが、まじめに警察を追及するわけないだろう…」

 世の人は血なまぐさい事件が大好きだ。殺人事件の報道は、部数や視聴率を稼ぎだす。


「捜査関係者が匿名を条件に…」


 モニターからこの言葉が漏れるたび、視聴者はグッと唾をのみ込む。だが所詮、そんなリークは、警察が綿密に練り上げたプロパガンダだ。だが世間は「真犯人だ!」と、疑うことなく納得する。「匿名の捜査関係者とは…誰?」なんて考える人の方が変人だ。

 さらに警察は「どの社が、いちばん自分たちに都合のいい報道をするか」も、きっちり調べている。視聴率の取れそうなリークは、警察に好意的な社に流す。間違っても警察を批判する社には、ネタを渡さない。

 たしかに、メディアは政治家という権力に噛みついて見せることがある。だが、飴と鞭を使い分ける警察には、

「せっせと尻尾を振るしかないのさ…」

 横で、医官が腕時計をずっと見ていた。

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