第10話 恋

 その日以降、俺は机に寄生したかのように作業を進めた。


 放課後になると、さくらの元に向かい早めに家に帰る。大体6時だ。そこからは晩飯も食べずに、ただひたすらにペンを動かす。一枚、また一枚と俺の頭の中にある世界が出来上がっていく。ペンだこができ、痛みが増す。だが止まるわけにはいかない。これは俺自身の覚悟なのだと、何度も自分に言い聞かせ、休まる暇を与えなかった。

 ベッドに倒れこむのは夜中の3時。どれだけ遅くとも7時には起きないといけない。約4時間の睡眠。体感は10分ほどしかなかった。


 そんな生活を続けて2週間。目の下にひどい隈のある俺をさくらが心配するようになった。そんな中で遂に完成した。人生で初めて描き上げた最初の漫画だ。


 タイトルは「夢の井戸」


 いじめを受ける主人公がある日、学校にあった井戸の中に落ち、不思議な世界に迷い込んでしまう。その世界には夢が現実になる魔法の果実があった。それを盗んで現実の世界に持ち出し、それを食べてしまう。自分の夢を叶えていく主人公。だが、何もしなくとも願いが叶う日常に嫌気がさしてしまう。吐き出したくともそれはできない。人間が夢を常日頃抱えていること。そしてそれを追い求めることに美しさがあること、それを主人公が感じていくという物語だ。


 正直、こんな物語になるなんて想像していなかった。もっと華やかで美しい夢の世界を描くつもりだったが、現実を考えさせる物語になってしまった。だが、琴葉さんのことが頭に浮かんでからはそんなことを一切考えなくなった。俺が彼女に伝えたいこと、感じてほしいこと、すべてを表現した。


 そんな俺だったが、いざ完成してみるとあったはずの勇気と自信はどこにもなくなってしまい、琴葉さんにこれを見せる決心が未だにつかずにいた。蓮にあれほど啖呵を切った手前、なかなか相談もできずに、もどかしい時間だけが過ぎていった。

 気が付くと、高校生活初めての夏休みがすぐそこ、という時期にまで来てしまった。期末考査もあと1週間後だ。


 琴葉さんは部活に勉強、そして委員会活動と多忙の生活を送る。結果、さくらの待つ公園に行くのは俺だけだった。

 日差しが強い。汗がシャツに染み、べとべとした首元が気持ち悪い。この暑さの中でさくらは問題ないのだろうか。

 少し多めの水と体を冷やせるものを持ち、俺はいつも通り公園に向かった。


「おーい、さくら。来たぞー」


 重い足取りでさくらは寄ってくる。

 かなりぐったりしているようだ。


「ほら、水。それと冷たい簡易ベッドだ。浴びさせたほうがいいのかな……」


 ペットにぴったりのひんやりベッドといううたい文句で、安値で売られていた。どんなもんかと触ってみたが、俺にはさほど冷たさを感じなかった。だが動物からしてみると冷たいのかもしれない。さくらはそのベッドに横になるとずいぶんと気持ちよさそうな顔をした。水をたくさん飲み、日陰で休むとすっかり調子が良くなっていた。


「よかった。でも、お前これからどうすんだ?」


「にゃー」


「琴葉さんがいれば相談できるんだけど、勝手に連れて帰るわけにもいかないしな……一回聞いてみるか」


 俺はスマホを取り出し、琴葉さんとのトーク画面を開いた。



「「さくらなんですが、この暑さの中だと危ないんですけどどうします?」」



 時刻は5時。

 部活だとすれば6時や7時までやるかもしれない。もしかすると今日中に返信はこないかもしれないという不安の中、さくらはおだやかな顔をしていた。


「あのな。今、お前のために考えてるんだぞー?」


「にゃ」


 なんとなく、わかってる、と言っている気がした。



 ピロン



 スマホが鳴る。

 開いてみると琴葉さんからの返信だった。



「「私も心配してたの。色々と考えたんだけど、学校のちょっとしたスペースで育てられるかもしれないの。薫君さえよければ私がやっちゃうけど、どう?」」



 一瞬戸惑った。

 ここよりも涼しく、日陰のある場所のほうがさくらも安全だ。琴葉さんが近くにいるということもあって、さくらは嬉しいだろう。

 だが、俺はどうだ。

 頭では納得している。しているはずだ。それなのに、心が納得できていない。

 もどかしさを覚え、スマホを操作する手が止まる。



「「わかりました。お願いします」」



 ゆっくりと文字を打つ。

 送信を押したときの俺は、何かが抜けたような、屍同然だった。

 これでこの公園に来る理由がなくなった。さくらとは会えなくなるだろう。学校に行けば会えるかもしれないが、それは不自然だ。

 琴葉さんとも会えなくなる。ようやく完成した漫画も渡す機会がなくなってしまった。

 悲しみがこみあげてくる。この感情の理由に俺はずっと気づいていなかった。いや、気づいていて知らないふりをしていたのだ。

 知ってしまっては、気づいてしまっては後戻りできないと思ったから。

 会えないということを苦しんで、悲しんで、一人で勝手に惨めな思いになるから。



 俺は、琴葉さんに恋をしていたのだ。



 スマホを閉じポケットに突っ込む。

 生暖かい風が吹く公園を見渡す。

 ここで初めてさくらに出会った日から数か月が経った。まるで奇跡のような日常だったと思う。

 琴葉さんと出会って、夢を明かして、夢中になることができた。

 それだけでも俺にとって十分すぎるほどの経験だ。


「さくら」


 名前を呼ぶとさくらは顔を俺のほうに向け、じっと眼を見つめてきた。


「ありがとうな。琴葉さんのことよろしく。いい子にするんだぞ」


 頭をなでる。

 何を言っているのかわからないだろが、言いたかった。


「にゃーん」


 いつも通りの声に安心する。


「よし、それじゃあな」


 いつかの日と同じような夕焼けの空だった。

 自転車にまたがった俺はさくらを振り返らず、いつもよりも少し速いスピードでペダルをこいだ。


 その俺の姿をさくらはじっと見つめていたそうだ。


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化ける彼女は猫の夢を見る Youg @ito-yuji

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