勇気
華月ぱんだ。
第1話
谷口は恐れていた。
目の前の敵に。生死の境ともいえるその場所に。己が剣を振ることに。
谷口はずっと、自分を優秀だと思っていた。
士官学校では入学から卒業までずっと主席で、帝都一といわれるその学校の開校以来の天才だと持て囃された。
周囲に期待され、彼の志望する警邏隊でも1番人気の部署、対奇異変部にも大歓迎で入署でき、そこでもトップの検挙率を誇る西崎にメンターとして指導してもらっていた。
だというのに。
谷口は恐ろしくて仕方がなかった。
奇異変と呼ばれるその黒い異形のものは、士官学校で散々対策したようにどろりとしていて煙のように散るものだった。確かに、それを切る感覚も生き物のものではなく、何かの命を奪うという感覚は与えてこないものだった。
だというのに、谷口が恐れているのは、谷口が誰かの命を背負っている感覚を初めて得たからである。
彼は優秀であり、彼のメンターも優秀であったので、彼の初任務は新人にしては難しいものだった。奇異変に囚われた者がいて、彼らを守りながら、どういう理屈か襲ってくる奇異変を切って切って切って切った。
谷口の戦闘力は折り紙付きである。
初めは上手くいっていたのだ。きちんと人質を守り、奇異変を幾つも切った。だが、彼もまた人であり、新人である。
目の前に広がっていたそれらを切り倒し、少しの安堵が生まれたのだ。それは疑いようのない油断で、その油断が命取りだった。
人質は彼の目の前で、奇異変に喰い殺された。
その黒くどろどろとした物に覆い被された人は、覆い被された先からどこかへ消えてしまう。確かにそこに存在したのだという血液と、脚のかけらと、喰われ忘れられた手のひらがぽとりとその場に残っていた。
油断だった。
新人が故の油断だった。
その光景は谷口の脳裏に強く刻まれた。
いくら強くても、自分だけが強くても守れない者があって。それを守らなければならないのが警邏隊なのだと。
失敗すれば、人が死ぬのだと。
誰かの大切な者が、誰かの愛しい者が、その命を落とすのだと。
自覚した途端恐ろしくなった。
戦場に立つことも、戦うことも。
奇異変を前にすると、足が震え、目が霞み、呼吸の仕方が分からなくなって、剣先が歪む。
そうして震えている間に、西崎が奇異変を全て倒しているのだ。
谷口の評価は地に落ちた。
戦うことのできない頭でっかちだと罵られ、誹られ笑われた。士官学校時代は谷口よりずっと弱かった同期は、その年1番の検挙率を挙げ、期待の星として出世した。
谷口のプライドはもうズタボロだった。
欠片も残せないほどボロボロになってしまった。
それなのに、彼は剣を振るえなかった。
あの恐ろしさが、無情さへの恐怖が心を支配して止まないのだ。
でも、彼はそれでも警邏隊の一員で、仕事は嫌でもやって来る。
入隊した時よりも大きく体重を落とし、げっそりとしたまま、谷口は今日も剣を握る。
例え、振るえなくとも。
そんな谷口を、西崎はよく色々なところへ連れ出した。
西崎の馴染みの店から景色の綺麗な場所、酒を飲み交わすこともあったし、素面のまま朝焼けの下まだ人のいない道を歩くこともあった。
気分を変えられる場所は、手当たり次第に連れ出したし、特に谷口が凹んでいる日は絶対に1人にさせなかった。
西崎は、元来お喋りな方ではなく、口も上手くない。仲のいい友人たちの話をにこにこと聞いているタイプであり、自分の話をする事が少ない方である。そんな彼が後輩を気にかけあちこちと連れ出すことを、西崎の同期は珍しく思いながら協力していた。
「大丈夫だと思う」
と、西崎はよく谷口に言っていた。
「お前、俺より才能あるし、大丈夫。もう少し時間を置いたら慣れるよ」
上手い励ましの言葉こそ出てこないものの、ぶっきらぼうなその口調に籠る彼の思いと優しさを、谷口はきちんと受け取っていた。
受け取っていたからこそ、谷口は毎夜眠ることが出来なかった。西崎の思いに答えることの出来ない自分が情けなく、足手まといになっているだけの自分が悔しくて、剣を振るう度浮かぶ凄惨な場面が恐ろしくて、谷口は眠ることは愚か真っ暗な部屋に一人でいることが出来なかった。
深夜、明かりを灯したままの部屋の中で、膝を抱えて谷口はいつも思うのだ。明日こそ、明日こそは剣を振り化け物共を倒すのだと。西崎の力になるのだと、誰かの命を救うのだと。
朝が来て何かが変われば、それほど楽な事はないというのに。
谷口は、握った剣先が震えていることを感じた。
霞んだ視界では目の前の化け物を正しく捉えることは出来ないけれど、ここで退くことは出来ないと思った。
背に庇う幼い兄弟を、想った。
谷口がこの仕事に就こうと思ったのには、当然ながらきっかけがある。
谷口が3つの頃。5つ上の兄と誰にも内緒で出かけたのだ。幼子にしては少し遠い、景色の綺麗な兄の秘密基地へ。
そこは、とても綺麗で、静かで、人の居ない場所だった。
人ならざるもののいる場所だった。
谷口の兄は、谷口を抱きしめ全身で谷口を守ろうとした。実際、兄の大きな身体におおわれた谷口には傷一つつくことなく助かった。助けに来てくれた隊士は、運がいい坊主だと頭を撫でた。
助かったのは、谷口だけだった。
兄は、
兄だったものは、
隊士が来る頃には跡形もなく消えていた。
幼い弟を抱きしめ庇う兄を見て、谷口は自分だと思った。
兄の腕の間から、目に涙をいっぱいに溜めて、それでも、この今から目を離さない彼は、あの日の自分だと思った。
助けたいと、思った。
助けようと思った。
だというのに、
そう思ったのに、谷口の体は未だ動かず、剣先は震え定まらない。吐く息が震え、視界は霞み息が苦しくなる。
剣など振るえるはずが無い。でも、それでも握らなければならない。
できる、できると呟いて、片足を踏み込む。
次にあの化け物がこっちを向いたら、飛び上がって切るのだ。
心の中で6つ数を数えて、
化け物が振り向く。
今だ!
瞬間、目の前の黒い塊は霧散し白銀に光る筋だけが見えた。
「大丈夫か?」
華麗にその場に着地し、変わらない表情でそう尋ねたのは谷口の上司、そう西崎である。
谷口の足はその場から少しも動くことなく、縫い付けられたかのように固まっていた。
助かったと思った。
西崎の姿が見えた時、谷口は確かに安堵した。
これで助かったと。
結論、もし西崎が来なかったとしても谷口が化け物を切る事など出来なかったのだ。
切る気のある者は感謝こそすれ、助かったなどと思うはずがない。
その事に己で気がついた時、谷口は自分自身を嘲笑した。なんて愚かで、なんて救いようの無い人間なのだろうと諦観した。
そんな谷口を一瞥し、西崎は冷静に命じた。
背後で脅える兄弟を、安全な場に送り届けなさいと。
必要なことではあるものの、その言葉はその時の谷口には一種の処刑のようにも感じられた。この場に残ることを求められず、戦力になるどころか足手まといなのだと。
気落ちした心を抱えながら、谷口は兄弟に呼びかけそっとその背を押す。
己の思いがどうであれ、今は子供らの安全を優先すべきだと。
だが、谷口の中の鬱屈とした思いは彼の視野を狭めてしまった。
二度あることは三度あるなどと言うが、一度あったことも二度あるのだろう。谷口の狭くなった視野では背後の強大な力に気がつけなかった。
「危ない!」
鋭い声が飛び、谷口は強い衝撃を受け前に転げる。目の前にいた幼い2人の頭を包み、衝撃を受け流すように転がり体制を立て直すと、谷口は直ぐに振り返った。
と、同時に絶望した。
目の前の黒く大きな何かは、谷口を庇って前に出た西崎に迫り、彼の、その、鋭く誇り高く綺麗な腕に、纏わりついたかと思うとそのまま顔ごと喰った。
こんな仕方の無い、情けのない己を諦めず、傍で見守り、時に優しく、時に厳しく諭す声が発せられるその口も、
常に優しく暖かく、口下手が故に何時でも多くを語り教えてくれたその瞳も、
はっとさせられるような策を練り、己が体を自在に動かす司令塔であったはずのその頭も、
暖かさに満ちた淡い栗毛の髪も、
整った顔立ちも、
全部、
全部、
何かわからないその大きな黒に塗りつぶされた。
黒の近くには赤が散る。
美しいと言うにあまりに惨いその色が、
谷口の足元まで流れ落ちる。
背後で、幼いふたりの泣き叫ぶ声がする。
赤、が
谷口の薄い呼吸音さえ聞こえるようで。
赤、が、
その、
暖かな赤が、
流れゆくのを、見た。
谷口の視界はその全てが紅く染る。
甲高い音が頭の奥で耐えず鳴り、浅かった呼吸が深くなり、思考のまとまらない理性とは裏腹に、身体は勝手に自然と落ち着きを取り戻す。
手は剣をしっかりと握り、足は力強く踏み込む。
-震えはもう、止まっていた。
次に谷口が正気を取り戻した時、黒い化け物はそこになかった。
幼い兄弟は恐怖から意識を飛ばしてしまったようで、可哀想なことをしたなと頭の片隅が思っていた。
西崎の頭はやはりどこにもなく、右手以外の首から下だけが、綺麗に残っていた。
それから暫くの記憶は無い。
気がつくとそれまでの停滞などなかったかのように手柄を上げ、最年少警邏隊隊長となっていた。
という一連の出来事を目の前の後輩に告げるかどうかを、谷口は悩んでいた。
勇気を出したと思う話を教えてくれと言った彼は、きっと今期入隊してくる新人たちを鼓舞できるエピソードを求めているのだろう。
だが、自分が話せる話はそのような話では無い。情けなく、どうしようも無い、弱い弱い男の話でしかない。
そんな話を彼が求めている訳など無いことを、谷口は分かっている。
だが、谷口にとってあの日は初めて勇気を出した日で。
あの、人によっては怒りと呼ぶであろう思いは、谷口にとって正しく勇気であった。
顔のない遺体に縋って泣く、西崎の
強く成ろうと思った。
ならなければいけないと思った。
強く在ろうと思った。
そう在るべきだと思った。
谷口の半生は、讃えられるものでは無い。
西崎に庇われ導かれ、何とか立っていた日々だった。
だから、と谷口は思う。
己も、自分に続こうとするもの達の手を引き導こうと。
それならば語るべきはこれでは無いだろうと、話す話題を変えることを決めて、谷口はその口を開く。
その横顔を暖かな日差しが照らしていた。
勇気 華月ぱんだ。 @hr-panda
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