はつこい

 「詳しいんだね、金魚のこと。やっぱり本当にせんせいは先生なんじゃないの?」


 なりそこないの金魚の尾びれをなんとしても掴んでやろうと、僕は続けました。徹底的にせんせいのことを、暴きたくなったのです。なりそこないは所詮なりそこない。完成品の方がいいに決まっている。そう思ったのです。


 「いや、昔教えてもらったんだ」

 「あ、それ絶対『昔好きだった人に』ってやつでしょ」

 「どうかな」


 せんせいは往生際悪くはぐらかし続けます。僕は苛立ちを覚え始めていました。ここまできたら話してしまってもいいはずなのに。諦めたものを後生大事にしまっておいたところで、穴が埋まるはずもないのに。


 「教えてよ」


 僕は、ぐいとせんせいを押し倒し、その身体の上に乗りました。こうすれば、せんせいは僕に抗えないはずです。抗えずに、最初の夜に聞いた「あいしている」を零すはずです。あの晩から一度も聞くことが出来ずにいる「あいしている」を、今なら、きっと。愛していたものの影を、僕に見ているのならば。


 「いやだ」


 それははじめての、せんせいからの拒絶でした。甘い期待を込めた拒絶ではなく、はっきりとした、拒絶でした。せんせいの身体がなんの反応も示していないのが、何よりの証拠です。どうして。一体、なぜ。疑問符だけが頭の中でぐるぐると渦を巻き、僕はゆっくりと飲み込まれてゆきました。せんせいに跨ったまま呆然とする僕を見上げながら、せんせいは言います。


 「それを君が知って、何になる」


 だって僕は、と言いかけた僕を、せんせいは視線で制しました。こんなせんせいを、僕は見たことがありませんでした。


 「あいしているんだ」


 せんせいは今にも泣き出しそうな顔で、その台詞を口にしました。零れたのではなく、はっきりと、口にしました。あの夜から僕が欲しがっていた台詞を、僕ではない、おそらく僕に似た誰かに向かって。

 ああそうか、「あいしていた」のではなく、「あいしている」のか。こんな簡単な文法の違いに、どうして僕は気付けなかったのだろう。


 「僕も、せんせいをあいしています」


 きっとせんせいは、聞きたくないでしょう。僕の「あいしている」なんて。けれど僕は、そう返さずにはいられませんでした。それ以外に、何を言ってよいのか、分かりませんでした。


 「僕じゃ、だめですか。きっと僕とその人は似ているんでしょう?だから、せんせいは、僕を指名し続けてくれたんでしょう?」

 「君の方が、綺麗だよ」

 「それでも」

 「それでも、あいしているんだ」


 せんせいは、諦めてしまったのです。けれど諦めた先に生まれた穴を埋めるつもりも、毛頭ないのです。その穴を愛おし気に撫でながら、満たされない身体だけを、男を買うことで誤魔化していたのです。


 「ごめん」


 ずるい人です。いいえ、分かっています。せんせいは、迷い続けていたのでしょう。かつて愛して男とよく似た僕が目の前に現れた時から。疑似恋愛のような関係に、迷い続けていたのでしょう。


 「それなら、教えてくださいよ。どんな人だったか、せんせいが、どうしてその人をあいしているのか」


 せんせいは、すうっと天井に視線を彷徨わせました。いつの間にか、せんせいはいつもの物憂げな顔に戻っていました。水底から揺れ続ける月を眺める、蟹のような、いつものせんせいです。


 「語れるようなほどのものでもないんだよ。ただのよくある初恋だ。田舎の町のなかでは少し目立つ程度の美しい顔をした、幼馴染だった。『先生』ってのはね、そいつが本を読むのが好きな僕につけたあだ名だったんだ」


 恋を知らぬ者同士の興味本位で、ある夏の晩、一緒に布団に入って恋人同士の真似事をしてみた。軽く手を握り合い、そっと口づけてみた、その程度だった。けれどその瞬間、自分は彼を愛していることに気付いてしまい、彼は自身に向けられる気持ちを知ってしまった。しかし彼は同性愛者ではなかった。ただの戯れが、ふたりの青春の行く先をわかってしまったんだよ。口づけた直後の僕の顔を見たあいつの表情を、僕は一生忘れないだろう。開けてはならない箱を、最後には何も残らない箱を開けてしまったパンドラのような顔を。せんせいは、ゆっくりと時間をかけて、噛みしめるように語りました。何度も噛みしめたはずのものなのに、未だそこから甘い汁が滲んでいるかのような、噛みしめ方でした。


 「初恋、だったんだ」


 初恋は、実らないから美しい。美しいから忘れられないし、初めてだからこそ、決して上書きされることはないのでしょう。僕には、分かります。まさに今この瞬間、僕の初恋がちりちりと燃えてゆくのを感じていましたから。


 「ごめん」


 せんせいはもう一度詫び、僕の頬をそっと撫でました。僕はようやく、自分がはらはらと涙を流していることに気付きました。


 「あいしています」

 「ごめん」

 「あいしています」

 「ごめん」

 「あいしています。あいしています」


 せんせいの身体の上で少女のように両手で顔を覆って泣きじゃくる僕と、それを見上げるせんせいの姿は、きっととても安っぽいものだったと思います。所詮、ただの男娼と客の痴情のもつれです。けれど僕たちには永遠に美しいままの、初恋の縺れでした。縺れて縺れて、悲鳴を上げる初恋がふたつ、そこにはありました。僕は何度も何度も「あいしています」と、せんせいにぶつけ続けました。せんせいの瞳を見ることなく、ただ自分のために。そして、かつて嘲笑った数々の「あいしている」の墓を掘り続けました。安っぽいタイマーの音が、終わりの時間を告げるまで。

 せんせいから受け取った金を、僕は握りしめました。それを地面に叩きつけることは、僕にはできません。だってこれだけが、僕がせんせいから受け取れるものなのですから。

 金を握りしめて、僕は店に戻ります。きっとまた明日も、明後日も、僕は男に抱かれ続けるでしょう。この日ぽっかりと空いた穴を愛おしみながら、決して満たされることのなくなった肉体を誤魔化すために。たまに戯れに「あいしている」なんて零しながら。くたびれたなりそこないの金魚を追って、夜の街をゆらゆらと、彷徨い、泳ぎ続けるでしょう。美しい完成品の、けれど模造品の金魚として。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金魚娼 芥子菜ジパ子 @karashina285

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ