金魚娼

芥子菜ジパ子

せんせい

 せんせいは、いつも事の後、ぼんやりと天井を眺めていました。まるで水底みなそこから、揺らぐ月を眺める蟹のように。

 「先生」といっても、せんせいは別にどこかで何かを教える人でも、えらい作家や医者などでもありません。むしろ、なんでもありません。ただその風貌がそれらしいという理由だけで、僕ら男娼たちから「先生」と呼ばれている、ただのいい歳の、普通のおじさんでした。なんなら毎月十五日の給料日にだけ男を金で買っている、恐らくさほど裕福でもない、普通以下の冴えないおじさんでした。

 それ故せんせいはその呼び名を大層嫌がっておりましたが、僕は敢えて彼をそう呼んでいました。ほら、そうすると、まるでつまらない僕が、僕の憧れた数々の、耽美で退廃的な物語たちの主人公にでもなったようじゃありませんか。それに、「先生」と呼ばれるたびに眉間に皺を寄せるせんせいの顔が、好きだったのです。物憂げで、バツの悪そうな、せんせいの顔が。せんせいはそんな時、決まってその顔のまま、僕をめちゃくちゃに抱き潰します。そして僕は、せんせいにそうされるのが好きだったのです。僕はせんせいを、愛していましたから。


 そもそも僕が何故せんせいを愛するようになったのか。それはひどく単純なものでした。せんせいは、とても丁寧に、僕を慈しんでくれるからです。まるで、そう、運命の恋人にでも出会ったかのように。嫌だと言われてもなお繰り返し「せんせい」と呼ぶ僕を抱き潰すときでさえ、その視線と手つきは熱く、激しさのなかにも僕を悦ばせんとする愛おしさを感じることができました。たかが男娼如きが愛の何を知っているのだと言われるかもしれませんが、愛のない営みに慣れているからこそ分かるものもあると思います。

 せんせいに初めて抱かれた時、僕は店に入りたての新米でした。新米にはちょうどいい客だと、勉強がてらあてがわれたのです。とはいえ僕は、男に抱かれることには慣れていました。なにせ僕は、中学生の時に自身が同級生の男子や先輩の男子の肉体に邪な疼きを感じるようになってから、要は男しか愛せないと分かってから、高校を卒業して店に入るまでの数年間、マッチングアプリやその手の店で相手を探しまくっていたような男でしたから。別におかしなことではないでしょう?性の目覚めなんてそんなものです。相手が同性か異性かの違いと、個人の性欲の強さの違いというだけの話です。僕は男が好きで、性欲が強かった、それだけの話です。まあそんなわけですから、身体だけの、心を介さない快楽だけのための営みが常だったのです。

 新米のくせにれた風情でしなを作る僕を、せんせいは少し驚いた様子で見つめていました。が、せんせいはすぐに僕の手を引き、なんとも情熱的に組み敷き、かき抱きました。うわごとのように、「あいしている」などと零しながら。


 その時から、僕はせんせいに恋をしたのです。男娼としてはご法度中のご法度の、そして男としては遅すぎる初恋でした。

 

 笑ってしまいますよね。「あいしている」なんて、今まで何度も聞いてきた言葉のはずなのに。身体だけ繋がってとりあえず安堵するような、間食のような関係でなにが「あいしている」だ、一体お前僕の何を知っているんだ、と嘲笑ってきた言葉のはずなのに。僕の聞いてきた「あいしている」は、自分の欲をひたすらぶつけるための、免罪符のようなものでしかありませんでした。そう、僕の知っている「あいしている」は、僕のことなどちいとも見ずに発せられたものばかりでした。

 けれどせんせいは、こめかみに血管を浮かべながら僕の視線の動きひとつも見逃さんと目を見開き、僕を悦ばせることにだけに執着しているように見えました。そして僕の肉体も、そのように感じていました。だから僕は初めて、心からの嬌声を上げて果てたのです。その晩からです。これまでフリーの客であったせんせいが、僕を指名するようになったのは。


 「せんせいは、どうして男を買うようになったんですか?」


 或る晩、僕はせんせいに尋ねました。客の事情を詮索するのはご法度なのですが、せんせいに恋をしてしまった以上、もう今更でしょう。


 「簡単なことさ。僕は冴えないおじさんだし、金があるわけでもないからね、男が好きで男を抱きたくとも、相手が見つからないからさ」


 せんせいは、バツの悪そうな顔で答えます。ほんのちょっぴりの笑みを浮かべながら。これは恐らく、諦観の笑みです。おじさんだから、金がないから、それ以上の「諦め」を、僕はそこに見ました。


 「好きな人とか、いなかったの?」


 僕は探りを入れてみることにしました。人生における大抵の「諦め」は恋か仕事で、諦めで今こうして男を買っているのなら、それは恋に関するなにがしかが原因なのではないかと思ったのです。


 「君は、金魚のようだな」


 せんせいは、僕の問いには答えず、けばけばしい赤のベッドランナーを指で弄びます。その日は、布団をまくる余裕すらなく抱き合っていたので、ちょうど乱れたベッドランナーがまるで僕自身をラッピングしているかのように、この身体に巻き付いていたのでした。僕の足もとにだらしなく巻き付くそれが、せんせいには金魚の尾のように見えたのでしょう。

 

 「金魚ってあんまり男のイメージ、ないけどな」


 質問をはぐらかされたということはやはり、せんせいに空いた穴はそこに起因するものなのでしょう。

 男が開けた穴ならば、同じ男の僕でも埋めることができる――今思えばそんな、とても、とても傲慢なことを僕は考えていました。諦めるということは、それほどに長いこと埋めようと頑張って頑張ってきたものだというのに。それをたかが出会って僅かの、しかも金と身体だけで繋がっている若造が埋められようはずもないのに。

   

 「そうかな。単純に、綺麗だと思っただけだよ」

 「ふうん」

 「金魚ってね、野生のフナが突然変異で赤くなったものを、観賞用に改良していった先に生まれたものなんだよ」

 「つまり、僕は人工的ってことですか」

 「洗練された完成品って意味だよ」


 美しいと褒められているはずなのに、僕は何故か全く嬉しくありませんでした。完成品をそんな目で見つめる男があるか。完成したものの背後に、改良の途中で死んでいった未完成品たちを見るような目で。僕は確かに、せんせいの瞳に別の、金魚のなりそこないがゆらりと泳ぐのを見たのでした。

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