七章:逃走
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――奇妙な夢を見た。
自分が【透明人間】になるというものだ。
確かに世界が見えているのに、自分の姿がどこにも見えない。
地面の感触を伝える足の裏も、掌が握る空気の温かさも、胸の中に脈打つ鼓動も、全てが実感できるというのに、誰もが自分のことなど気づかずに通り過ぎていく。
不思議と声も出なかった。
ぼうっとしていれば、自分でさえ自分のことを忘れてしまいそうだった。
意識しなければ簡単に消滅する【自己】。
自分を縛り付ける社会や正義といったものは存在しない。
禁じられている行為を、罪を、解放された心の思うままに実行する。
どんなに喰っても飢えていた。
どんなに犯しても乾いていた。
自分の中には虚しさが残るだけだった。
それでも、人を殺す。
それでも、街を焼く。
足掻くように、泣き叫ぶように、懺悔するように、愚かさを重ねていく。
……どうして?
わからない。
わからない。
わからない。
血液と煤で汚れた赤黒い手が浮かび上がる。
そうだ、これが自分の輪郭だ。
おぞましい人のカタチをした何かが、灼熱じみた世界の終わりで、燃え尽きるように踊っていた。
「――助けてくれっ!」
「
もがき苦しむように、意識が覚醒した。
透明人間に無様に負けて、倒れ込んでからの記憶がない。ここは……?
「気が付きましたか? ここは中央区の淡海府警察病院です。劇場横の広場で鉄穴さんと
清潔感のある白い室内。僕が寝そべるベッド横には、パイプ椅子に腰かけた
僕は起き上がろうとしたが、普段は滅多にしない無理な運動を強いたためか、身体のあちこちが悲鳴を上げる。左手首はギプスでガチガチに固定されていた。折れたのは僕のほうだったのだ。
「……今何時? テクネは?」
「もう二十二時を過ぎてます。灰瀬さんも意識が戻って精密検査も終わりました。外傷もなく、精神的にも落ち着いています。鉄穴さんのほうが重体ですよ。左肩の打撲と左腕尺骨にヒビ、お腹に内出血もあります。しばらくは絶対安静です。カルシウムたっぷり摂りましょう」
「クソ、完全敗北だ。暴漢を捕まえるどころか、たっぷりやり返された……」
「周りに目撃者もいなくて、防犯カメラにも少しだけ加害者の全体像が残っているだけ。角度的に顔までは判別できなかったそうです。……とにかく、生き残っただけで十分ですよ。今は変なこと考えず、体力回復に努めてください。警察の方もそのうち聴取に来ると思います。わたしも
阿澄さんは一旦退出する。
こんな夜遅くまで付き合ってもらって、申し訳ないな。溜息が漏れる。
……やらかしてしまった。
透明人間を追いかけているつもりが、実はこちらが追われていた。
それにも気づかず、テクネは誘拐されかけたのだ。
とんだ失態である。調査協力者を危険な目に合わせたことを反省しなければならない。狩井さん、小原さん、それにハヤマ先技研の方々へも謝罪の一報を入れたかった。そして何より、テクネに謝らなければ――。
それにしても、犯人からの接触にはいくつか疑問がある。
まず、テクネを殺さず連れ去ろうとしたのは何故か。
透明人間の秘密を暴こうとする者がいるのなら、口を塞げばいいだけの話だ。殺せない条件があった。例えば、彼女の頭脳を利用して、さらに進化させた擬態化ハログラムを開発させるとか。理想は記録データ改竄の手間を無くすことだろう。ハログラムの魔女は生かして使ったほうが利点が多い。
次に、僕が殺されなかったのは何故か。
テクネを
しかし、そうはしなかった。確かに殺人にはリスクが伴う、しないで済むならそう選択すべきだ。でも、それだけとも思えない。擬態化ハログラムを使う条件としては、自身に特定信号を二次元コード化したハログラムを
――そう、あの蛇みたいな顔した実行犯は内通者からのリークで僕たちが調査動向を知ったはずだ。僕とテクネが透明人間事件捜査のために行動し始めたことと、僕のパウリ効果について知る人物こそが内通者の可能性が高い。
僕が把握している人物でその条件が当てはまるのは、
利市さんも狩井さんも真面目に透明人間について調査を進めている。小原さん、藤枡、阿澄さんにも漏洩させるほどの犯人に有利な情報を得ているとは思えない。証拠はまだ何もない消去法になるが、一番怪しく思えるのは蔵内さんだ。事件に興味ないと言いつつ、驚くほど鋭く真意を読み取っている。仕事もロクにせず、喫煙と言いながらフラフラとどこかへと出掛けたきり不在になる。これらの現状はあまりにも疑わしい。狩井さんが彼のことを不審人物と
……好きでない人間とは言え、身内にその可能性があるのは嫌な気分だな。
それでも、テクネが犯人でないことが証明できるのが不幸中の幸いだった。信じていたが、確証を得られたのは嬉しい。
『自作自演かもしれないだろ? 別の人間を代行させて、一時的に目を逸らさせる』
また、もう一人の自分が
やめてくれ、こんな行為は彼女のメリットにならない。うまく言語化できないのがもどかしいが……。
「ボクのオモチャを傷つけた奴を、ボクは絶対に許さない」
そう、それだ。テクネは所有物やパーソナルスペースに干渉されることをひどく嫌う。
……って、今の声はどこから? 掛け布団の中に、自分以外の誰かがいる。モゾモゾと動く。
「キミは難しい顔して何考えてるんだか。やることは決まってるだろ?」
僕の左脇から、さも当然のようにテクネが顔を出した。
「うわ! いつから潜んでいやがった」
「ビックリした? こんなにも献身的に看病してやったのに気付いてくれないなんて、薄情者だね。ボクに何か言うことがあるんじゃないの?」
「……危険な目に遭わせてしまい、申し訳ない。これ以上迷惑はかけられない。調査協力はここまでにして――」
「違うでしょーが!」
テクネは僕の左手首のギプスをバシバシ叩く。痛いってば!
「透明人間をとっ捕まえてやる、でしょ? こんなにコケにされて、ハラワタ煮えくりかえる思いだよ。奴から直接信号情報も採取できた。すぐに帰ってデータ解析、最適なモデルを構築して今回の擬態化ハログラムを実証する。対策案も練り上げて、犯人を一網打尽にしてくれる!」
彼女は想像以上にブチ切れていた。いつも高飛車で余裕そうな振る舞いなのに、えらく感情的に高ぶっている。
「……怖くは、なかったのか?」
「怖かったに、決まってるだろ。……だから、キミはもう、ボクから離れるな。危ないんだから」
テクネは僕の左腕に身を寄せて、抱きしめてきた。細くて華奢な身体が小さく震えているのがわかる。
天才だの魔女だの呼ばれているが、やはり彼女はまだ十五歳の少女だった。絶対に守らねばならぬ。
頭でも撫でてやれば安心するだろうか。そっと手を伸ばしてみる――。
「許可のない頭ヨシヨシはセクハラだからね。三つ編みのお姉ちゃんに言うよ」
「う」
それは全身骨折コースである。遺骨すら残らない。
「
「どこへ?」
「まだ
「今からか? 僕も先生もまだ身体の検査に警察からの事情聴取もある。勝手に抜け出すことは、特に阿澄さんが許してくれない。それが一番怖い!」
「いいから言う通りにして!」
テクネに手を引かれるまま、僕たちは駆け出していた。
そこで廊下から戻ってきた阿澄さんとバッタリ遭遇してしまう。
「――ちょっと、どこ行く気ですか! 待ちなさいっ!」
制止を振り切って全力疾走。阿澄さんも肉食獣のように追いかけてくる。
……と、うまく僕ら二人のダミーハログラムに釣られてくれた。
物音が静まるのをしらばく待ってから、本物の僕たちはのそのそとベッドから降りる。まるで変わり身の術だ。
「魔女っていうより、忍者だよな」
「調査官って忍者じゃないの?」
そんな修業はした覚えがありません!
しかし、夜の病院から抜け出すことになるなんて、忍術くらい身につけておくべきだと思った。
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