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今日もハヤマ先技研のセキュリティ突破に苦難する。昨日かなり面倒をかけ職員に顔を覚えられていたので、もう情けで通してもらったみたいなものだ。サーカスで火の輪くぐりに失敗するライオンのような気持ちになる。
ようやく零号室へと辿り着くことができた。
「おはようございまーす、せんせー……」
扉を開けると、そこは森の中だった。
生い茂る木々、地面に芽吹く草花、小さな虫たち、突き抜けるような青い晴天。窮屈なコンクリートジャングルに囲まれた我々の生活を癒してくれるのは自然の恵みしかない。
……いやいやいやいや! 昨日までほぼ空っぽな白い空間だったじゃん。
テクネの用意したハログラムであることは、床の固い感触からわかった。集中して見ていれば、足元から虚像の緑が消えていく。それに、いくら精巧なハログラムでも空気までは変えることはできない。山登りしたときのような清涼感はここにはなかった。
「おーい、イタズラはいいから」
呼びかけるが返事はない。
代わりに見つけたのは、熊、だった。僕よりも小柄だったが、獰猛な動物代表である。エサに執着し、機動力と破壊力の化身。
一瞬恐怖するも、ハログラムじゃないかと自分に言い聞かせる。害はない、……はずだ。そいつと目が合う。光のない、闇のような瞳。
のそりのそりとそいつが近づいてくる。大丈夫だ、どうせハログラムなんだから。しかし、妙に存在感を感じる。気のせいか獣の臭いもする。まさかな、ここに本物の熊がいるはずない。念のため、アレやっとくか。
「ノウマクサンマンダバザラダンカン!」
しかし、やつは消えない。……おいおいマジかよ。
重量感ある毛並みが揺れている。僕の腕くらいありそうな爪が黒く輝く。
やばい! こういうときはどうすればいいのか?
木の後ろに隠れるか登る、がここにあるのはハログラムだ。盾にもならない。自分を大きく見せる道具も対抗する武器もない。逃げるのは危険だとも聞いた。やはり死んだふりなのか?
考えている間に、熊はもう眼前だった。そうだ、蛇が嫌いとも聞く。蛇に見えるベルトを投げてビビらせるのだ! 僕はバックルを緩めて革ベルトを勢いよく引き抜いた。そして投げつける。熊の顔にヒットするが、普通に払われる。
終わった。僕は下半身パンツ一丁で熊に喰われて死ぬんだ。押し倒されて、鼻先が迫る。アーメン。目を閉じる。
……なかなか食べられず、目を開けてみると、熊は静止して動かなくなっていた。その背後にはテクネがいる。
「ビックリした?」
「なんだよコレ?」
熊は立ち上がり僕から身体を離した。テクネは可笑しそうに笑う。
「だって、どうせハログラムは無効なんでしょ? だったら違う作戦でサプライズしなきゃね」
本当に趣味の悪い。僕はズボンを上げてベルトを通す。テクネが指を鳴らすと、緑の風景は消え去り元の白い殺風景な研究室に戻った。
「それにしても、その能力は意外と限定的なんだね。無制限に空間のハロを破壊するものじゃない」
「そんなんだったら僕は移動するだけで街中が機能しなくなる。狙いを定めた対象を意識すると起こるだけなんだ」
「ふーん。これは物理学よりも
宇宙人とでも対話しているのか? 人間の言葉で喋ってほしい。
「前向きに考えればさ、全ての事象に対して『無意識』でいればトラブルは起きないんじゃない?」
「どういうことだ?」
「キミが観測や認識を放棄して、『全ての可能性が含まれた状態』を維持してあげればいい。つまり目の前にあるのが機械だとかハログラムだとか、細かいこと気にするなってことだよ。ちょっと訓練してみよう。ボクの手を握ってみて」
「ええ?」
「いいから」
言われるがままに、差し出されたテクネの手に触れようとする。しかし、僕の指先は空を切った。
「あれ? あ、そうかハログラム――!」
そう気づいた瞬間、目の前のテクネが霧散していった。これもハログラムだったのか。
「あーあ、だから言ったじゃん。無意識を意識しろって」
すると今度は、後ろにいた熊が喋り出した。その口の中から、今度こそ本物のテクネが顔を出す。そこにいたのか。魔女は分身さえ簡単に出現させる。絶対にアリバイトリックを使わせたくない相手だ。
「いや、無理だろ。何も考えずに行動しろってことだろ? 意識するな考えるなって言われたら余計に意識するし考える。難しいって」
「『
「はあ……。ところでその着ぐるみどうしたの? わざわざ買ったの?」
「かわいいでしょ。がおがお」
んぅー! かわいい……! もう少し目に焼き付けて置きたかった。ところがテクネは飽きたのか、その着ぐるみをさっさと脱いでいつもの恰好になる。着ぐるみにはリアルな質感が、まさか本物の毛皮を使ったものじゃないだろうか。それを使い捨て感覚って、彼女の財布の口は緩すぎる。
「さて、まあ座りなよ」
テクネはやはり自分の椅子に座るも僕の椅子は用意されない。また仕方なく床に腰を落とす。
「そうだ、コレ。差し入れです」
実家近くのケーキ屋さんで売っている特製プリンの入った箱を手渡す。程よい固さと濃厚な卵の味が美味しいのだ。父さんがよく買ってくれて、二人で食べていた思い出の品である。僕の分も半分以上はテクネに奪われていたな。まあ、そんなこと覚えていないだろうけど。
「プリン! 素晴らしいねえ、わかってるじゃないか。じゃあ、飲み物を出してあげよう」
彼女は後ろの機械の箱たちに近寄ると一つのフタを開けた。どうやらそれは冷蔵庫だったらしい。
取り出したのは激甘で有名な黄色いパッケージの缶コーヒー、『デラックスコーヒー』だ。通称デラ缶。地域限定販売らしいから、わざわざ通販で取り寄せるほどのお気に入りなのだろう。一口飲むが、この甘ったるさはコーヒーとは別種である。砂糖が溶け切ってないんじゃないか? 成分表示を見ると砂糖に加えて加糖練乳が入ってる。コーヒーはオマケみたいなもんだ。
「別にボクは甘くないコーヒーだってもちろん飲めるんだよ。でも、頭脳労働者であるから急速な糖分摂取は必須なわけ」
テクネは聞いてもない言い訳を述べてくる。誰もお子ちゃまな舌だなんて言ってないのに。同時にもうプリンを綺麗にたいらげている。
「懐かしの味ってやつだね。美味、ごちそうさまでした」
あれ? 特にプリンについて説明はしていない。記憶になくても舌は覚えていたのだろうか。
彼女は空の容器をゴミ箱に放り投げると、僕に向き直る。
「――さあ、授業を始めようか。その前に、まずはキミが何を受講したいのかハッキリさせておこう」
「何って。透明人間事件、その犯人がどうやって透明化しているのか知りたいんだ」
「被害者はみんな自殺でした、っていう線は考えなくていいんだね? 存在しない透明人間をあたかも存在するかのように振舞う集団行動、とかね」
「記録を見返しても自発的な行動を裏付ける証拠は確認されていない。その可能性は低いし、そういう方向からの調査は別の人間がやっている」
「役割分担ってやつだ。オッケー、殺人犯がいるっていう前提ね」
テクネは軽快に床を蹴るとワークチェアを横一回転させる。ピタリと止まると、真っすぐ向き合う僕に告げた。
「結論から言うと、人間を透明にするのは不可能だよ」
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