一章:始動

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【パウリ効果】、というものをご存じだろうか?

 物理学界における古典的なジョークである。理論物理学者であるヴォルフガング・パウリは実験に対して不得手であり、よく器具を壊していたらしい。そのうち少し触れただけ、もしくは触ってもいないのに近づいただけで機械が壊れた、という現象さえ確認された。『何もしてないのに機械が勝手に壊れた』場合は仲間内でパウリ効果と呼ばれるようになり広まったというわけだ。

 パウリについては様々なエピソードがあり、実験中に爆発事故のあった研究所近くの駅にたまたまいたとか、パウリ効果を実証するためにイタズラを仕掛けると、その仕掛け自体が壊れて作動しなかったとかなんとか。

 ――というわけで雨男とかマーフィーの法則とか、理論的ではないが、どしようもない呪いか運命の星のもとにいる人間がいるというのは信じてもらいたい。

 だって、僕がまさにその【パウリ効果】の発生源なのだから――。


 官舎、公務員の独身寮にて。

 ……困ったことになったな。

 ロビー出入口の自動ドアが反応せず、僕はいつまでたっても出勤できずにいたのだ。

 僕は機械オンチでもないし機械が嫌いなわけでもない。向こうが僕のことを嫌いなのだろう。かれこれ十分以上、ドアの前で手を振ったりジャンプしたり、悪足掻わるあがきのように反復横跳びを試すも効果ナシ。誰かに見られたら不審者そのものだ。

 毎度反応が悪いのは仕方ないと昔から諦めていたが、今日は特に調子が悪い。トラブルを見越して早めに部屋を出てはいるが、いい加減時間に余裕がなくなってきた。運動と緊張で滲む汗がスーツの中で蒸れる。念じてみるも祈りは届かず、透明な壁は閉ざされたままだ。

 最終手段は、大学時代に先輩から教えてもらった暗黒舞踏ぶとうをするしかない。知らない人は調べて欲しい、チビッ子が困惑するくらい素晴らしいものだ。あれには何故か呪詛じゅそ的な効果が付与されているのか、どんな自動ドアでも開けさせてくれる。しかし肉体の限界まで挑むパフォーマンスであるので、できるだけやりたくないんだよなあ。筋肉痛確実を覚悟する。ふおおおおおおっ……!

「――お前は透明人間かーい!」

 背後からのツッコミ、振り返れば利市リイチ先輩がいた。そして扉もすんなりスライドする。

「よう、アナクロ」

 アナクロ、とは自分につけられているあだ名である。鉄穴カンナクロウという字面から真ん中だけ抽出したもの、かつての父を知る人も少なくない職場なのでその区別化もあるだろう。あと、時代錯誤という意味を持ち合わせている。機械にできるだけ関わらないよう生きてきた自分にはピッタリだ。

「……助かりました。おはようございます」

「いや、後ろでずっと見て楽しませてもらったんだが。流石にそのポージングは引くわ。災難な体質だよな、全く」


 利市ハヤト、自分と同じく公安情報庁調査官であり、当時配属されたばかりの僕を直接指導してくれた先輩。僕は一年前に近畿支局からこの淡海府の事務所へと異動になったが、先輩は近畿支局から【例の事件】の応援として事務所に出向いている立場だ。

 短髪の似合う爽やかな風貌は、もうすぐ三十歳だというのに大学生のような若々しさを感じさせる。高身長さと社会人スポーツクラブに通って鍛えているという細身ながらしっかりした体格は、情報機関の人間という暗いイメージより、商社のイケイケ営業マンという印象だ。実際、ヒューミントと呼ばれる聞き込み調査は利市さんの得意とするところである。しかし、仕事なのか本気なのか曖昧なまま複数女性との深い交友関係があるという噂は褒められたものじゃないだろう。

 そんな華やかさを維持する利市さんでさえ、顔に出てる疲労感とご自慢の高級ブランドスーツがクタクタになっているのは、の難航具合を物語っている。


 外に出れば、容赦ない日光に目を細める。利市さんにはかなり効いてるみたいで、顔を険しく歪めている。

「先輩、ちゃんと寝れていますか?」

「徹夜徹夜たまに仮眠、今日はとりあえず着替えに戻ってきただけだ。お前はいいよな。記録文書係、残業なんてありえないだろ」

 少しだけムッとする。自分だってこんな体質じゃなければ、調査の最前線に居続けたかった。こういう、人が気にしているところを配慮せずズケズケ言えちゃうところが、昔から少し苦手だった。

 利市さんはそんな僕の顔色を読み取ったのか、少し慌ててフォローする。

「ああ、悪かったよ。そう怒るな。お前の研修所の成績や現場での頑張り具合は誰だって認めている。……だけど、科学的でないにせよ、お前の周りで起こるトラブルは捜査に支障がどうしても出ちまうんだ。人事だって悪気があるけじゃない。誰だって苦い経験の一つや二つあるもんだ。割り切っていこうぜ」

 それもわかっている。最初に配属された調査部の現場業務でも、この特異体質の効果は余すことなく発揮された。

 対象人物の尾行中に何故か通信機が不調になって仲間との連携が取れずに見失ったりとか、チームが何か月にも渡ってまとめあげた調査データの中身が綺麗に消えていたりだとか、お偉いさんたちへの報告プレゼンの際に機材が予備を含めて全て沈黙したりだとか、自分が案件の中心となって頑張れば頑張るほど、結果は悲惨さを増していた。そのうち誰からも声をかけられなくなる。

 幼少期から仕方ないと理解しているが、それでも悔しさが簡単に消えるわけじゃない。自分がこのハイテク社会に馴染めていれば、どんなに人生が楽だったか。

「そんな定時で帰れるお前にも立派な仕事がある! オレの部屋に溜まっていく洗濯物とゴミの片付けをなんとかしてくれ」

 そう言って先輩はスペアの自宅カードキーを手渡してきた。僕は家事代行かい。

「何が悲しくて野郎のパンツを洗わなくちゃいけないんですか。頼み事のできる彼女なんていっぱいいるんでしょ?」

「バカ、人聞きの悪いことを言うな。それにオレはの中ではミステリアスなイメージで通っているんだ。生活感なんて一切匂わせちゃいけないんだよ。な、これも調査協力だと思って」

 そうですかい。とりあえずカードキーは受け取っておく。

「そういやアナクロ、お前、彼女はまだできないのか? このままボーッとしてたら一生独身だぞ。特に三十過ぎたらマジでキツいって。今年で二十五だっけ、四? 可愛い顔してんだから年上受け良さそうなのに」

「大きなお世話ですよ……」

 本当に痛いところ突いてくるな。学生以降、出会いというのは能動的にならなければ皆無である。特にこの仕事をしていると職業病か、知りあう相手がどんな情報を持っていて付き合う時間に対して有益かどうかを無意識に値踏みしてしまう。その癖、自分の情報はオープンにしたくない心理が働き、深い交流が望めなくなる。最低な人間だと自己嫌悪ばかりしてしまう。おまけに過去の失敗も思い出す。胃が縮み上がるようで吐きそうだ。

「顔色悪いな。歩いていく気か? ちょっと仕事の話もしたいし、タクシー使おうぜ」

「話なら職場でいいじゃないですか?」

「そんな暇はないっつーの。交通費は出してくれるんだから、ジャンジャン使ってやらないと」

「いや、僕の場合歩いたほうが早いっていうか……」


 話を聞かず、利市さんは手首に巻かれた腕時計型のウェアラブルデバイスを構えると、小さな黄緑色のランプが点滅し、自身の手前に空中投影画面を表示させた。

 自動配車オーダーのメニューから人数と目的地を素早く入力し、ものの数分で僕らの前に自動運転タクシーがやってくる。もちろん運転手はいない無人の車だ。

 ドアノブに手をかざすだけで赤外線照射による静脈の読み取りが完了し、僕ら二人が登録された健全な府民であることの証明と、電子決済の支払い手続きが数秒で完了する。

 車内にはもちろん運転席の概念はなく、向かい合う前部座席と後部座席があるのみ。外観こそ旧時代と変わらない自動車だが、内装については馬のいない馬車キャリッジに近いかもしれない。四人座って足を伸ばしても余裕あるスペースに、僕ら二人は向かいあって腰掛ける。電子音と確認文言をアナウンスする合成音声が流れた後、車は静かに発進する。

 とりあえず、何事もなく動き出したことに安心して息を吐いた。


 車窓から横移動していく景色。

 右側に見える繁華街のほうでは、ビルより大きい招き猫のキャラクターがアミューズメント施設の宣伝をしたり、股下五メートル以上ありそうな美人モデルが大手メーカの化粧品を自慢げに構えてポーズしていたりと、巨大立体映像広告が煌びやかに流れていく。

 左側に見えるビジネス街のほうでは、株価の動きや各国の経済指標をまとめたニュース速報の文字列が鳥のように空高くをビュンビュンと横切っていく。

 無人の車は休むことなく走り続け人々を運び、歩行者の行動は全て防犯カメラや静脈認証によって監視され危険予測のために分析される。

 圧倒的な情報量が絶え間なく行き交う、まさに人類の英知が集合した都市であった。

 この一連の流れ、旧時代の人間が見たら魔法と勘違いしてもおかしくないだろう。現代ではこれが当たり前だ。

『十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない』、有名な言葉である。

 ただし、僕にはとても扱いきれない。

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