第2話:お礼をしたい隣の席の先輩は、普通に可愛い。
「あっちゃんありがとう。もうホント、死ぬかと思った……」
私が修復を請け負ったいくつかのファイルを確認し終えたらしい先輩が、深いため息とともにぐでーっと机に突っ伏している。放っておいたら、そのままスライムみたいに溶けてなくなってしまいそうだ。
彼女の名前は蔵前 瑞穂。今年で入社六年目になるシステムエンジニアで、私が一年目の時から目をかけてくれている、最もお世話になっている先輩だ。先のやり取りからはちょっと想像つかないかもしれないが、これでも二つの案件のプロジェクトリーダーを兼任する、いわゆる『できる人』だったりする。
……するのだが、彼女は何故か、今回みたいな『定時間際ブルースクリーン』のような事故にやたらと遭遇する人でもある。いわゆる不幸退室というやつなのだろうか、始めて担当した改修案件で初期構築の時からの潜在バグを引き当てたり、改修したシステムのリリース当日に最寄り駅の路線が事故で運転見合わせになったりと、それはもう枚挙に暇がない。
そして、そんな先輩に縋られて巻き込み残業を食らった私は斎藤 明里。入社三年目の二十四歳で、先輩が担当している案件のうちの一つで開発リーダーを担当している、若手システムエンジニアだ。……本当はリーダーなんて役割は全くもって向いていないと思ってるし、そんなことよりコードを書いていたいところなんだけど、今後のキャリアのためにもって先輩から薦められたから、渋々やっている。
「これくらいで死んでたら、命がいくつあっても足りませんよ。特に先輩は」
「もー、それってどういう意味さー」
「その無駄におっきい胸に手を当てて考えてみたらどうです?」
「セクハラだー! 後輩でも女同士でもセクハラは成立するんだからねー!」
突っ伏した姿勢のまま、足だけをバタバタ動かす駄々っ子先輩。アラサーで先輩なのに駄々っ子とは、これいかに。
……まぁこの先輩、清涼飲料水のコマーシャルに出ててもおかしくないくらいの透明感に満ちた美人さんだから、そんな仕草も可愛く見えてしまうんだけどね。私が同じことやったら、間違いなくただの痛い人だ。
何故天は二物も三物も与えるのだろう、せめてそのうちの一つくらい私に分け与えてくれればよかったのに。胸とか、胸とか、胸とか。
「あっちゃん、今日はあとどれくらい?」
私が持たざる者の悲しみを噛みしめていると、駄々っ子から社会人に戻った先輩が上体を起こして問いかけてきた。
モニターの隅のデジタル表示を見れば、時刻は午後八時を示している。ここから新しい作業を開始するには遅い時間だし、それほど急ぎの作業が残っているかというと、そういうわけでもない。まさに潮時、という奴だろう。
そのように思考を巡らせて、口を開く。
「そうですね、キリもいいですし、ぼちぼち上がろうかと――」
思います、と最後まで言い終わらないうちに、先輩が本日二度目の椅子ごとタックルをぶちかましてきた。
「じゃあ! ご飯行こうご飯! 今日のお礼におごるから!」
大型犬が大好きな飼い主にじゃれつくような勢いで詰め寄られる。もし先輩にしっぽが生えてたら、ものすごい勢いで振っていたことだろう。まぁ、振られてるのは先輩の手にがっしりと捕まれた私の左てなんだけど。……ちょっと痛い。
「ちょっ、そんな勢いで来なくたっていいですって。行きます、行きますからっ」
「やったー!」
パッと花が咲いたように笑う先輩を見てると、左手の痛みも必要経費なんじゃないかって思ってしまう。……いや、私が了承すればこうして笑ってくれたわけだから、必要な経費ではないか。
「じゃあじゃあ、何か食べたいものある?」
「うーん……特に。先輩にお任せします」
「もー、あっちゃんいっつもそれじゃん。ホントに何もないの?」
「そういわれても……あー、じゃあお昼が中華だったので、それ以外で」
「了解!」
そう言って鼻歌交じりにピンクのカバーがついたスマホとにらめっこを始める先輩を傍目に、私はパソコンの電源を落とすのだった。
……ご機嫌な様子でパソコンを片付けている隣の席の先輩は、普通に可愛い。
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