第三話 赤ちゃんのむにむにを守れ

 私は今日も日課の散歩を楽しんでいた。

 散歩はいいものだ。

 歩いていると思わぬアイディアを閃くこともある。

 ずっと忘れていた大切な思い出がよみがえることもある。

 何よりも赤ちゃんと出会えるのがいい。

 私は散歩が好きだ。

 赤ちゃんのむにむにはもっと好きだ。

 散歩にはいい事しかない。

 唯一、不満な点を挙げるとすれば、我が家の立地の都合上、コースのバリエーションが少ないことくらいだろうか。

 だけどそれでもいいのだ。二回、三回とむにむにさせてくれる人たちとも出会えるのだから。

 おや、遠くに見える夫婦は新顔さんだ。この辺りでは見たことがない。最近引っ越してきたのかも知れない。

 そして女性が押すのは使い込まれたベビーカー。だが、残念なことにここからでは赤ちゃんの顔が見えない。むにむに具合も確認することができない。ご両親に笑顔を向けて敵対心が無いことをアピールしながら、もう少し近づこうではないか。

 一歩、二歩とゆっくり確実に足を運ぶ。

 ご両親らしき男女と目が合う。笑みは絶やさない。

 ベビーカーに視線を映す。赤ちゃんのものらしき膨らみはあるが、やはりよく見えない。

 いや、これは――


 そのとき、乾いた音が二回、三回と辺りに響いた。



 *  *  *



『ターゲットがデコイと接触するまで、残り二〇ふたまる、十九、十八……』


 私は何食わぬ顔とどこにでもある服装で、超小型インカムから流れてくるオペレーターの声を聞き流していた。

 ここは大型ショッピングモールの広場だ。私のような人間がいたところで、それは風景にしかならない。

 手頃なベンチに腰掛け、黒く短い髪をかき上げながら目の前を見る。

 作戦は単純なものだった。

 ボディーガードが最も離れるその一瞬を作りだし、そして攻撃する。躊躇わず、迅速に。


一〇ひとまる、九、八、七』


 私は立ち上がった。いつも通りだ。焦るな。焦れば、また一からやり直さなければならない。


『六、五』


 五を合図に私は腰の窪みに差していた銃を引き抜いた。

 歩きながら、奴に銃口を向け引き金を引く。

 一回、二回、三回、それはすべて奴の体に命中し、どうっと横に倒れた。

 直後、いくつもの悲鳴と怒号、そして沢山の足音が地鳴りのように辺りを包む。

 デコイの二人は少し離れたが、奴をじっと見たまま逃げようとしない。

 途端に違和感を感じた。


『対象沈黙。各人、退避せよ』


 自ら立てた作戦通りのオペレーターからの指示も無視して、奴の体を眺める。

 今日も仕立ての良さそうなスーツ、糊のきいた清潔感のあるワイシャツ、短く刈り揃えられた白髪で、実に人が騙されやすそうな格好ではないか。

 そして周囲に転がるのは、ひしゃげた小さな三つの金属。

 確かにこれはおかしい。

 私は奴を見下ろし、更に引き金を引いた。弾倉から銃弾がなくなるまで何度も引いた。奴を確実に葬るために。

 だが、どうだ。

 奴の体に吸い込まれるように見えた、その弾丸のすべてが、当たると思った瞬間にぼとりと落ちるではないか。

 よく見ろ。

 奴の汚れた血は流れていない。

 私の頭が警告音を鳴らす。

 早く逃げろと。


 だが、それは間に合わず、右足を掴まれた直後、力任せに放り投げられた。

 刹那の浮遊感の後、どんっと体が固い地面に打ちつけられ、なす術もなくごろごろと転がる。

 植え込みでようやく止まった私の目には、アイロンが効いたスラックスが歩み寄ってくる光景が映った。

 立て、立ち上がれ。

 このままでは復讐は果たせない。

 歯を食いしばり、ふらふらになりながら立ち上がると、そこには上半身裸の奴――大金おおがね持男もちおが、腕組みをして佇んでいたのだった。


「サイバーコンバットスーツだと……ふざけてるな」


 半裸に見えた大金は、けれど仄かに青く光る繊維が走るアーマーを纏っていた。

 それは、最近になって軍の一部に導入され始めた全身装甲である。防刃防弾の他に、使用者の運動能力を飛躍的に向上させる人口筋肉までをも備え、正しく人間兵器を作り出すための狂気の発明だった。

 それを纏った八十過ぎの老人が目の前にいる。

 奴のボディーガードたちも遅ればせながら、私たちの周囲を取り囲み始め、デコイの二人は既に取り押さえられていた。


「面白い。やってやろうじゃないか」


 ぼそりと吐き出し、闘志を高める。

 しかし、奴が繰り出してきたのは銃弾でも拳でもなく、言葉だった。


「さて、ご婦人。あなたは、どうして私を狙ったのだろうか」

「ふん! 何を白々しい! 金で赤ちゃんを買うお前の腐った性根が許せないからに決まってるだろ」


 ああ、見るな、見るんじゃない。どうしてお前はそんな落ち着いた顔で私を見るんだ。見下しやがって。


「なるほど。あなたの言い分については、私も分からなくはない。だが、現実的に金が無ければ子供は育てられない。金が無ければ親が死んでしまうかも知れない。親は無くとも子は育つというが、親の愛情を知らずに育った子供は感情が不安定になるという説もある。だというのに、今の若者には金がない。子供を産めば夫婦の生活資金は増える一方だというのに。それをどうにかして埋めようというのが、赤ちゃんむにむに師制度なのだよ。我ながら良い制度を作ったと思うが?」

「金がなくとも子供は育てられる」

「笑止。それはただの理想論だ」

「理想が希望になり、希望が無ければ人は生きていけない。希望こそが人を生かす。赤ちゃんは希望で、希望はお金に換えられるものではない」

「青臭いな。だが……君は赤ちゃんが好きか?」

「ふん、愚問だな」

「しかし、我々の間には大きな隔たりがある。ならば、戦うしかあるまい。私を倒して君の希望とやらを手にして見せよ」

「やってやるさ。後悔するなよ、クソジジイ」


 大金が手を上げると、ボディガードの囲みが一段、下がった。

 大金を倒したところで、一度始まった制度がすぐに廃止になるものではないことくらい、私にも分かっている。けれど、実際、制度を作った当人に言われれば、或いは、という希望も見出してしまう。希望などとうの昔に失ったものだと思っていたが、不思議なもので、今、私の体には力が溢れていた。

 一度深呼吸をして、足を肩幅に開き腰を落とす。やや前傾姿勢になり、両腕を前に構える。

 おそらく打撃では勝負になるまい。狙うとしたら組技しかないのだ。

 そして、奴が距離を詰めてきた。

 速い。

 ただ、高性能な装甲を身に纏っているだけでなく、奴はあの年で相当な修練を重ねているのだ。

 私は身震いした。

 奴の右足が一際強く地面を踏みしめ、右の拳が唸る。

 私はそれを冷静に両手でいなし、同時に足さばきで回避する。

 奴はニヤリと笑った。

 その瞬間、ハイキックが飛んでくるが、飛びのいて躱す。

 ごうという音を立てて、ほんの数センチ先を奴の左足が通り過ぎると、私は消えた。

 極限まで姿勢を低くし、奴の右足に両腕を絡める。

 そして全身で持ち上げるようにしつつ、体そのものは進ませるのだ。

 奴が慣れていない限り、このタックルは防げない。防ぎようがない。何よりも八十過ぎの動体視力では反応することすら難しいだろう。無様に倒れ、すかさず絞め落とせば私の勝ちだ。

 確かに奴は反応が遅れた。が、それを補って余りある膂力と質量でもってして、お手本通りに足をひいて体を被せ、タックルを潰しにきたのだ。

 無様に地面に這いつくばったのは私の方だったのだ。

 だが、奴は組技には不得手だったらしい。四つん這いになりながらも素早く逃げ出した私を捕らえることは出来ず、再び立ち姿勢で奴と対峙する。

 今度は極端な前傾姿勢ではない。

 両脇を締め、拳を前に構える。

 殴り合いだ。殴り合いのための姿勢だ。

 軽く小刻みに跳ねるようなステップで奴に近づく。

 振りかざされた奴の剛拳を躱して側面に回り込み、右、右、左、右と拳を当てる。

 大してダメージは与えられないだろうが、それでもいい。奴が気を取られてくれれば。

 それを二度三度と繰り返していると、とうとうそのときがやってきた。

 私の体は奴の後ろにあり、奴は私を完全に見失っている。

 この機を見逃さず、奴の背中に飛びかかり、両脚を胴体に絡ませ、両腕を奴の首に回しす。

 異様に硬い首だが、それでも奴は苦しそうに、そして力任せに私の腕を外そうともがいた。

 奴は体をぶんぶんと振り回し、私を振り落とそうとする。

 負けてなるものか。あの制度を廃止しなければ、私の復讐は終わらないのだから。


 だけど、本当は分かっている。これは復讐じゃないってことを。ただ、息子が死に、虚ろになった心を埋めたいだけなんだってことも。

 奴の指が私の腕に食い込み、血が流れ始めた。

 だけど私は諦めない。あれを廃止すれば、感染症で死亡する赤ちゃんが減るはずなのだ。私は何も間違ってはいない。正義は私にある……はず……なのだ。


「おぎゃあ! むまぁあ! むまぁあ!」


 赤ちゃんの声がした。

 か弱い自分の存在を、他に知らしめる泣き声がした。

 大金の首を絞めながら、首と目だけで声の発生源を探す。


 いた。


 地面に置き去りにされた、小さなむにむにがそこにいた。

 私の体から力が抜ける。

 大金の体からも力が抜ける。

 ひょいと飛び降りた私は大金と一瞬、視線を合わせ、すぐに赤ちゃんに向けて駆け出した。

 私の手が赤ちゃんに触れようとしたそのとき、大金の声がした。


「君、待ち給えよ。他人が赤ちゃんに触れる前には、必ず手を洗うのだ。それが出来ない者が他人様の赤ちゃんを触っていい道理などない。タライをこれに」


 大金の付き人らしき者が持ってきた水で手を洗い、同じく付き人が用意した柔らかい布でそっと赤ちゃんを包む。

 赤ちゃんのむにむにと匂いとその体温は、私の心をほぐすのに充分だった。


「君、なかなかやるじゃないか。私のボディーガードにならないかね?」

「誰がなるかよ、クソジジイ」

「では、子育て家庭を支援するための財団を設立しようと思っているんだがね、君も参加してみないかね?」

「……はぁ、クソジジイはしつこいな。やらねーよ」

「そうか、それは残念だ」


 だけどあのときの私は、きっと笑っていたと思う。

 今、こうして赤ちゃんをむにむにしているのだから。



『赤ちゃんむにむに師』 ― 完 ―

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赤ちゃんむにむに師 津多 時ロウ @tsuda_jiro

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