茶摘み
小鷹竹叢
茶摘み
若い芽を摘む。まだ光合成もろくにしていない。瑞々しさに溢れた若葉を次々と毟り取って行く私の手に、茶葉のいい薫りが染み込んで行く。大気に満ちるこの薫りは血だ。まだ成長していない若葉の血で私の手は濡れて行く。
五月初旬の爽やかな陽光を浴びながら腰を屈めて茶を摘む私に、この茶畑の持ち主である兄の声が遠くから届いた。
「そろそろ十時だ。休憩しようか」
私は振り向いて大声で言った。
「まだ、いい。もう少ししてから行く。切りのいい所まで」
「そうか。ま、ほどほどにしておけよ」
「分かった」
そう叫んで茶摘みに戻った。
子供の頃のお手伝いは別として、私が本格的に茶摘みをするのは今年が初めてだった。ようやく体を動かせるようになった私を兄は雇ってくれた。
本調子ではないが、それでも頑張らなければ。
一緒に暮らしている普段の生活から、細やかな所作から、兄が私を気遣ってくれているのが良く分かる。だから元気な様子を見せたいと思っている。もう殆ど元通りだと。傷は癒えた、もう元気だ、と。そのように見せたかった。
余り遅くなっても気を遣わせる。私は手拭いで額や頬の汗を拭いながら家屋の方へと向かって行った。
縁側で兄は煙草を吹かしながら手招きをし、兄嫁は私を見て茶を汲んでくれた。今日の茶菓子は
隣に座った私に向かい、
「疲れただろう」
と兄は言った。
「まだまだ、全然。お昼まで休みなしで続けられるよ」
それを聞いて
「ま、そう言うな。休憩も大事だ」
何気なく口にした言葉だろうが、涙が出そうになった。そんなことを言ってくれる人は前にはいなかった。私が寝た切りになる五年前までは。
金鍔を噛んでいると、圧倒的な甘味が口の中いっぱいに広がった。
私は七年前に大学を卒業した。それと同時に東京の会社に就職した。その会社は今思えば酷いところだった。
契約からも法律からも外れた状況で働かされ、罵声の飛び交う職場では私も当然その対象となった。一時間に一度は罵倒された。
人は知っているだろうか。人間というものはそうした環境に置かれると次第に罵倒されるのを望むようになる。
一日十二時間の労働で十二回の罵倒をされるとするならば、一度されれば一回分のノルマがこなされ、残りの苦痛は一回分減る、そして次の一時間は傷付かなくて済むと考えてしまうようになるからだ。因果関係を考える余裕もなく。
だがそうして心を守っているからには、一時間が過ぎない内に次の罵倒を浴びせられれば気が狂ってしまいそうになる。傷も癒えていない内に次の楔を打ち込まれた。その痛みも然ることながら、世界の規則が崩れたようにも感じられ、「本来の」ものよりも多くの苦痛を受けることに絶望する。そしてまた怒鳴られる恐怖に身を震わせる。
人間性を否定され、これまでの人生もこれからの人生も、育ちも経歴も両親も侮辱された。人としての尊厳を奪われた。そんな状態で日々を送った。
結局のところ、私は一年も持たなかった。それでも私は頑張った方だ。一緒に入社した同僚は一ヶ月で音信不通になったのだから。
そこを辞めた後にも私は社会で頑張ろうとした。数も覚えていないほど沢山の会社に応募した。だが面接の際には必ず聞かれる、何故前職を退職したのか、と。
その質問をされると私は前の会社でのことを思い出し、叫び出しそうになった。頭の中が真っ白になり、目も耳も働かくなり、息も詰まった。
それでも心を握り潰して何とか答えようとした。回答は正直にしても良かったのだろうか。酷い会社だったのだと。精神を蝕まれたのだと。待遇も条件も、賃金すらも、面接時の説明とは違っていたのだと。
まさか。そんなことを言えば事実の如何を問わずに会社の悪口を言う人間として見做される。
私は自身の成長がどうだとか、より社会的意義のある仕事がしたいとか、お
そんな人間を雇おうとする所などあるはずがない。そしてそれがなかったとしても、私が精神的に追い詰められているのは見てすぐに分かっただろう。針の一刺しで破滅してしまうような、精神的に脆弱な状態な者を好き好んで採用する会社なんてない。
何もない時でも勝手に前職の記憶が蘇り、何度も何度も繰り返し傷付いて行く状態であった私は、数多の会社からの不採用で更に追い詰められて行った。
子供の頃にはお小遣いやお年玉はほとんど使わず貯金をしていた。その少女時代の私の貯えを切り崩し、社会に出たばかりでは給与もまだ少ないだろうからと続けてくれていた両親からの仕送りを断りもせずにそのまま受け取り、それでどうにか生活をしていた。
だがそんな生活はいつまでも続けられるわけがないと分かっていた。将来への不安に圧し潰された。
結局のところ、私は前職の記憶を抱えたまま、新しい安定した仕事も見付けられないまま、心が折れた。
大学を卒業して丁度二年目の春のことだ。もはや体も動かず、三日に一度コンビニへ買い物へ行くのが精一杯だった。風呂に入るのも週に一度あればいい方で、ゴミを出すのも月に一度が限度だった。洗い物など、常に溜まっていた。
俗に言う引き籠もりというやつか。私は延々と、干しもしない布団で横になりながら、前職の記憶に苦しめられていた。ただ寝ているだけで日々は過ぎて行った。
私は有名な大学を卒業していた。いい勤め先に行っていれば順風満帆と言われるような経歴をしていた。そうした所謂「前途ある」若者であった私は、社会に対して何もしないまま部屋で一人寝た切りの状態になっていた。
私が成人するまでに掛けられた費用は両親だけが出したのではない。教育費だけを考えても税金だって投入されている。その分を国庫に返すよりも前に私は働けなくなった。
前の職場で言われたことは本当だった。「社会のお荷物」「役立たず」「穀潰し」「社会的に無価値な存在」「親の教育は失敗だった」「大学に行ったのは金の無駄」。本当だった。
親も国も、私に掛けた金を回収することは出来なかった。私はそれらに経済的なダメージを与えただけで終わった。親不孝の犬であり、国庫を蝕む害虫であった。
その時期に両親は事故で他界した。私は葬式に行けなかった。起き上がることも出来ず、地元までの交通費もなかった。
あんなに優しくて、人が良くて、大好きな両親の葬式に、私は行かなかったのだ。偶には顔を見せに来いと、私に会いたがっていた。それなのに死ぬ前にも、死んだ後にも、私は彼らに会わなかった。自分のことを非道い人間だと思っている。
四十九日が過ぎた頃、何の連絡もなしにただ欠席した私を訝しんだのだろう、兄が私のアパートを訪ねて来た。
私を見、また部屋の様子を見た兄は絶句した。それから私は朦朧とした頭で兄の言うことに諾々として従った。
結果、私は実家へ帰ることになった。両親の茶畑は兄が継いでいた。私には家の奥まった部屋が与えられ、そこで寝るだけの生活をした。
後に兄嫁となる人が食事を運んで来てくれたり、洗濯をしたり、私の調子がよくて部屋の外へ出られる時には掃除もしてくれた。こんなに優しい女性など、まずいるものではない。
病院にも通うことになった。その日には兄は農作業をせずに私の送り迎えをしてくれた。私も免許は持っているが、運転が出来る状態ではない。これも取るだけ無駄だった。教習所へ行ったのは無駄だった。しかし兄は何も言わずに当たり前のように車の運転をしてくれた。
両親の喪が明けて暫くしてから兄は結婚した。私は式に参加しなかった。出来ることなら私だって祝いたかった。今でも悔やんでいる。
最近になって、ようやく自分の身の回りの事が出来るようになって来た。兄夫婦の優しさと医者に貰った薬のお陰だ。記憶が蘇って来る時以外は、ゆっくりではあっても、動けるようになって来た。
そして先日に茶摘みの手伝いをしたいと告げた所、兄夫婦は私のために喜んでくれた。そんな彼らのために頑張りたいと思っている。
金鍔の甘味を喉の奥に押し込むようにして新茶を飲んだ。瑞々しい爽やかさの中に仄かな苦みが含まれていた。人々が有り難がるのもよく分かる。新しい芽は、とても美味しい。この一時の味わいのために摘んでしまうほど。
この新しい芽は私だった。私もまた、一時の美味さのために光合成もしない内に摘まれてしまった。
あの頃の記憶に囚われながら、生まれた家から外へは出られず、残りの一生を送るのだろう。再び社会に出ることはなく。
お茶と茶菓子を用意してくれた兄嫁にお礼を言って、仕事を再開するべく茶畑へ向かった。
それでも私は良かった方だ。兄夫婦が私の働き場所を作ってくれている。茶畑を進む私の足元には、零れ落ちて踏み躙られ、売り物にならなくなった茶葉が土へと埋もれ、二度と日の目を見ることのない所へと葬られて行く。
茶摘み 小鷹竹叢 @ctk-x8
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます