水色のアオハル

瑞葉

1

 月曜日の朝、ホームルーム前の教室は騒がしくて、耳がキンキンする。わたしは一限目の国語の授業の教科書とノートを引き出しから取り出した。その時、隣の席の遥希(はるき)くんが「はい、これ」と微かな声で言いながら、何かを渡してくれる。白い包み紙。金色のシールが勲章みたいに貼られている。なんだろう。本かな。まさか、チョコレートとか。

「冬原さんって誕生日、今の時期だったよね」

 遥希くんはどこか恥ずかしそうに頬を染めている。短い黒髪。すべすべした薄い皮膚。わたしの爪で触ったらその皮膚ごと、君という存在を傷つけてしまいそう。

 わたしはわざとらしくため息をつく。

「明日だよ。五月三十日。全く、なんで一日フライングするかね」

「ちひらー、おまえ、相変わらず口悪いなあ」

 窓際のわたしたちの席は特等席。その席に向かって、教室の隅の扉付近でふざけていた男子たちがでかい声を浴びせる。男子たちがニヤニヤしながら、包み紙とわたしの顔を見比べてる。

 頬がかっと熱くなった。日差しがまぶしいせいだけではなかった。

「あとで開けるね」

 あえて冷たく突き放して、遥希くんの方はもう見ない。それでも視力がいいわたしは、視界の端で君のことはちゃんととらえてる。

 遥希くんは一限目の国語の前なのに、二限目の数学の宿題をちょっと慌ててやってる。わたしの隠れた視線にちゃんと気づいて、こちらを向いて恥ずかしそうに微笑んだ。

 あ、その宿題、わたしもやってないや。というか、家の机の引き出しの中にあるんですけれど。

 まあいいや。冬原茅平(ちひら)。明日で十七歳。特技は早弁当と体育と昼寝だもんね。数学は苦手科目なんだから、プリントを忘れたってご愛敬だ。わたしがウインクしたって、エンジ色のジャージを着たあの数学教師にはなにも通じないけれどね。

 一限あとの休み時間に、教室外のベランダに出て、包装紙を開ける。周りに人がいないのを確認して、おそるおそると。

 出てきたのは「ご朱印帳」。

 え? なに? これ、なに? こんなものをプレゼントする意図、なに?

 確か、遥希くんのおうちは和雑貨屋さんだったっけなあ。クラスの誰かが話してたけれど。

 お店の商品? それを、わたしに?


 ご朱印帳はとてもきれいだった。ショッピングモールの文房具屋とかで売ってるのを見たことはあるけれど、実際にさわるのは初めてだ。

 水色の着物みたいな布の生地の表紙は滑らかで、蝶々の絵が金色の糸で刺繍されて描かれている。どうしよう。可愛い。けれど、そんな熱心にお詣りするほど、わたし、信心深くない。

 教室に戻ると、さっきの男子たちがプロレスごっこをしている。女子たちはグループに分かれておしゃべりに夢中。この辺では「中堅」と言われる私立高校のありのままの日常だった。そんな中で、遥希くんはいつも、読書を自分の席でしている。友達がいないわけではなく、学級委員長とか、友達の少ない陰キャ男子とかとはたまに話してはいた。

 君は「個人主義者」なんだなあ。

 隣の席になって二カ月が経つけれど、わたしはそう思ってる。それなのに、わたしには一学期の初めからずっと優しかった。どういうわけか。

「中身、見たよ。ありがとね」

 ブアイソな声で君に話す。わたしは絶望する。なんで、君への言葉だけは、いつものわたしみたいに可愛く愛想よく笑えないんだろうって。

 遥希くんは柔らかに笑う。晴れた日の小川のせせらぎみたいに澄んだ笑い方。(小川のせせらぎなんて、そもそも令和の東京っ子のわたしには無縁だけれど)

「うちのばあちゃんの雑貨店のだけど、僕がお金出したからね」

 妙にキッパリ、遥希くんは宣言した。わたしはちょっとどきりとしてまじまじと遥希くんをながめてしまう。

 遥希くんは授業の時、水色の眼鏡をかけている。今も、読書中だからか、その眼鏡を外していない。可愛い顔立ちなのに、眼鏡をかけると不思議とシュッとする。君は、結構、女子から人気あるって、自分でわかってるんだろうか。


 わたしは遥希くんのこと、結構知ってるんだよ。

 隣の席だから、君がモヤモヤしてるときは、消しゴムをカッターナイフで細かく刻む癖があること、自然と知っちゃったよ。貧乏ゆすりなどのかわりなのかな。そういう癖なのかな、と思う。意外と神経質なのかな、て思ってる。

 消しゴムも淡い水色だったね。眼鏡も水色。ついていけない「進学英語B」の授業のノートを筆記体でとりながら、「水色が好きなのかなあ」と漠然と思ってたっけ。

 わたしも水色は好きなんだ。そして、隣の席だからこそ知れたもう一つのこと。君が英語のノートをとるのも筆記体だった。それはまぎれもない「共通点」なんだよ。


 ピピ。

 わたしのスマホに耳障りな着信がある。第六感が働いた。送信者はわかってる。

 明日の誕生日のことなんか、実は今朝までのわたしは忘れていた。自分のことなのに。

 厄介ごとがあった。これまで生きていて一番くらいの。

 ラインの送信者、秀徳(ひでのり)に「明日会う?」とだけブアイソに送る。既読はすぐについたけれど、返信も何もない。わたしと「彼」の空っぽなジュース缶みたいな仲をそのまま表してるように。


 次の日、五月三十日は、雨も降ったし、展開も最悪だった。

 わたしはその日、放課後の洒落た喫茶店で、二ヶ月付き合ってきた秀徳と会い、その店の雰囲気を台無しにするような別れ話を延々としていた。

 秀徳も、遥希くんと同じようにメガネ男子だ。

 でも、受ける印象は大違い。秀徳は、どこか他人を軽蔑してるところが垣間見える。学年一成績がよく、メガネを外すと顔も結構男前。そんなもろもろが災いして、鼻持ちならない男。

 話し合いは一時間三十分に及んだ。ドリンクバーの店でないのをこれほど後悔したことはない。ジュースやお茶一杯が四百円する店で、三回もおかわりをした。それなのに、プレゼントの代わりに、なにか大きな声の捨て台詞を吐かれて、飲み物の代金をバン、とテーブルの上に置かれて、先に出ていかれた。

 泣かないように我慢したけれど、鼻水だけは出てしまった。ティッシュでぐしぐしと鼻をかんでいたら、店員さんが申し訳なさそうな表情で、お水のコップを持ってきてくれた。ほんの少しだけ、笑顔を返せた。でも、いつも通ってるお店だっただけに、店員さんもわたしもお互い気まずかった。

 駅からも学校からも近くて、絵も飾ってあるお気に入りの喫茶店だったのに、しばらくはここに顔、出せないな。

 帰宅してから部屋に閉じこもっていた。お父さんもお母さんも仕事で夜遅い。その日は夕飯を夜八時になっても食べなかったけれど、わたしの空きっ腹を気にする人なんか誰もいなかった。今日会わなかった他のクラスの友達や遊び仲間たちから、ごく薄い軽いラインがバンバン来た。それらは「誕生日おめでとー」としか書かれていない。

 なんで、遥希くんにラインを送ろうなんて、思いついたんだろう。

「失恋しました。彼氏の秀徳と別れました」

 そんなライン、読んだら君も困るだろう。君がたとえ周りの子よりは大人っぽい人だったって、そんな重い言葉を送っていい理由になんてならない。

「冬原さん、フリーになったの?」

 君から、そんなラインが来た。ふわりと笑ったタンポポのキャラクターのスタンプとともに。

 今は六月になりそうだというのに、タンポポは妙にのんびりした顔をしている。こわばって、もうずいぶん長く、呼吸の仕方を忘れてたんだなあ。とわたしは気づく。

「電話してもいい? いま」

 君に寄りかかっていいですか? つい、期待してしまうんだよね。

「今は、予備校の講義を受けてるところなんだ。ごめんね。夜の十時ごろなら」

 君から、そんな返信が律儀にくる。わたしは急に、自分のふがいなさを自覚したよ。

「いいよ。いいってば」

 乱暴に言葉を早打ちして、君に送信する。

 スマホの電源を切って、早めにお風呂に入って寝てしまうことにした。夕飯を食べないのは体に悪い気がしたので、冷凍ピザをチンして、もくもく食べた。何の味も感じなかったけどね。


「冬原さん。今度の休み、浅草寺に行こうよ」

 遥希くんは六月二日、そんなことをわたしに言った。わたしが今週ずっと、授業に集中せず、傷んだ茶髪を枝毛切りはさみで切っているのが目に余ったのかもしれない。

 急に蒸し暑くなって、蚊も時々寄ってくる。嫌な季節だった。夏服に変わったから、遥希くんはさわやかな白シャツ。学ランの時と雰囲気が違う。君のことを勝手に王子様にしたくないから、わたしは視界の端から君を消す。

 早く席替えになれ、と思っていた。

 秀徳に振られてすぐに、わたしのおでこにはニキビができた。すごく気になっていた。明日の土曜日、皮膚科に行こうかどうしようか悩んでた。そんな時に、遥希くんが「浅草寺」なんて言ってきたものだから、「は」と機嫌悪く返してしまった。

 わたしは今、きっとブサイクだったろうな、と秒で自己嫌悪して、「ほんと、ごめん」とすぐに謝る。君はにっこりとご機嫌で、トントン拍子に、明日、土曜日午前十時に待ち合わせて、浅草に行くことが決まってしまった。わたしの皮膚科はお預けになった。

 まずいことになったよね。ご朱印帳、どこにやったっけ? 

 わたしの部屋は、元カレ、秀徳との混沌した仲をそのまま図解したみたいな有様。どこもかしこも、片付いてない。唯一まともなのは、小学校の時から使ってる学習机のあたり。

 そのあたりのどこかに確かしまったよね。あちこち探して二十分。机の足元の隠し本棚に中学校の卒業アルバムがある。その隣にご朱印帳を見つけた時には、脱力して、勉強机の椅子に手をつけたまま、床にぺたんと座り込んでしまった。

 座り込んだまま、卒業アルバムのページをめくる。黒いおかっぱ頭のわたしがそこにいた。美化委員会や吹奏楽部の団体に交じって、はかなげに笑っている。分厚いダサい水色の眼鏡をかけている。優等生の遥希くんみたいな柔らかな知性や理性のかけらもない、もっさりしたこの姿。

 うちの高校は校則なんてあってないようなもの。入ってみれば、金髪にしている同級生だって何人もいた。わたしは高校一年生のゴールデンウィークに、周りの子に合わせて茶髪にした。美容室から帰ってきたわたしを見たお父さんとお母さんは、拍子抜けするくらいフツーの反応をした。だから、「映えない」のかなあと心配になった。けれど、その髪で高校に行ったら、前より頻繁に遊びに誘われるようになった。予定とシールで、スケジュール帳が埋まっていく。

 そして、高校二年生の四月に、秀徳を友達から紹介された。秀徳は最初、すごく乗り気だったし、わたしも、頭の回転のいい秀徳にしばらく夢中になった。けれど、一緒に映画館に行った時に、秀徳がずっと貧乏ゆすりをしてる上に三回もトイレに立ち、挙げ句の果てに「くそつまんねえ映画。時間無駄にした」とのたまった時に、わたしの中の「成績トップの王子様」幻想はもろく崩れ去った。

 わたしはその後、惰性で秀徳と付き合い、ねちっこいキスをされて、ますます彼のことが嫌いになった。うまくいかなくなったのを勘づいた秀徳から、会ってる時に様々な嫌がらせをされた。

 でも、すべて過去の話だ。わたしの思いはもうとっくに冷めてた。ただ、大事なファーストキスをあんな男に捧げてしまったのに、この先、誰かいい人がわたしのこと、好きになってくれるのかなあと、そこは自信がない。


 翌朝、空がわたしの好きなペールグレーという色をしていた。学校の最寄り駅の北千住駅で待ち合わせてた。少し約束の時間より遅れてきた遥希くんは、ぴょこんとはねた髪をさすりながら、「バスが混んでて。ほんとごめんね」と言う。コンビニのキャラメルを申し訳なさそうにくれた。ふふふと子どものようにわたしは笑ってしまう。

 私服がワイン色のTシャツだった。慌てて走ってきたからか、うっすらとそのTシャツに汗がにじんでるのもむしろ好ましい。遥希くんは、わたしが汗染みを見ているのに気がついたのだろう。電車に乗っている時、無言で服を乾かすしぐさをしていた。

 わたしは、手持ちの中でも大人っぽい、黒いワンピース。水色のトンボ玉ネックレスを首にしているのに、君が気づけばいいけれど。

 浅草寺に着くと、すごい人だかり。コロナで規制されなくなったので、外国人の観光客も多い。背の高い力士みたいな体格の金髪のおじさんたちが五、六人、わたしたちの前を歩いていた。前が見えないじゃない。わたしが眉をしかめていると、遥希くんは、「ほら、こっち」とわたしの腕を自然に引っ張る。手が触れたのにどきりとすれば、チョコバナナ、と書いてある看板を指さしてニコニコしている。

「買ってあげるよ」

 わたしは子どもか。だけど、緊張して朝ご飯をろくに食べられていなかったので、お腹がぎゅるるうる、と音を立ててしまった。

 露店のお兄さんにまで、君のようにニコニコされながら、チョコバナナを二個もらう。一個はもちろん君の分。実は、こういうものを屋台で買ったのは十七年の人生で初めてだった。

 甘くて懐かしい味のするバナナ。小さい時におやつで出てくるの、好きだったなあ。

 遥希くんと何かを食べるのは、すごく「やらしい」ことにわたしは感じてしまう。秀徳とだって、ファストフード店にも喫茶店にも行ったのに。なんなら、いやらしいキスもされたのに。

 秀徳にキスを初めてされても、わたしは全く心が動かなかった。なのに、今日はどうだろう。露店の雰囲気が魔法をかけてる? 夏だから、遥希くんのにおいがするような気がして、それが無性に心浮き立つ。

 食べ終わると、「ご朱印、押しに行こうか」と君は言って、カバンからぼろぼろのご朱印帳を取り出した。

「何個くらい押したの?」

 思わず聞いてしまう。

「東京タワーの上の神社なんかもあるよ。でも、個数としては少ないや。まだ十個くらい。常にカバンに入れてるから、もう、年季入ってるね」

 君はちょっと誇らしそうに笑う。わたしは、自分の真新しい水色のご朱印帳を取り出して、君のものと並べてみせる。ふたりで、年季の差を確認して自然に笑う。

 社務所でご朱印を書いてもらう作業は、どこか、小さい時にやった「スタンプラリー」に似ていた。赤い浅草寺のハンコの上に、達筆で描かれていく力強い黒い文字に目を奪われる。

 浅草寺にもお詣りする。みんなの祈る姿、お賽銭を入れる音。外国人観光客のしゃべる外国語。いろんなものが渦巻いて、わたしの「今」をつくっていく。

「また、つきあってあげてもいいよ。ご朱印集め」

 浅草寺をあとにしたわたしは、妙に素直に遥希くんに言う。ようやく、愛想よく君に何かを言えた。

 君はうふふと笑うと、「よかった。茅平が笑顔になってくれたから。きっと、すごく楽しいと思う」と力強く言う。

 待って。その「名前呼び捨て」は、どういう意味なんだい?

 でも、遥希くん。君の言葉は優雅に力強いから、わたしは「意味」なんか今は求めないよ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水色のアオハル 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画