第2話 天使の声
(回想)
「
ドンッ
鈍い音がして
「ま……ゴフッ……」
何か言おうとするが肺に血が溜まり一言も発することができないまま伊周は痙攣するように震えてそれを最後に動かなくなった。
小学2年生の参観日。父親と母親が揃って見に来てくれた授業参観の帰り道。
風で飛ばされた黄色い帽子を追いかけて車道に飛び出した真尋は赤い乗用車に撥ねられかけた。
間一髪、父親の伊周が飛び出し真尋を突き飛ばした。
転がるように反対の歩道に尻もちをついた真尋はその瞬間を目の当たりにする。
父親が自分の代わりに赤い自動車に撥ねられる瞬間を。
ガシャンッ! プゥゥゥゥーーーーー
父親を轢いた車がハンドル操作を誤ってそのまま電柱に激突。エアバッグが開いてドライバーの男性を受け止める。
クラクションが鳴り続ける中、真尋の母親は目の前で轢かれてしまった夫に駆け寄る抱き起こす。
「あなた、あなたッ……」
何度呼び掛けても彼が再び答えることはない。その目は見開いたまま虚空を見つめ続け、妻は子供がその姿を見ていることにも気付かずに夫にすがり続けた。
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(現在)
「私が悪かったのでしょうか?」
真尋の母親が
その後の話は母親から聞かされた。
真尋の父親を轢いた車は自賠責保険が期限切れで、任意保険への加入がされていなかったために保険金を受け取れなかったこと。
真尋が飛び出し、それを庇った伊周が事故に遭ったため加害者側が賠償に関して裁判で争う姿勢を見せており、仮に請求しても生活保護を受けている運転者からは十分な賠償を受けられそうにないことなどを聞かされた。
信じられないほどありえない運転手であり不運であった。
「ほんとうはずっと真尋についていてあげたいのです……ですが、生活費にも事欠く状況で……」
やつれた表情をした母親はこのまま放っておくと最悪の選択さえも選びかねないのではないかと思えた。
実家は資産家なのだが夫である伊周と結婚する際に絶縁するように飛び出しているため、伊周が死んだからと言って帰ることができないと思っているようだ。
無理心中……彼女は責任感が強い上に、伊周を愛し過ぎていた。そして彼を失った今、孤独で追い詰められていたのだ。
やつれてなお美しい彼女は体を売るか、金持ちの愛人にでもなるか、受け入れがたくてもなまじ選択肢があるだけにその可能性は彼女を
私が精神科医としてやるべき仕事は何なのか。私は何をしたいのか。私は
「私がお子さんの面倒を見ましょうか? あくまでも入院という形ですが今のあなたが抱えるには真尋ちゃんは重すぎる」
母親はその時初めて私の顔を見た。その疲れ切った空虚な表情に光が少しだけ宿ったような気がしたのは気のせいだろうか?
「どういうことでしょうか?」
「私は真尋さんの主治医です。お子さんを診させて頂けないでしょうか?」
母親にとって私の提案は渡りに船だったのかもしれない。
しかし、彼女の心には別の思惑も混ざっていたと私は思う。それは母親としての責任から逃れたいということだ。
きっと彼女は夫を亡くした時から死ぬことばかりを考えていたのだろう。
私は自分がそんな不幸な状況に置かれたならそう望むかもしれないと思った。そしてそんな母娘の境遇はとても切なくて不憫だとも思えたのだ。
私は提案が受け入れられるとすぐに入院手続きを進めた。そして私の天使を入院させることができた。
私は精神科の医師なのだ。
これまで以上に文献に当たり先輩医師にアドバイスを貰い、人生で初めてと言っていい情熱で治療にむかい看護師たちを指導した。
父親が死んで翼が折れてもなお、天使は無垢で美しいままだった。
私はこの天使が再び飛べるようにすることに自分の医師としての全てをささげようと思った。
母親から引き離された真尋は一旦はますますふさぎ込んだ。夜明け前が一番暗いという言葉を信じ、私は院内での空き時間を全て真尋の元へ通った。
朝は真尋が起床するより早く通勤し、誰よりも遅く病院を後にした。
「おはよう」
真尋が目覚める瞬間に挨拶をする権利は誰にも渡さない。
「…………ょぅ」
その日、私は初めて天使の声を聴いた。
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追記 こちらの作品は木沢 真流様に医療監修していただいております。
ありがとうございました。
https://kakuyomu.jp/works/16818093077151693564/episodes/16818093077491729468
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