今夜、神様も惑う

ちゃんまさ

第1話 彼が死んだ理由

木戸中学校3年B組の担任、小島涼子は息を切らせながら階段を駆け上がっていた。

「──先生!小島先生!黒川君が…!」

昼休み、数分前に職員室の引き戸が激しい音を立てて開き教師達は驚いて一斉に入り口に視線を向けた、居眠りをしていた体育教師でさえも。3Bの女子生徒松田カナが肩を上下させながら叫んだ直後、涼子は弾かれたように走り出した。

「黒川君が屋上から飛び降りようとしてる!」

職員室は一階、屋上は四階図書室の真横だ。

(なんでなんで…黒川君?嘘でしょ!)

音楽教師の涼子は普段全く運動をしていなかった事を悔やみながら走る。どうして一刻も争う時にこの足は早く動かないのか、三階に上がっただけで肺が破裂しそうなくらい苦しい。

(運動が苦手だから音楽の道に進んだ…黒川君もあまり体育は得意ではなかったな…でも陸上部で…ん?今こんなこと思い出さなくても!早く早く!)

黒川千春は小柄で目立たない物静かな生徒だ。学力は中程度、都会マンモス学校ならカツアゲにあいかねないタイプだが、小学校から中学までほとんどメンバーが変わらない田舎の学校が幸いしてか彼は静かに自分の立ち位置を確保できていた、と涼子は思う。

(だからありえない、自殺とか)

ようやく灰色のドアの前に辿り着き、なんとか呼吸を整えた後冷たいドアノブに手をかけた瞬間、踊り場の窓から空気を切り裂くような悲鳴が聴こえた。

ドアノブを震える手で回し、重い鉄のドアをギイ…と押し開けると目を刺さんばかりの眩しい光と共に雲一つない冬の青空が目の前に広がる。白いコンクリートの屋上には誰もいなかった。

「黒川君…どこにいるの」

重い足を引きずりながら屋上のフェンスに近づき祈る想いで覗きこんだ瞬間、変わり果てた教え子の姿が視界に飛び込んできた。

(間に合わなかった…)

涼子はドスンと尻餅をついた。

近づいてくる救急車のサイレン、悲鳴、泣き声、叫び声に耳を塞ぎ叫んだ。それが耳に届かないように。

* *

夜勤明けで10時に家に着くと、着ていた服を全部脱ぎ、シャワーを浴びる。服は全部すぐ洗濯、酸素漂白剤をたっぷりいれて。

そこまてすると、ソファに身体を横たえることができる。高齢者グループホームに勤務する介護職員の黒川恵美は、コロナウィルスに二回罹患したことがあり、その度に10日、7日と自宅療養してください、と上司からは言われ毎回その通りにしてみるが、何か納得いかない。上司の指示にしたがって休んでいるから自分の意志ではない。常識ではわかっている。体調不良の職員が出勤できないことは。何か補償でもあれば、せめて有給を使わない欠勤にしてくれたら。何度か直談判してみたが、唯の契約社員に会社の規約を変えられる訳なかった。

その当時は休んだ分保険金でカバーできたが、

今は制度が変わって保険金は自宅療養では支払われなくなった。母子家庭の黒川家にとって死活問題である。

「もう絶対感染するわけにはいかない」と恵美は呟く。だから帰宅後すぐ洗濯するのだ。

施設の制服も、通勤服も。自分も丸洗いだ。

 長男の千春が一歳の時、夫の勝は交通事故で亡くなった。仕事帰りの暗い夜道のど真ん中を男性老人が片足を引きずりながら歩いている事に気がついた。勝は彼に駆け寄り腕をひっぱったが老人の強い抵抗により道路上で揉み合いになってしまった。(後にその老人は認知症で徘徊中だった事が判明する)そこに中型トラックが現れ、目の前の2人に気がつき急ブレーキを踏んだ──勝は老人を突き飛ばし、トラックに跳ねられてしまった。その様子は自転車で通りかかった男子高校生からの目撃情報だった。彼は一部始終を見ていたという。

「なんで…」

夫の亡骸を目の前にその言葉以外はかけられなかった。

警察の説明を聞いても「なんで?」

老人の家族は、高齢の妻のみ。介護疲れで居眠りをしている間に夫が家を出て行ってしまったという。

「申し訳ございません!居眠りなんか私がしたばっかりに…!

最近長男に鍵を2箇所つけてもらい、夫が鍵を開けて出ていく事ができなくなったので安心してしまって…」

自分の前で小さく体を丸めて震えながら嗚咽する老女を責める事などできず、自分の腕の中で眠る息子をギュッと抱きしめる事で何とか立っていられる事ができていた。

「なんで」という言葉が脳内でぐるぐる回る。

夫が残業せず1時間早く退勤していたら、あの老人には会わなかった。彼の妻が居眠りをしなければ…目撃者の高校生が傍観せず、なにか行動を起こしてくれていたら…そもそも夫が優しい人でなければ…。

(この子は夫のような優しい子に育てないようにしよう)

しかし恵美が心に誓った想いを裏切るかのように千春は自分の腕に止まる蚊さえも見守る優しい子に育っていく。

風邪もあまり引くことなく、24時間保育園を嫌がることもなかったため、恵美は施設の夜勤をこなしながら、休みの時間はできるだけ千春のために時間をさいた。2人で旅行に行った時の写真がテレビ台の横ににぎやかに飾られている。

恵美は手を伸ばして写真立ての1つを手にとった。

「また沖縄の水族館行きたいなあ…」

広々とした青い水槽の中を悠々と泳ぎ回るジンベイザメに思わず幸子のシャツの裾を強く掴んで瞳をまんまるにしていた千春がとても可愛かった。あれから沖縄には行けていない。 

「行こな…ちはる…お母さん頑張るから」

恵美の手から写真立てが滑り落ちた。

強烈な睡魔と疲労感がズブズブと恵美を眠りの沼へと引き摺り込んでいく。みているのは幸せな夢。夫と息子と3人でジンベイザメを見上げている、青い夢。

スマートフォンが13時すぎに鳴るまでは。

* *

僕は死んだ。

死ぬ方法をネットで散々調べまくって、人気No.1の首吊りは死後に便が漏れたりして恥ずかしいので却下した。僕は誰にも迷惑をかけず、かつ痛みも少ない方法でこの世の中から消えたかった。

飛び降り自殺なら落ちている途中で気を失うらしい。しかしこの町の屋上がある高い建物といったら中学校くらいしかない。

僕の家は二階建てのボロアパートだ。外階段の屋根なんて波板だから台風の度にヒビがはいる。この家で自殺なんてしたら母さんはて追い出されて路頭に迷うだろう。それは避けたい。

やっばり中学の屋上しかないんだろうか。

それなら皆が昼飯に夢中になっているうちに、サクッと飛び降りてしまいたい。僕は騒がれたりするのが1番嫌いなんだ。小学校から目立たないように息を潜めて生きてきた。

なのに…

「こんなに大騒ぎになるなんて、かな」

その声は僕の頭頂部めがけて雷のような衝撃で降ってきて、死んで痛みなど感じないはずの僕の両耳がビリビリッと激しく痛んだ。

僕の上に誰かいるなんてありえない…だって僕は今、宙に浮いて夜の校舎を見下ろしているのだ。

「誰…?」

僕が恐る恐る声の方に顔を向けると僕の額から一筋の血が流れて唇を伝い鉄の味がした。

「不味い…顔がヌルヌルして気持ち悪いって今思ってるだろ。自分のせいなのに!あはは!」

僕の目の前には僕に姿形そっくりな少年が笑っている。

そして2人とも漆黒の夜空に浮いていたのだった。























  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今夜、神様も惑う ちゃんまさ @chanmasa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る