第三十四話 「手首の内側」


 二人して、手を繋ぐ。

 彼の手首の内側を人差し指でなぞる。

 脈拍を、この男の中に流れる命を感じたかったのだ。

 私はこの少年が欲しくてたまらなかった。

 嗚呼。


「あまり手はごつごつとしていないのですね。お父さんの手は握ると、いつもゴツいと感じるのですが」

「お恥ずかしい話です。まだ成熟していないので」


 彼が顔を赤らばせながら、言い訳のように成熟していないと口にする。

 未成熟。

 ああ、そうだろう、まだ声変りを済ませたばかりの15の少年なのだ。

 私も15の少女だが、あっという間に体は大人になってしまった。

 胸は大きく、尻も大きく、足も太くて、背は高い。

 まるでグラビアモデルのようになってしまっている。

 お父さんが「男はケダモノだから近づくな」と心配するのも無理はない。

 だから、もう自分の事を下心なしで純粋な目で。

 女としてではなく、女の子として見てくれる人はいないと思っていた。

 しかし、いるのだ。

 この手を繋いでいる少年こそが、その男だ。

 この手首の内側で脈拍を感じさせる、私が力を加えれば骨ごと圧力で潰れていそうな血管の持ち主が、私の惚れた男だ。

 優しく愛撫してやりたい。

 この少年の手首の内側を、舌で舐めてやりたかった。

 だが、まだだ。

 まだ駄目だ。

 シェークスピアの「ハムレット」では『生きていくか死ぬかそれが問題だ』と進退を悩んだが。

 自分の部屋に招いて、手弱な彼を押し倒すべきか押し倒さないべきか。

 それについては問題にすべきでさえない。

 押し倒してはいけないのだ。

 親に会わせて紹介して、自室に招いて、ここで彼を襲っても文句は親から言われないだろう。

 少なくとも、一人娘に自分の15の放蕩ぶりを口にするような親なのだ。

 口にする権利は与えない。

 しかし、少年だけは駄目なのだ。

 おそらく、手を出せば彼はきっと私を嫌う。


「女の子の部屋に入るのは、どうも緊張するんですが。やはり居間にいた方が」

「お父さんが変なことを口走って、貴方を不快にさせるのもアレなので」


 適当な理由を口にする。

 嘘ではない。

 ドアを開ける。

 私の部屋だ。

 和風の畳の部屋だが、体のサイズに合わせたダブルベッドが有り、窓はカーテンで覆われている。

 下着の入った桐箪笥――さすがに淫売である橘部長のように、自分のショーツを彼に見せつける度胸はない。

 2010年代の恋愛ライトノベルが詰まったカラーボックスがある

 冬には炬燵となるテーブルが中央に配置され、後は殺風景。

 辛うじて、部屋のハンガーラックにブレザーと一緒にスカートも備え付けてあるぐらいか。

 あれだ、何分、女の子らしさがないと思われるかもしれない。

 だが、しかし。 


「良い部屋ですね」


 少年には真心で挑んだ方が良いとは思われた。

 多分、女の子らしい部屋でも、何一つない殺風景な部屋でも、彼は同じ台詞を口にしたであろう。

 そのような些細で人を貶めるような心根の持ち主ではないのだ。

 だから、ありのままを見せた。

 繰り返すが、ショーツを彼に見せつける橘部長のような淫売とは――やめておこう。

 あれはあれで効果的であったと認めよう。

 要するに、この辺りで下心が問題になってくるのだ。

 彼にはそれがない。

 橘部長にも、りこりせ地獄姉妹にも、私にも、それがない。

 私が惚れた理由は彼に下心がなく、純粋に庇護すべき女の子として見てくれるからであったが。

 そこから進展しないと言うのも問題である。

 私はすごく進展したいのだ。

 すごく。

 具体的には、お父さんのほざくような15歳の関係に進んでも良い。

 だが、彼は全く望んでいない。

 本心から、そうだ。


「そういって頂いて光栄です」


 問題は、彼は私の理想の男性であるが、彼にとって私たちは理想の女性たり得るのか?

 その疑問が付きまとっている。

 正直言えば、何もわからないで、私は恋愛に手を伸ばしている。

 橘部長もおそらくはそうであろう。

 彼のことが何もわからない。

 何も分からないのに、恋愛に手を伸ばしている。

 どうして、このような性格になったのか。

 それは生い立ちから知っている。

 だが、こうも下心なしの『立派な人物』にこだわるのは、過去に何かがあったからではないだろうか。

 そう推測する。

 だから、過去を知らなければならないのだが。


「……」


 躊躇いがあった。

 そのようにヅケヅケと彼の心に踏み入る度胸は、この私には、大和葵にはない。

 いっそのこと、誰かが勝手に彼の過去を調べてくれないだろうか。

 そうして、私にだけこっそり全てを教えてくれないだろうか。

 そう思いさえする。

 だが、期待薄どころか有り得ないだろう。

 都合の良すぎる話どころか、妄想レベルの雑念は捨てよう。

 私が自分で、彼の事を、調べなければならないのだ。

 安楽椅子探偵のように。


「大和さん?」


 部屋の中で、上目遣いで、アーモンドアイの少年が私を見た。

 抱きしめられればどれだけいいか。

 疑問符を浮かべる彼に、私は同じく疑問符を浮かべている。

 どうかしたのだろうか。


「どこに座ればいいですか?」


 嗚呼、座る場所の許可を求めているのか。

 私の膝に、あるいはベッドに体を横たえて。

 二人で一緒に寝ましょう。

 そう口走る自制心を抑えた。

 私にも羞恥心というものがある。


「テーブル横に」


 私はその正面に座ろう。

 彼の視界全てを覆いつくせるように。

 彼は頷いて、こたつテーブルの横に座った。

 私はその正面に座る。


「すみませんが、友人を供応するためのゲーム類などは一切ありません」

「いえ、僕の家も似たようなものなので」


 そうだろうな。

 彼の友人である谷垣さんには聞いてあるのだ。

 彼の家に行ったと口にしたな、では全てを吐けと。

 谷垣さんは答えた。


「別に、アイツの家には生活用品以外に何もないから一緒にカラオケに行ったぐらいだぞ? そんな情報が聞きたいのか?」


 と。

 聞きたいから口にしているのだが。

 そんなこと谷垣さんだってわかっているだろうに。


「オマエラ4人が、アイツの事を狙っているのは知っている。だが残念ながら、誰か一人に利する行為は口にしたくない。それで責められたらたまったものではないし、何より俺が友人の秘密をバラすと思うのか?」


 思わない。

 なるほど、谷垣さんは中々に良い男だ。

 彼には劣るが。

 友人の秘密をそう易々と口にはしてくれないだろう。


「お前が知りたいことを知っていても、俺は喋らない。本人に聞け。それで嫌われないようにおっかなびっくり、注意しながらな」


 そういって、谷垣さんは去っていった。

 中々に難しい。

 あまりにも彼の過去に踏み込みすぎると嫌われると言うのが、谷垣さんの考えであった。

 であれば、少しづつ距離を狭めていくしかない。

 嗚呼、じれったい!

 恋とはここまで人に焦燥を与えるものなのだろうか。

 同時に怯懦にするものだろうか。

 先ほどの人差し指の感触を思い出す。

 嗚呼、彼は私に対して確かに好意を抱いているけれど、手を繋がれても、女の子の部屋に連れて行っても。

 特に脈拍が早くなるということはなかった。

 少しくらい、動揺してくれてもよいのにと思う。

 そうすれば。

 そこを支点にして、今頃彼を押し倒すことも出来ていた。


「大和さん?」

「お腹すきましたね」


 少し呆けていたようだ。

 心配する彼の言葉に対して、いつもの腹ペコキャラで誤魔化す。

 私はお腹が空いて晩御飯が待ち遠しかっただけなのだ。

 決して、ごはんよりも彼が食べたいと思っていたわけではないと。

 そういう言い訳をする。


「ちょっと、お父さんと喋ることになると思いますが大丈夫ですか?」


 父を利用しよう。

 父は色々な質問をするだろう。

 何か、彼についての批点を見つけることに躍起になるだろう。

 中学生の頃はどうしてた?

 高校生になってからの生活はどうだ?

 そうか、親がいないのか、叔父宅での生活はどのようなものだったか。

 そういった質問だ。

 私には決して根掘り葉掘り聞けないことをだ。

 頑張れお父さん。

 どうか、秘鑰を。

 彼の心を破るための鍵を見つけ出してくれ。

 彼を形成したその全てを。

 過去に何があったのか、私はどうしても知りたかった。


「大丈夫ですよ。何一つ恥じ入る点はないので心配しないでください」


 胸を張って、ぴんとした姿勢で座る彼に。

 私は押し倒したい、押し倒したい、押し倒しても誰も文句は言わないはず。

 女が男を力任せに押し倒して、何が悪いのか。

 抵抗できない方が悪いのではないか。

 そんなことを考えながら、ずっと我慢をし続けていた。

 産まれて初めて肉を目の前でぶら下げられた、肉食獣のように。





―――――――――――――――――――――――





作品の足下を照らして道行きを示すため、カンテラ(感想)を宜しくお願いします。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る