第三十二話 「月が綺麗ですね」
『夜歩く』、彼と。
二人きり、二人きり。
二人だ、私と彼だけだ。
この表通りの学生通りにおいてさえ、夜の十時も回れば学生は一人もいない。
テナントはシャッターで閉じており、人など全く通らない。
邪魔者の橘部長はこの場にいない。
今頃、ぽかぽかと父親を拳で殴っている頃合いだろう。
あの部長の計画は失敗倒れに終わったのだ。
そう心の中で呟いて、のしのしと歩く。
ぴょんぴょんと跳ねたい気分ですらあるのだが、代わりに地面を噛み締めた。
私は貴方と、うすぼんやりの殺虫灯の下、ずっとこうして夜道を歩いていたいのですと。
そのような本音の言葉さえ飛び出しそうになるのを、必死に抑えているのだ。
手を繋ぎたいのも必死に抑えている。
あの卑しい女、橘部長でさえやっていない行為だ。
まだ早いように思えた。
そろそろ梅雨明けだ。
重苦しいブレザーを彼はもう着ていない。
半袖のワイシャツ姿で、ネクタイを丁寧に結んだ彼の姿に胸が高まる。
肌は白くて、腕にはうっすらとした筋肉がついていて。
やや筋肉質な痩身がかえって彼の中性的な容姿に、男としての魅力を感じさせてくれた。
押し倒したい。
正直言えば、押し倒したい。
ただ、それをやってしまえば彼は引くだろう。
二度と会ってくれないとかはないだろうが、関係が気まずくなるのは避けたい。
橘部長や地獄姉妹に対する隙を作ることとなる。
だから、こうして我慢をしているのだ。
夜歩く。
彼とともに。
「私の家にも来てくれませんか? 橘部長の家にだけいくのはズルいです」
ふと、言葉が漏れた。
計画的な言葉ではない。
本当に、そうして欲しいと思って口にした言葉であった。
彼が不思議そうに首をひねり、疑問を口にした。
私は再び告げた。
「あれです。私だって女の子です。夜道を二人、男性と歩いていると聞けば。さて、どんな男と歩いているものか? と父が心配しまして」
嘘ではない。
被害当事者である橘部長への批判こそしないが、また奇妙なことに巻き込まれたものだ。
それで、お前が守ってやりたいと言う男の子はどういった人物なのかね。
私はお父さんに胸を張ってこたえた。
将来、結婚したいと思っていますと。
お父さんは言葉に詰まり、何も言わなかった。
お父さんはその夜、ぐでぐでになるまで深酒をして、寝床に泣きながら入っていったが。
嘘ではないのだ。
将来、彼と結婚したいと思っている。
私が一方的に思っているだけで、彼がそれに応じてくれるにはまだ時間がかかる。
その現状は理解している。
「ようするに、親御さんに挨拶すればよいんですよね? お眼鏡にかなうかどうかは分かりませんが」
彼が快諾した。
ああ、そんなところなのだ。
どこにでも飛び込んでいける、そんな彼が好きなのだ。
私の家に連れてきた人間は、友人であるクラスメイトさえ、その300坪を超える豪邸を見て引くのだが。
彼は引かない。
きっと彼は皇宮に連れて行ったところで物怖じなどしないだろう。
そんなところに強く惹かれたのだ。
「来ていただけるという解釈でいいんですよね? 菓子折は、駅前のデパートの今川焼きでお願いします」
とりあえず、お父さんの好物について伝えておく。
これぐらいは優しくしておいてやろう。
多分、お父さんは貰ったところで泣きながらに、それを夜に食べるのだろうが。
私と同じ、健啖家の父であった。
閑話休題。
くだらない話はそろそろ止めておこう。
本題に入る。
じい、と彼を見つめて口にした。
「背の高い女性はお嫌いですか?」
これだ、この質問だ。
ずっと疑問に思っていた。
さて、この彼の優しさは下心混じりなのか、それとも男女区別なしの優しさなのか。
ずっと気になっている。
私を女の子として見てくれていることは、十二分に知っている。
問題は、『女』としての興味範疇か否かである。
もし否であれば。
きっと私は泣いてしまう。
二、三のやり取りをして。
「大和さんは僕から見ても、素敵な女性ですよ」
言質を取る。
ルール①、彼は優しい嘘はついても、卑劣な嘘を決してつかない。
ルール②、彼は私のことを女の子として見てくれている。
ルール③、彼は真実を口にするとき、真っすぐに視線を合わせる。
私が彼との会話の間で、見つけ出したルールの三つだ。
彼は真っすぐに視線を合わせて。
私を素敵な女性と口にしてくれた。
嗚呼。
なれば、これは好意だ。
間違いなく、彼は私に『男として女への』好意を抱いてくれている。
「嬉しいです。褒めていただいて」
口からハミングが漏れ出る。
交響曲第9番、ベートーヴェンの『歓喜の歌』である。
足元が泡立って、空でも飛べそうであった。
彼からの私に対する好意を明確に認識できた。
それだけでも大いなる収穫である。
問題は。
それがどれだけの愛情なのかは判別できないことだが。
もう少し探るか。
「いい月ですね」
空を仰ぎ見て口にする。
夏目漱石が「アイラブユー」と例えた俗説をなぞる。
彼を愛しているとまでは直接口にしない。
ただ、彼とみる満月ならば綺麗だと口にしただけである。
彼の返答を待つ。
ゆらりと。
「見る人に 物のあはれをしらすれば 月やこの世の鏡なるらむ」
返ってきたのは和歌だった。
合意だ。
これはもう合意だろう。
月が綺麗ですねと口にしたら、和歌が戻ってきたのだ。
そりゃあもう純文学学会的には合意でしかないだろう。
和歌の意味はわからない。
だけれど、私の心臓はドクリと跳ね飛んだ。
私は震える口で何かを呟いて。
それに対する返答は。
「ねえ、大和さん。あの月より大和さんの方が美しいですよ」
夏目漱石の俗説を上回る、完全合意だった。
浚っちまおうか。
くらりと、そんな思考が頭に浮かぶ。
いけない、いけない。
これでは地獄姉妹の考え方と一緒だ。
このまま彼を押し倒して、羽交い絞めにして商店街のラブホテルへと連れ去る。
そんな行為は許されていない。
だって、『彼はそれを望んでいない』と私は知っている。
恋愛は人生の秘鑰なり。男女相愛して後始めて社界の真相を知る。
恋愛至上主義なる言葉を諳んじる。
私から彼を身勝手に選んでも、きっと彼はそれに答えない。
応じない。
少なくとも、今はまだだ。
相愛の段階に至っていない。
それを私は知っている。
だから、私は。
「そういうものですか。僕なんかに言われて嬉しいものですか」
「そういうものですよ。貴方だから嬉しいんですよ」
ただただ、彼の言葉に対して、素直に自身の本音を肯定して。
時を待つのだ。
やがて彼を狩る、その日を待ち遠しくしながらに。
狩猟の夜は何処に?
私が彼を狩る許可は何処で得られる?
きっとそれは、もっと関係を深めてからの夜だった。
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視点変更いるか?と思いつつも投稿します。
作品の足下を照らして道行きを示すため、カンテラ(感想)を宜しくお願いします。
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