第三十一話 「私の家にも来てくれませんか?」
橘部長の家でご両親に挨拶を終えて、帰路につく。
のっしのっしとナウマンゾウのように足音をさせながら歩く、大和さんと歩調を合わせながら。
僕は彼女の顔を見た。
彼女が、ふと不思議な事を言い出したからだ。
「私の家にも来てくれませんか? 橘部長の家にだけいくのはズルいです」
大和さんは確かにそう口にした。
僕は首をひねる。
「というと? 何か親御さんが心配されているとか? 橘部長の諸事情に関する説明は、もう済んでいるんですよね。理由がよくわかりません」
「済んでおります。なんというか――心配と言えば、そうかも」
大和さんが、僕を上から見下ろしながら口にする。
先ほどロールキャベツを一人で10個も食べた大きな口先を尖らせつつ、うーんと唸る。
「あれです。私だって女の子です。夜道を二人、男性と歩いていると聞けば。さて、どんな男と歩いているものか? と父が心配しまして」
「ああ、なるほど」
そりゃ心配だろう。
親御さんだって、変な男と夜道を歩かせたくなんかないだろう。
僕がマトモかどうかを証明する必要がある。
男の義務であった。
「ようするに、親御さんに挨拶すればよいんですよね? お眼鏡にかなうかどうかは分かりませんが」
「きっと父の眼鏡にかなうかと。ついでに夕食を一緒になんてどうでしょうか?」
「お邪魔ではないでしょうか? 菓子折などを包んで行くべきでしょうか?」
色々と考える。
橘部長の家に出向いた際は土産を固辞されていたので、用意しなかったのだが。
「来ていただけるという解釈でいいんですよね? 菓子折は、駅前のデパートの今川焼きでお願いします」
「えーと、ご家族でお食べになる量でいいんですよね」
「はい」
10個入りでよいかな。
最悪、大和さんが一人で全部食べるだろうが。
なんでこんなにもこの人は腹ペコなんだろうかと、ふと疑問に思う。
「大和さんはよく食べますね」
「1日5000キロカロリーは摂らないと、体が持たないんですよ。体重が減るんです」
それは以前にも聞いた。
オリンピックレベルの一流アスリートが、12000キロカロリーを一日で消費すると言われているが。
まあ、成長期で筋肉質な大和さんの体格だと、それくらいは必要か。
体重は失礼だから聞かないが、身長190cmにグラビアモデルのような体格だ。
さぞかしお腹もすくだろう。
「なんですか。どうしてもお腹が空くんですよね。未だに背が伸びて困っています」
「別に悪いことではないのでは?」
「この身長が必要かどうかと言われると疑問なんですよね。私にはもう不要です」
随分と羨ましいことを言う。
僕などは身長が欲しくてたまらないのだが。
ふと、大和さんがこちらをじい、と見つめた。
「何でしょう?」
「背の高い女性はお嫌いですか?」
急な質問だ。
答えは決まっている。
「僕は身長で女性の甲乙が決まると思っていませんが?」
「ようするにお嫌いと」
大和さんが、しょんぼりと眉を落とした。
いや、違う。
違うが、要するに彼女が言って欲しい言葉があるのは僕にも理解している。
「違いますよ。いえ、ハッキリと言いますよ。僕は自分より背が高い女性は大好きですよ」
「本当に? 身長190cmを超えていても守備範囲内ですか?」
「本当にです。守備範囲内ですよ」
僕は正直に自分の本心を応えて、続いて言って欲しいであろう言葉を述べる。
「大和さんは僕から見ても、素敵な女性ですよ」
リップサービスではない。
本心本音でそう思っている。
大和さんも、橘部長も、りこりせ先輩達も僕には十二分に守備範囲内だし、素敵な女性だと思っている。
二人きりの状態で、それは言わないが。
あまり、比較されても良い気はしないだろうしな。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
沈黙が落ちる。
その状況から、突然に頭上からハミング。
大和さんが嬉しそうに微笑んで、ハミングを歌っているのだ。
交響曲第9番、ベートーヴェンの『歓喜の歌』であった。
よくハミングで歌える物だな。
「嬉しいです。褒めていただいて」
途中ハミングを止め、台詞を挟む。
そんなに喜ぶ程の台詞だったろうか?
まあ、貴方が好みだと賛辞されて嫌がる女も――いや、いたか。
勘違いをしてはいけない。
かつて、いたじゃないか。
僕のことをハッキリと嫌いだと口にした女性が。
「~~~♪」
第九を歌っている。
大和さんのそんなハミングを聴きながら、僕は懊悩している。
何で駄目だったんだろうなと、ふと思うときがある。
僕は愛を告白して、その相手にお前なんか大嫌いだと言われた過去がある。
それこそ、親無しと嘲笑われてまで。
何が駄目なんだったろうな。
繰り返すが、それに尽きる。
どうしても、あの時の事が心のしこりとなって残っている。
理由はいくらか思いつく。
僕は彼女の環境を踏まえて、彼女に嫌われるような真似をしなかったとは、死んでも言えない。
やはり、下心があったからだろうな。
ふと、そんなことを考える。
自分にこのような行為をすれば彼女に気に入ってもらえるだろうとか。
こうすれば、彼女に気に入ってもらえる人物になれるだろうとか。
そんな下心が何もかも台無しにした気がしている。
僕は彼女の総てを理解したつもりだったが、全くもってそうではなかったからフラれたのだ。
「いい月ですね」
思考に沈もうとして。
大和さんが空を仰ぎ見ていた。
背筋をぐんと伸ばして、夜空を見上げる。
梅雨にしては雲もなく、今宵は満月であった。
「見る人に 物のあはれをしらすれば 月やこの世の鏡なるらむ」
ふと口から短歌がこぼれ出た。
見る人に“物の哀れ”を知らせるとすれば、月こそがこの世の鏡なのだろうか、と。
そんな意味の短歌であるが――僕が最も知りたい心の機微を。
かつて初恋の人が抱いた感情を理解する方法を、月は映し出してくれなかった。
「風情ですね。歌の意味はわかりませんが」
唐突に短歌を口にした僕を、大和さんは気持ち悪がることもなく、ただ讃えた。
初恋の彼女であれば、僕の事を気持ち悪いとすぐ口にして罵ったであろうが。
本当に人によって対応が異なるものだ。
ただただ、僕は月について考える。
月と言えば様々な人の話があるものだ。
僕が尊敬する小説家であれば夏目漱石がいるが、こんな俗説がある。
アイラブユーを「月が綺麗ですね」ぐらいにオブラートに訳すのが日本的で美しいのだと。
だが、僕は違うぞ。
「ねえ、大和さん。あの月より大和さんの方が美しいですよ」
俗説上の夏目漱石が、ハッキリと口にしなかった言葉を口にする。
これくらいのリップサービスは男子としてするべきであろう。
大和さんが、驚愕したように目を見開いて、そうして、頷いた。
「私、そんなこと言われたの、貴方が初めてです」
「そうですか? 男なら誰でも同じことを大和さんになら口にしそうなセリフです」
「他の人に言われても、嬉しくもなんともありませんが?」
大和さんが首を傾げながらに呟く。
そういうものだろうか。
大和さんを口説こうとする相手など、この世に腐るほどいそうなものだが。
僕だって――自分の好意に確実に応えてくれると言うならば、大和さんに告白していたのかもしれない。
仮定だが。
あくまでも仮定で――僕なんかが大和さんに告白したところで応じてもらえるとは思えない。
それに、なんだ。
「好きだ」とか「愛している」とかいう意味が、僕にはなんだかわからなくなってしまっているのだから。
「そういうものですか。僕なんかに言われて嬉しいものですか」
「そういうものですよ。貴方だから嬉しいんですよ」
僕たちは二人、夜道を歩きながらにそう口にした。
なんとなく感傷的で、月の美しい夜道であった。
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作品の足下を照らして道行きを示すため、カンテラ(感想)を宜しくお願いします。
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